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81 〈幻夢(VR)〉で師弟の饗宴を

 この世界を訪れて半年が過ぎた。太平軒での仕事もすっかり板につき、六畳一間での生活も、銭湯で先代達と世間話をするのも、すっかり馴染んでいた。

 料理の修行も順調に進み、今では大半の料理を任されるまでになった。ヨシアキさんも厨房に入り、最近では二人で回すことも増えている。

 先日など、店長と女将さんを一泊二日の旅行に送り出したりした。店を開店してからというもの、休みらしい休みを殆ど取っていなかった二人に対する、俺達からの心ばかりの贈り物だ。

「お前らに店を預けるなんざ、世も末だな」

 出発の際にも、店長の憎まれ口は変わらない。

「貴方、皆ならもう充分に店を回せるわよ。折角の機会なんだし、楽しんできましょう?」

 女将さんはニコニコと微笑んでいる。店長は鼻を鳴らすと、何も言わずに出かけて行った。女将さんも「宜しくね」と残し、後を追う。近場の温泉に一泊の旅行だが、楽しんでほしいものだ。

 店長達抜きの営業も無事に終わり、リフレッシュした店長達を交えて営業を終えたある日、夕食の席で唐突に店長が、

「なす、お前も一人前だな」

 と突然言い出した。あまりに唐突なため、俺は飯を喉に詰まらせると、慌てて味噌汁で流し込む。

「店長、いきなりですね」

 息を整えた俺の言葉に、店長は鼻を鳴らし、

「お前の呑み込みの早さには呆れたよ。これが天賦の才ってやつなんだろうな。今のお前は俺と遜色ない。もう教えることはねぇよ」

 と言う。手離しの称讃に、俺は目を丸くした。確かに腕は上がったと思っていたけど、まさか店長と同格になっているとは…。

「私から見ても、なすさんの腕は見事よ。ヨシが二人いるみたいだもの」

 女将さんもそう言ってニコニコと笑っている。俺は沸き上がる喜びを抑えつつ、頭を下げる。

「ありがとうございます」

「そんで、どうするんだ?」

 店長の言葉に首を傾げ、

「どうする、とは?」

「お前は誰かに料理を作るために、ここで働いていたんだろうが。いよいよ巣立ちの時なんじゃねぇのか?」

 疑問を口にした俺に対し、店長はそう促してきた。その瞳に一抹の寂しさを感じたのは、気のせいだろうか?

「そうですね。そろそろ挑戦しても良いかもしれません。ここでの生活が楽しくて、忘れかけていましたよ」

 俺の言葉に、店長はフンと鼻を鳴らし、ガツガツと飯を掻き込んだ。

「そう、寂しくなるわねぇ」

 女将さんも、残念そうに笑う。ヨシアキさんもサツキさんも、俺の事情を知るだけに止めることはできないと、頷きつつも寂しそうだ。

 こんなに大事に思われていることに、胸に膨らむ去りがたい気持ちを抑え、俺は頷く。

「次の火曜日、挑戦することにします。そこで、お願いがあるのですが」

「お願い?」

「はい。料理を作る際、店長とヨシアキさんにも手伝ってもらいたいんです。ここでの修行の集大成として、太平軒の一員として挑戦したいんです」

 俺の言葉に、二人は目を丸くしたが、店長はそっぽを向きつつ、ヨシアキさんは嬉しそうに頷いてくれた。

「やりましょう、俺達の手で最高の料理を作るんです!」

「弟子の最後の晴れ舞台、きっちり見届けてやる」

 二人の言葉に、俺も笑顔で頷いた。

「宜しくお願いします!」



「へぇ、とうとう作ってくれるんだね。楽しみだなぁ」

 俺は銭湯で会ったミカに、次の火曜日、料理を作ることを伝えた。湯船に浸かり、タオルを頭の上に乗せ、鼻歌交じりに上機嫌なミカは、それを聞くと嬉しそうに笑う。

 これまでもミカとは色々な所で会っていたが、料理に関しては一度も触れて来なかった。普通なら進捗状況を確認したり、催促の一つがあってもおかしくはないが、そんなことはおくびにも出さないミカに、俺は好感を持っていた。

