80 〈幻夢(VR)〉で任侠を見る
「さて、次は八連荘か」
徹底的に攻められ、最早気力だけで打つ雀士たちに対し、俺はそう宣言する。
俺の親は未だ続いている。余程堪えたのか、あれからの彼らの打ち方は消極的に過ぎるものだった。
俺が張ったと見るやベタ降りを繰り返し、振り込みを恐れて立直をかけない。早く終われと言わんばかりにノミ手で上がろうとする。最早、逆転しようという気概は失われていた。
下家も男も巻き込まれ、既にマイナスの数字はおかしなことになっている。記録を着けている店員の顔も蒼白だ。
エメロードとマグダレナはそんな空気を読むこともなく、喜んでいる。
「ヴァイナス強い!」「マスター凄い~!」
と言いながら、楽しそうに観戦していた。
下家の男が賽子を振る。緊張していたのか、賽子が卓を飛び出してしまった。慌てて拾う男の様子に、内心苦笑する。
少々追い込み過ぎたか? だが、イカサマで借金をさせるようなことをしている奴らに、同情は不要だ。もう二度とやれないようにしておかないとな。
再度振られた賽子は2。対面の割れ目だ。最早割れることに恐怖しかない、と言わんばかりに、震える手で配牌をしていく。
ふむ、最後までこんな手が来るとはね…。
これが現実世界だったら、事故にでも会うんじゃないだろうか。配牌を確認した俺は、思わず苦笑する。まぁ、精々恐怖を植え付けるとしようか。
三人は俺の捨て牌に集中する。決して振り込まないという意思が透けて見えるようだった。俺は気にせずに淡々と進める。
やがて、手が来たのだろう、下家の男が嬉々として、
「立直」
と宣言した。余程いい手が来たのだろう。だが、男の表情には、これで俺の親が終わるという安堵が現れている。
それに触発されたのか、対面と上家の男まで、
「立直」
と宣言してきた。トリプル立直か、彼らも意地を見せてきたということかな。
だが、俺は慌てずにゆっくりと牌を切る。三人の目に失望の色が現れ、だれも上がらないことを確認し、敢えて手を晒した。
「さあ、立直はかけないぜ。お前らの〈幸運〉はどれだけある?」
晒された牌に、男たちは総立ちになる。俺の手牌は全て幺九牌。しかも同じ牌は一つとしてなかった。
国士無双 十三面待ち
立直を掛けた以上、自摸れなければ切るしかない。まずは下家の男。震える手を必死で抑え、牌を自摸る。その表情が落胆に染まった。項垂れるままに切られた牌を見て、対面と上家の男が呻き声を上げ、首を振った。
残念ながら、俺の当たり牌でもない。さて、次は?
ゴクリと鍔を飲み込み、対面の男が自摸る。その瞬間、男は立ち上がり、喉から声なき叫びが響き渡った。そして力を失い、膝から頽れる。
男の手から零れた牌を、記録を着けていた店員が拾う。そして、恐る恐る卓へと戻した。
白
店員が対面の手牌を確認し、首を振る。どうやら上がり牌ではなかったらしい。ということは、
「ロン、ダブル役満、割れ目だな」
彼らにとっての悪夢は、まだ終わらないらしい。すると、下家の男が土下座をし、ここで終わらせてくれ! と懇願してきた。上家の男も同時に土下座する。
ルール的にハコテンがないので、どうしたものかと考えていると、店員が小さな声で特別ルールを提案してきた。
特別ルールとして、トップ以外の人間が、ハコ分のマイナスを加算すれば、強制的に投了できるらしい。この場合は、三人がそれぞれハコ分のマイナスを受けることで投了にできるわけだ。
まあいい加減疲れてきたし、それでいいかと了承する。
店員は慌てて集計結果を持ち、部屋を出ていった。さて、結果的に随分と稼がせて貰ったな。三人のマイナスはそれぞれ20万点近い。さっきのマイナスを含めると、現金で600万以上は確実だ。
ご愁傷様。
俺は内心で彼らに手を合わせる。どうやって払うのかは分からないが、俺としては貰うものはキッチリ貰うつもりだ。
暫く待っていると、俺を案内してきた若い男が笑顔で入ってくる。
「いやぁ、お強いですね。彼らが手も足も出ないとは」
そう言って手を広げるが、表情とは裏腹に、目が全く笑っていなかった。俺も笑顔を返した。
さて、どうでるかな?