「それで、お願いがあるんですが」

「何だい?」

「最高の料理、ということなので、出来立てを食べてもらいたいんです。そこで、提供の場を『太平軒』にしたいのですが」

 俺の提案に、ミカは、

「良いよ」

 と即答する。あっさりと通ったことに拍子抜けしつつ、

「時間はどうしましょう?」

 と尋ねると、

「そっちの都合で構わないけど、そうだなぁ、折角だからお昼にしようか」

 とミカは言う。俺は頷いて、

「では、火曜日の正午ということで。お待ちしています」

「分かった。お腹を減らして行くよ」

 と伝える。ミカは笑顔で頷くと、浴場から出ていった。機嫌が良いのは分かるんだが、タオルを振り回すのは止めて欲しい。今は他の客がいないからいいけど…。

 俺は誰もいなくなった浴槽に頭まで沈み込む。そして、水飛沫を上げながら勢い良く跳び出すと、両手で頬を叩き、気合を入れた。

 いよいよ試練への挑戦だ!



「というわけで、来週の火曜、正午にこの店で作ることになりました」

「どうして『というわけ』なのかは分からねぇが、馴染んだここで良いっていうんなら是非に及ばず、だ。それで何を作るんだ?」

 ミカへと話を伝えた俺は、その日の夜、夕食の席で皆へと報告する。店長は勝手に決めたことを怒るかと思ったが、太平軒を使うことに対し、意外にも乗り気だ。

 ヨシアキさんは、俺が料理を供する相手がミカであると知り、興奮に震えている。聞いてみると、ミカはこの界隈で知らぬ者無き食通で、彼が認めた店は、ミシュランの三ツ星以上に評価されるそうだ。

 ミカの認める店は、格式や料理の内容に囚われることなく様々で、そんな相手に料理を振舞うと聞いて、期待と不安に身を震わせている。

 スマラ達も手伝うことは出来ないが、当日は応援団になってくれるそうだ。女将さんやサツキさんも含め、女性陣の熱い応援を受けられるなら、ヤル気も嫌が応にも高まるというものだ。

「でも、親父が作るなら大丈夫じゃないか?」

 ヨシアキさんの言葉に、店長は鼻を鳴らすとそっぽを向く。その姿に俺は訳が分からずに首を傾げていると、

「親父は以前、ミシュランの三ツ星がついた店の料理人だったんだ」

 とヨシアキさん。


 …なんだって!!


 俺は、伝えられた衝撃の事実に言葉を失う。店長は相変わらずそっぽを向いたまま黙っている。代わりに女将さんが、

「確かにヨシは昔、三ツ星レストランで料理をしていたわね。でも、オーナーと揉めて店を飛び出し、この店を作ったのよ」

 と笑顔で教えてくれた。その説明を聞き、俺は納得する。店長が作る料理のやり方は、大衆食堂のそれとは思えなかったし、特に洋食のやり方は洗練されていた。三ツ星レストランのシェフならば、頷ける。

「…古い話だ。今は関係ねぇ」

 顔を顰めたまま、ポツリと店長が言う。あまり触れて良い話題じゃないな。俺は気を取り直すと、先ほどの問いに答える。

「そうですね、料理はアレでいこうと思います」

「アレ?」

 店長の問いに、俺は頷き、

「はい。ここに来て初めて食べた料理の一つ、ここで修行して、初めて店長に『旨い』と言われた料理です」

 と答える。店長は眉を上げ、口元には小さく笑みが浮かぶ。ヨシアキさんも頷いていた。

 スマラ達にも好評で、賄いとして何度も作った料理。

「相掛けカツハヤシカレーで勝負します」

 俺は宣言と共に皆を見回す。俺を見返す視線、その全てが俺の決定を後押ししてくれているのが分かる。

 泣いても笑っても、本番は来週の火曜。それまでに少しでも腕を上げよう、そう心に誓った俺は、心の中で決意を新たにするのであった。



「やあ、来たよ」

 暖簾の掛かっていない、普段なら閉じている扉を開け、ミカが姿を現した。相変わらず飄々とした態度で、慣れ親しんだ常連の様に、するりと席に着く。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 笑顔のミカに、俺も笑顔で答えた。既に仕込みは済んでいる。後は作るだけだ。

「それじゃあ、早速作ってもらおうかな」

「畏まりました」

 ミカの言葉に、俺は頭を下げると厨房へと戻る。背後ではウェイトレス姿のエメロードとマグダレナが、甲斐甲斐しくミカの相手をしている。

 普段ならあり得ない対応だが、ミカは満足そうに注がれた冷水を飲み、暖かいオシボリで顔を拭いている。おっさん臭い行動なのに、不思議と絵になるのは神様故に、だろうか。

 厨房へ戻った俺は、店長とヨシアキさんと頷き合う。俺はトンカツを、店長はハヤシのルゥを、ヨシアキさんがカレーのルゥをそれぞれ担当する。

 使う食材やルゥは俺が仕込んだものだ。とはいえ、ルゥに関してはここ数ヶ月俺が店で出すものを仕込んでいたので、そのまま流用している。

 店長にもお墨付きをもらっているので、太平軒としての味にしっかりと仕上がっているルゥは、人気も上々で以前よりも数が出るくらいだ。

 そのルゥを使い、親子が仕上げていく。ヨシアキさんも腕を上げ、最近では店長譲りの舌を活かして、ソースやルゥといった、味付け方面で活躍していた。

 本来なら味を決めるのは店長の仕事なのだが、ヨシアキさんのそれは店長と遜色のないレベルに達している。それは店長も認めざるを得ないものであり、あれこそ天賦の才なのだと、俺は何度も頷いたものだ。

 俺はトンカツを揚げる音に耳を立て、僅かな音の変化に対応していく。普通であれば聞き取れないような僅かな変化を感じ取り、俺はすぐさまカツを引き上げると、隣のフライヤーへと移す。

 こうして二度揚げをすることで、外はサクサク、中はジューシーで柔らかい極厚のトンカツが出来上がるのだ。

 しかも、今回は普段やっていない工夫も加えている。音が変わり、しっかりと揚がったことを確認し、俺はフライバットにカツを引き上げた。

「上がったぞ」

「こっちもできました」

 油が程よく切れるころ、タイミング良く店長達からも声が掛かる。俺は頷いてライスを皿に盛ると、手早く切り揃えたカツを乗せる。そこにハヤシルゥとカレールゥをバランス良く掛けていく。

 最後に乾燥パセリを散らし、箸休めのラッキョウと福神漬けを用意すると、カウンターに運んだ。

 料理を運ぶのは女将さんだ。ミカは運ばれて来た料理に目を輝かせると、両手を擦り合わせて待ち構える。

「お待たせいたしました。相掛けカツハヤシカレーです」

「待ってました! ほほぅ、これがヴァイナスの用意した最高の料理か!」

 待ちきれない様子で、ミカは早速スプーンを手に取り、カツごとライスを掬う。

「まずは…、ハヤシからだな」

 そう呟くと、ミカは一口で頬張った。もぐもぐと咀嚼し、ゴクリと飲み込むと、プルプルと肩を震わせる。

「次は、カレーを試すとするか」

 そう言ってやはりカツごとライスを掬い、口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼し、ゴクリと嚥下すると、再び肩を震わせた。

「…旨い!」

 ミカの口から零れた一言に、俺は思わずガッツポーズをする。店長とヨシアキさんも片や小さく、片や俺と同じように大きくガッツポーズをしていた。

「カレーもハヤシも、長い時間を掛けて煮込まれた深い味わいがする。肉や野菜の仕込みも丁寧で、調和が取れている」

 言葉を重ねながら、ミカのスプーンは留まることを知らずに、次々と咥内へと料理を運び入れる。

「カツも絶品だ。これ程の厚みを持つカツが、生焼けにもせず、焦げ付かせることもなく、しっかりと揚がっている。しかも…」

 そう言ったミカの視線の先には、肉の合間から流れ落ちる黄色い存在があった。

「肉の合間に挟み込まれたチーズが、更に味わいを深めている」

 ミカはそう言って頷くと、流れ出たチーズをルゥと絡め、器用に掬い取ってライスと共に口へと運ぶ。

「しかも、複数のチーズを組み合わせているな。その上で味が喧嘩することなく、絶妙のバランスで成り立っている」

 ミカは頷きつつスプーンを進め、あっという間に食べ終えてしまう。そう、これが俺が施した工夫だ。俺達が食べるときは上から掛けていたチーズを、カツの間に挟んだのだ。

 こうすることでチーズにしっかりと熱が伝わり、トロトロのチーズを楽しむことができる。そして、肉汁と混ざり合って何ともいえない旨味を感じることができるのだ。

「ヴァイナス、お代わりだ!」

 皿を上げ、注文するミカに対し、俺は笑顔で答える。

「承りました。ご注文ありがとうございます」

 既に次のカツは揚げてある。俺は店長達と笑顔で頷くと、お代わりの用意に移るのだった。



「ふぅ、美味しく頂かせてもらったよ。満足だ」

 その後、五杯もお代わりを重ねたミカは、満足そうに腹を摩ると、冷水を片手に笑顔を浮かべる。

 流石に五杯も食べるとは思っていなかったので、カツが足りなくなり、慌てて他の揚げ物で代用することになったのだが、メンチカツやコロッケ、魚のフライも気に入ったらしく、次々とミカの胃袋の中に消えていった。