「お客様の勝ち分は、少々金額が大きくなっております。ここでお渡しするのは難しいので、別室にて改めてお渡ししたいのですが?」
男の言葉に、俺は頷いた。別室か。果たしてまともに払う気があるのかな?
男の案内で、店の奥へと向かう。エレベーターに乗り、地下へと降りる。通路を先導して歩く男が扉の前で止まり、
「こちらの通路を進んだ部屋でお待ちください。用意が終わり次第、お持ちしますので」
と言った。俺は頷いて扉の奥へと進む。
扉を開くと、その先も通路になっていた。通路に足を踏み入れると、背後の扉が施錠される、小さな音が聞こえた。
やはり、まともに払うつもりはないか…。俺は肩を竦めると、通路を先に進んで行く。すると、奥からは日本では嗅ぎ慣れぬ、だがある意味慣れ親しんだ匂いが漂って来た。
それは獣臭と血臭。この先には、何が待っているのやら。
通路の先は、小さな闘技場のような造りになっていた。掘り下げられた舞台を取り囲むように高い壁があり、高い天井との間に、太いワイヤーで編まれたフェンスが頭上を覆っている。
俺達が擂鉢状になった場所へと歩を進めると、背後の通路が、轟音を立てて降りてきた鉄格子によって塞がれる。
「おい、これはどういうことだ?」
俺はフェンスの外側で、ニヤニヤと笑みを浮かべる若い男に質問する。
「いやはや、まさかうちの代打ち達が手も足も出ないとはね。あんたのような雀鬼は初めてだよ。一体どうやってサマを仕込んだのやら」
「生憎と、イカサマなんて仕込んでないがな」
「確かに、代打ち達の誰一人としてサマを見抜いちゃいないがね。だが、仕込んであろうがなかろうが、あんたはやり過ぎたんだよ。あんたほどの腕があるなら、程々に勝っておけば良かったんだ」
俺の反論にも、耳を貸す気はないらしい。まぁ当然か。元々イカサマに嵌めて借金を背負わせるのが目的の麻雀だ。はなから払う気などないのだろう。
「それで、こんな場所に連れて来てどうするつもりだ?」
「なに、俺達相手にイカサマをやった報いを受けさせてやろうと思ってね。ここはうちが経営する裏の闘犬場だ」
男がそう言うと、反対側の入り口の方から、唸り声が聞こえてくる。
「本来なら、お抱えの闘犬同士が闘うんだが、定期的に闘犬達の訓練をする必要がある。特に闘争心を鍛えることが重要で、生きた獲物を狩らせることで、獲物に対する闘争心を鍛えるわけだ」
すると、奥から激しく吠える声が伝わってくる。見ると、鎖で繋がれた大型の闘犬が5頭、檻ごと運ばれてきていた。闘犬の入った檻は次々と入り口に並べられていく。
「さて、大人しくイカサマを認め、ペナルティとして今回の勝ち分、600万を支払うなら、そこから出してやる。払えないなら、借金でも構わんぞ?」
男はそう言って、手に持った紙をひらひらとたなびかせる。
「おっと、嬢ちゃんたちは別だ。大人しく従うなら、良い思いをさせてやるぜ?」
男はそう言って欲望に満ちた笑みを浮かべた。なんともまぁ、露骨すぎて言葉もなかった。もう少し手が込んだやり方だと思っていたのだが、ここまで分かり易いとは。
「ねぇねぇマスター、あの犬たちと戦うの?」
エメロードは首を傾げる。まぁそうだよな。見たところ、檻の中で吠えている闘犬たちは、あくまでも現実世界の闘犬と同等の強さに見える。つまり、今の俺達にとって、何ら脅威とは成り得ないということだ。
エメロードにもそれは分かっているようで、逆に戸惑っているのだ。あんな弱い犬で良いのか? と。
「それで、あの男は何を言っているのかしら?」
「大方、貴方たちを好き勝手に弄べると思ってるんでしょ」
影から姿を現したスマラが、呆れた声でマグダレナに答えていた。
「それで、ヴァイナスどうするの?」
「うーん、どうとでもなるけど、まずは意思表示しておくか」
マグダレナの問いに、俺は男へと向き直り、
「悪いが、イカサマを認めるつもりも、借金を背負うつもりもない。それに、こんなやり方をされちゃあ、こっちにも考えがある」
「ほほう、この状況で強がりを言えるとは恐れ入った。それならば、望み通り、闘犬達の相手をしてもらおうか!」