「ハヤシとカレーを一つに掛けるのは良い工夫だな。異なる味を楽しむことができるし、混ぜて食べても旨い」

「本来はお店で出すわけじゃなく、賄いなんですけどね」

 ミカの言葉に、厨房から出た俺は笑顔で答える。

「そうなのか。店では出していないと?」

「出さないわけじゃないですけど、メニューには載せていませんね。常連の知る人ぞ知るメニューです」

「そうか。であれば、俺が通う時には是非とも注文することにしよう」

 そう言って頷くミカに、俺は無言で頭を下げた。そして、

「俺が用意できる最高の料理、いかがでしたか?」

 と尋ねる。ミカはニヤリと笑うと、

「あれだけお代わりを重ねたのに、態々聞く必要があるのか? 言っただろう、満足したと」

「それじゃあ…」

「勿論、合格だ! この『試練』、見事達成だ」

 ミカの言葉に、俺は再度胸の前で拳を握った。背後からはエメロード達の歓声が上がる。

「さて、早速だが『門』を開くか?」

 ミカの問いに、俺は首を振り、

「いえ、店長達と話すこともあります。明日でも良いですか?」

「構わんよ。それなら明日、神社で会おう」

 と答えると、ミカは頷いて席を立った。そして、

「『太平軒』いい店だ。店長、良い店を作ったな」

 これからは贔屓にさせてもらう。そう言い残し、去っていった。

 ミカの姿が店から消えた途端、エメロードとマグダレナが飛びついて来た。

「やったねマスター!」

「おめでとう、無事試練を突破ね」

 二人に挟まれてもみくちゃにされながら、それでも俺は笑顔で頷く。そこに他の皆も集まって来た。

「これでお前さんの目的は達成されたってわけだ」

「はい、お世話になりました」

 店長が差し出す手を、俺はしっかりと握る。

「…行くのか?」

「…はい」

 手を握ったまま、一抹の寂しさを目元に浮かべ、問いかける店長に俺はしっかりと頷く。

「それじゃあ、夜は送別会ね! ご馳走を一杯作りましょう!」

 女将さんがパチリと手を打ちながら、そう提案する。

「良いですね! 俺も頑張って作りますよ!」

 ヨシアキさんは早速袖を捲っている。サツキさんも笑っている。

「本来なら、もてなすのは送る側だが、お前も何か一品作れ。俺達もお前の料理を食べたいからな」

 店長の言葉に、グッとくるものを堪えながら、俺は頷いた。今の俺にできる料理で、最高のものを作ろう。

 出発の準備がある俺達は、店長達と別れて下宿へと戻る。料理の材料を揃えて戻ることを伝え、俺達は下宿へと戻り、出発へ向けての準備を進めるのだった。



「それじゃあ、始めるか」

 店長の言葉に、皆はグラスを掲げる。準備を終えた俺達は、太平軒に戻ると、俺や店長、ヨシアキさんは料理を作り、スマラ達は店内の準備を進めた。

 因みに、俺はここぞとばかりに、こちらで手に入る品物を買い込んでいる。砂糖や各種調味料といったものから、歯ブラシや洗剤、石鹸といった生活用品、更には麻雀や雀マット、ダーツやビリヤードといった娯楽用品まで、詰め込めるだけ詰め込んでいる。

 電化製品の類は、向こうでは使えないだろうということで、殆ど購入していない。それでも電気カミソリやポラロイドカメラ、携帯型のテープレコーダーといった、嵩張らないもので、電池で使える比較的役に立ちそうなものだけは買ってあるが。

 真ん中に寄せたテーブルの上には、酒の他に俺達が作った料理が所狭しと並べられている。古今東西、和洋折衷の料理が並ぶ様は、中々混沌としていて圧巻だ。

「なす、音頭を取れ」

 いきなり振られた俺は居住まいを正しつつ、

「数奇な縁に導かれ、ここに集いし者たちの、これからの健康とご多幸を祈って、乾杯!」

「「「乾杯!!」」」

 俺の音頭と共に、打ち合わされるグラス。そこからは皆自由気ままに振舞った。

 スマラはここぞとばかりに、こちらでしか手に入らない酒を次々とグラスに注いでいる。特に気に入った銘柄は、〈極光の宴〉の杯に注ぎ、登録することも忘れていない。

 エメロードとマグダレナは、すっかり仲良くなったサツキさんとの話に華を咲かせていた。その様子を女将さんは笑顔で見守っている。

 一方で俺達男性陣は、お気に入りの肴をつまみに、静かに酒を酌み交わしている。

「本当に行っちゃうんですね…」

 ヨシアキさんが寂しそうに笑う。この半年ですっかり意気投合した俺達は、休みの日にも連れ立って遊ぶほどの仲になっていた。

 この商店街からは出られないので、遊びの種類は限られるのだが、麻雀をやったり、ビリヤードをやったり、日がな一日喫茶店で、珈琲を飲みながら下らない話に興じたりと、ヨシアキさんは俺に付き合ってくれた。

 お互い切磋琢磨するライバルであり、気の置けない間柄になった俺と別れるのは、ヨシアキさんにとって、言葉にできないものがあるようだ。

 それは俺も同じ気持ちだった。けれど、俺はいつまでもここで過ごすわけにはいかない。ここでの生活は決して忘れることはないだろう、そう思いつつも一抹の寂しさを消すことはできなかった。

「いつか、一人前になったら、俺の料理を食べに来てください」

 ヨシアキさんはそう言って、俺の杯に酒を注ぐ。

「そうですね。またいつか」

 決して叶うことのないであろう、続くべき約束の言葉を、注がれた酒と共に呑み込んだ。お互いに分かっていても、嘘はつきたくなかった。

「どこへ行こうと、お前は俺の弟子だ。その味は変わろうとも、変わらない部分もある。大事にしろ」

 店長はそう言いながら、静かに酒を注いだ。俺は頷き、黙って飲み干す。

 それぞれの過ごし方ではあったが、忘れることのない思い出として、この日の夜は更けていった。



「それでは、お世話になりました」

 太平軒の前で、俺達は店長達に別れを告げる。見送りはここで、ということにしたのは、ミカが開いた『門』を通るところを見せたくなかったからだ。

 見送りには太平軒の人たち以外にも、仲良くなった商店街の人たちや先代組長の姿もある。彼らも最後にと集まってくれたのだ。

 余計な気遣いなのかもしれないが、太平軒での『日常』に、『異世界(オーラムハロム)』を持ち込むことは、何だが違う気がしたのだ。ここからは、あくまで『普通の人』として去りたかった。

「落ち着いたら、連絡をよこせよ」

「分かりました」

 店長の言葉に、俺は頷く。もう二度と会うことはないだろう、恩師の言葉にただ頷いた。

「皆、元気でね」

 女将さんの言葉に、スマラ達も頷いている。ヨシアキさんとサツキさんは、溢れる涙を隠そうともせずに、ひたすらに手を振っている。似たもの夫婦になりそうな二人の様子に、思わず笑みが浮かぶ。

 他の皆からも餞別や別れの言葉を受けながら、去り難い気持ちをぐっと堪え、

「「「さようなら!」」」

 俺達はもう一度頭を下げると、身を翻す。目指すはミカの待つ神社。いよいよこの『世界』ともお別れだ。



「やあ、待ってたよ」

 神社の鳥居を潜ると、ミカが笑顔で待っていた。

「それじゃあ『門』を開こうか」

 ミカはそう言って何かを唱えると、鳥居が光に包まれ、鳥居が次の『世界』へと繋がる『門』となる。スマラ達が〈合一〉した装備を身に着け、

「お世話になりました」

「いやいや、お世話なんて全くしてないよ。旨い料理を食べさせてくれて、ありがとう。また会えると良いね」

 俺が頭を下げると、ミカはひらひらと手を振って笑う。今度会う時はもっと美味い料理を期待しているよ。そんなミカの言葉を背に受けて、俺達は『門』を潜る。

 この先に待つのは、どういった『試練』なのか。それとも、全ての試練を達成したとして、〈稀人の試練〉から出られるのだろうか。

 期待と不安を胸に秘め、俺は『門』へと足を踏み入れた。


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