男はやれ! と合図を出す。合図を受けた係の者が、闘犬達を檻から解き放った。
舞台に立つ獲物目掛けて、闘犬達は唸りを上げて襲い掛かる、かに見えた。
ギン
たった一睨み、それだけを持ってエメロードが発した「威」を受けて、闘犬達は一様に竦み上がり、尻尾を股の間に隠し縮こまるか、腹を出して恭順の意を示す。
どうやら、闘犬達は理解したらしい。目の前の存在が、自分たちでは手も足も出ない「脅威」であるということに。
「な、なんだ!? おい、どうなってる!」
闘犬達のあり得ない様子に、男はその場で喚き立てた。係の者が嗾けようとするが、闘犬達は一向に動こうとしない。それどころか、係の者に食い掛り、爪を立てられた係の者が悲鳴を上げる。
「くそっ、どうなってやがる!? また何か仕込みやがったか!? まあいい、こうなりゃ手間が増えるが構わねぇ。お前ら、ぶっ殺せ!」
業を煮やした男は、控えていた手下に命じると、手下たちは手に手に鉄パイプやゴルフクラブ、匕首や日本刀を手にすると、次々とこちらへと向かって来た。
「お前ら全員、バラシて海に撒いてやるよ!」
手下が俺達を取り囲むと、男は勝ち誇ったように叫んだ。俺は肩を竦めると、
「エメ、マグ、人化を解いて良いぞ」
「え、良いの?」
「ただし、殺さないようにな」
俺の言葉に、エメロードとマグダレナは嬉しそうに返事をする。ここに来てからは窮屈な思いをさせていたからな。ここらで発散しても良いだろう。
二人は嬉々として人化を解く。一瞬にして姿を変えた二人を、手下たちは呆然と見つめていた。
「…え?」
その場に立ち竦む手下たちを、強烈な風が襲う。それはエメロードが繰り出した翼風だったが、巻き込まれた者は一人として耐えることができずに吹き飛ばされ、壁へと叩きつけられる。
「ぎゃああ!」
反対側では、炎に包まれた男たちが、必死に転げまわって服に着いた火を消そうと躍起になっていた。
マグダレナが唱えた【火球】の魔法が男たちを襲ったのだ。手加減されているとはいえ、何もない状態から、いきなり服が燃やされたという事実に、男たちはパニックに陥る。
「な、何だってんだ…? 俺は夢でも見ているのか?」
目の前で起きたことが理解できないのか、若い男は呆然と見つめている。やがて、俺たち以外に立つ者がいなくなり、呻き声をあげる手下の様子が現実であると理解した男は、わなわなと震えると、踵を返して逃げ出そうとする。
悪いが、逃がす気はない。俺は【瞬移】の魔法を唱え、男の前に回り込むと、召喚した〈肆耀成す焔〉を首筋へと突き付けた。
「ひぃ!」
いきなり目の前に現れた俺に、男は悲鳴を上げるとその場に立ち竦む。俺は剣を突き付けたまま、
「さて、説明してもらおうかな?」
と問いかけると、男は観念したのか、その場にへたり込む。その手から離れた証文が、ひらひらと宙に舞い上がった。
「お、俺に何かあれば、ここから生きて出ることはできないぞ」
呻き声を上げる手下や係の者たちを、解き放った闘犬と共に闘技場へと閉じ込めた俺達は、若い男を尋問していた。
「別に出るのは簡単なんだがな。一応後腐れのないようにしておかないとな」
男の言葉に、俺は淡々と答える。ゆっくりと近づく刃先に、男は悲鳴を上げて離れようとするが、再び人化したエメロードに抑えられているため、離れることもできずに呻いていた。
「俺から要求することは、不当なイカサマで嵌めた上で、無理矢理交わした借金の証文は全てチャラにすること。これからは、そういう阿漕な『商売』は決してやらないと誓うことだ」
俺はそう言って〈肆耀成す焔〉を近づけていく。退くこともできず、徐々に近づく刃を見て、男は震えながら、
「わ、分かった! もう二度とやらない、約束する! だから殺さないでくれぇ!」
と叫んだ。こいつの口約束じゃあ信用できないよなぁ。俺はどうすれば良いだろうかと考えていると、
「一体、これは何の騒ぎじゃ?」
と言いながら姿を現したのは、銭湯で一緒だった老人だ。
「おや、兄さん、物騒なもんぶら下げて、うちの若いのが粗相をしたかね?」
若い男に剣を突き付ける俺を見ても、動じることなく老人は問いかけてきた。俺は剣を突き付けたまま、
「理不尽な要求を力づくで通そうとしてきたので、少々お灸を据えてやっただけですよ」
と答えた。この老人も只者ではないのだろう。こんな状況を見て、動じない一般人は明らかにおかしい。口ぶりから、翔鳳会の関係者だろうとは思うが。
「先代…」
若い男はばつが悪そうにそう言うと、そのまま黙って俯いてしまう。
先代、か。どうやら老人は、翔鳳会の先代組長のようだ。俺は剣を突き付けたまま、事のあらましを老人に伝えた。
老人の表情が見る見るうちに変わっていく。そして、若い男を張り倒すと、その場で土下座した。
「儂が常々言い聞かせていたことが、こうも護られていないとは。決してカタギの衆には迷惑をかけぬ、それが渡世人だというのに」
老人は頭を地に擦りつけたまま、言葉を続ける。
「この度の不始末、決して足りるとは思いませんが、不肖、この儂の命を持って償わせて頂きます」
老人はそう言って、懐から匕首を取り出すと鞘を抜き放ち、自らの胸へと突き立てようとする。
その腕を取り、俺は老人の行為を遮った。
「貴方の命一つで済ませるのは簡単ですが、それだけでは何の解決にもなりませんよ。それよりも、これから先、こういった事がないようにしてもらうことこそ、責任を果たすということじゃないですか?」
呆然と俺を見つめる老人に、俺は笑顔で話しかける。手から離れた匕首がカランと転がると、老人は何度も頷き、
「分かりました。老い先短いこの身なれど、儂の命がある限り、決してこのようなことがないよう、厳しく躾けて参ります」
「宜しくお願いします」
と答えた。俺も頭を下げる。
「まぁこいつらが逆恨みで襲ってくるようなら、容赦しませんが良いですね?」
「ご随意に」
俺の言葉に、老人はゆっくりと頷いた。男はガクガクと震えている。俺の本気と殺意が伝わったようで何よりだ。
「さて、用事は済んだし、帰ろうか」
後の始末は老人に任せ、俺達は帰ることにする。老人は正当な勝ち分は払うと言って来たのだが、俺は笑って断った。
「イカサマ麻雀で勝つつもりはないですから」
俺の言葉に、老人はキョトンとした顔をし、すぐさま呵呵と笑い、
「今度また、一局打ちましょう」
と言う。俺も頷き、
「はい、約束です」
と返した。これで上手く収まってくれると良いんだけど。そうすれば、後は心置きなく料理を学んで、最高の料理を作るだけだ。俺はスマラ達と連れ立って、闘技場を後にした。
「ありがとうございます!」
俺が事の顛末を伝えると、ヨシアキはそう言って、その場で土下座をする。
「頭を上げて下さい。別に俺は大したことをしてませんよ」
老人にも相談し、今回のことは先代組長が正したという形を取ってもらった。
不正に交わされた借金は全て無効とされ、先代直々に頭を下げるという形で謝罪される。そして、迷惑料として、借金と同額を渡されたことで、皆矛を収めることにしたらしい。
身売りを強要された女性たちにも、然るべき対処を約束され、問題の中心を取り仕切っていた若い男( 今代の若頭だったらしい )とその取り巻きは、立場を最下級まで落とされたうえ、無償で働かされることになった。
サツキさん( 例の女性だ )も無事に身売りすることなく済んだのだが、クラブ勤めを辞め、大学に通う傍ら、太平軒を手伝うことにしたそうだ。
詫びとして支払われた500万を、父親から容赦なく取り上げたことで、学費の目途が立ったのだ。
「どうせ持っていても、ギャンブルで使っちゃうんだから」
そう言って笑顔で頭を下げるサツキさんに、俺も笑顔で頷いた。
「もう頭を上げて下さい。それで、これからどうするんです?」
「…親父に頼んで、もう一度働かせてもらおうと思います」
俺の問いに、土下座を解いたヨシアキさんは、ハッキリと答えた。既に女将さんには話を通しているそうで、後は店長だけだという。
「修行から逃げ出した後、俺なりに料理の勉強は続けていました。結局、俺には料理しかなかったから。クラブの厨房でも、俺なりに必死にやっていたんです」
ヨシアキさんはそう言って頭を掻く。
「我武者羅にやってみて、改めて親父の凄さが分かりました。同時に、俺がどれだけ甘い考えしてたのかって。遠回りになりましたが、もう一度、しっかりとやりたい」
そして一人前になって、サツキと一緒になる。ヨシアキさんの言葉に、サツキさんも頬を染め、けれど嬉しそうに頷いた。
この二人なら、立派にやっていけるに違いない。俺は頷くと、同僚になる未来の店長と女将さんを、どうやって店長に認めさせるのか、頭を悩ませるのだった。
「次に投げ出したら、今度こそ勘当だ」
土下座をするヨシアキさんの横で、頭を下げた俺達に対し、店長はゆっくりと、だがハッキリと言葉を口にした。
「親父、ありがとう!」
「ありがとうございます!」
俺達の感謝の言葉に、店長は不機嫌そうに顔を背けると、
「今までサボった分、徹底的に鍛え直してやるから、覚悟しろ」
と言い、厨房の奥へと引っ込んでしまった。その様子を後ろで見ていた女将さんは、苦笑しながら後を追う。
ヨシアキさんは目に涙を浮かべると、改めて俺に頭を下げる。俺はそんな彼の肩を叩き、
「これからは同じ立場です。お互いに切磋琢磨しましょう」
と言って、彼の手を取り握手を交わす。ヨシアキさんは俺の手を両手で握ると、
「ああ、宜しく頼む!」
と笑顔で頷いた。明日からは新生太平軒の営業となる。俺は改めてヤル気を漲らせると、拳を握り締めるのだった。
「はい、こちら太平軒!」
『注文良いかい? 味噌ラーメン大盛りとオムライス、餃子を二人前頼む』
「注文ありがとうございます。お届けはどちらまで?」
『住所は…』
注文内容と住所をメモに取りながら、俺は電話の対応を続けた。ヨシアキさんが加わり、仕事に余裕のできた太平軒は、取りやめていた出前を再開することにした。
行動できる範囲が広がったとはいえ、この商店街から出ることができない俺達は、「地理に不案内」ということを理由に、店内の仕事を中心に行っている。出前は専らヨシアキさんの仕事だ。
「まずは皿洗いからだ」
ヨシアキさんの最初の仕事は、皿洗いをしながら、料理の技術を見て盗む、という基本からやり直すことになった。腕を見るのは昼の賄い。先日までは俺がやっていたことだ。
俺はというと、店長と交代で担当していた、夕食の賄いを完全に任され、厨房で店長の補佐をすることになった。
今の担当は炒め物と揚げ物全般で、漸く店長から許可が下り、一から全てを仕上げている。客の流れを見て準備を進める手際も、何とか形になってきた。
「マスター、八宝菜と麻婆豆腐、回鍋肉!」
「了解!」
エメロードの注文に、俺は返事を返すと鍋を取った。店長が自分の料理を勧めながら、横目で俺の仕事を観察する。
「はいお待ち!」
出来上がった料理をカウンターに並べると、エメロードが笑顔で客の元へと運んで行く。それを見た店長は、小さく頷いていた。
「出前の品、上がったぞ!」
「はい!」
店長の言葉に、皿を洗っていたヨシアキさんが答えると、岡持ちに料理を収めていく。代わりに皿を下げてきたサツキさんが、そのまま洗い場へと入った。
「行ってきます!」
ヨシアキさんはそう言って、裏口から出ていく。出前を始めたばかりなのに、注文の電話がどんどん掛かって来る。折角人が増えたのに、忙しさは増した気がする。
女将さんは嬉しい悲鳴を上げながらも、笑顔で接客していた。それはエメロードも、サツキさんも、俺やヨシアキさんも笑顔だ。店長ですら、口元に小さく笑みを浮かべている。
このまま、ここで働くのも良いかもしれない。
一瞬頭を過ぎった考えに、慌てて首を振る。俺はここの試練をクリアして、〈稀人の試練〉を攻略するのだ。そして、現実世界へと帰る。
一時の充実感に囚われそうになる気持ちを奮い立たせ、今は目の前の仕事に集中しないと。
まずは、店長に認められ、自信を以て最高の料理を作る。そして、ミカを唸らせるのだ。決意を新たに、俺は留まることのない注文を捌くべく、腕を振るうのだった。




