77 〈幻夢(VR)〉で日本を満喫する
「それで、お前ら宿はどこなんだ?」
「それが、まだ決まっていなくて…」
明日から料理修行を兼ねて「太平軒」で働くことになった俺達だったが、店主の言葉に、俺は首を竦めて答えた。
勢いで料理修行をお願いしたが、その間の衣食住に関しては全く考えていなかった。まぁ、食に関しては〈聖餐の食卓掛〉があるから問題はないが、衣は兎も角( 洗濯さえできれば何とかなる )、住に関しては如何ともし難い。
最悪路上生活という手もあるが、下手をするとそのまま警察のご厄介になる可能性もある。出来得るなら、俺達が行動できる区画にホテルとかがあれば良いんだけど、ここ、商店街だしなぁ…。
「やれやれ、仕方ねぇな」
店主はそう言って肩を竦めると、女将さんに、
「今、服屋の上の下宿、空いてたよな?」
「そうね、前に使ってた人は半年前に出てっているから」
「確認しておくか」
「分かったわ。行ってくるわ」
女将さんはそう言って出掛けて行った。店主は俺達に向き直り、
「金は持ってるんだったな。服屋の上に部屋がある。俺の名前で借りるから、そこを使え」
「良いんですか?」
「良いも何も、面倒を見ると決めたんだ。寝るところがなけりゃ困るだろうが」
店主の言葉に、俺は黙って頭を下げた。スマラ達もそれに続く。店主は照れ臭そうにそっぽを向いた。
「確認してきたわ。大丈夫だって」
女将さんが戻って報告してくれた。店主は頷いて、
「取り敢えず何にもない部屋だが、必要な物は明日揃えりゃいい。金貨は預けてくれりゃあ質屋で換金してやるよ」
「ありがとうございます」
「お礼は良いから、まずは部屋に行かないと。案内するわ」
再び頭を下げた俺達を、女将さんが笑って促す。俺達はもう一度頭を下げ、女将さんの案内で下宿へと向かった。
下宿は服屋の2階にある、6畳一間の小さな部屋だった。トイレと小さな台所はあるが、風呂は無し。近くに銭湯があるということなので、明日確認してみよう。
「それじゃあ、また明日ね」
「はい、ありがとうございました。おやすみなさい」
下宿の鍵を受け取り、笑顔で手を振る女将さんに挨拶をして、俺達は部屋に入る。
「ここは靴を脱いで上がるんだ」
「へぇ、面白いね」
俺の言葉に、エメロードは靴を脱いで部屋に入る。俺達も靴を脱ぐと、部屋に入った。
「…やっぱり狭いな」
「仕方ないんじゃない? 私は【変身】を解けば良いから問題ないわ」
「私たちは人化したままね」
「でも、寝るだけでしょ? わたしマスターと一緒に寝るの好き!」
腰鞄から毛布を取り出し、寝床を作りながら俺が不満を口にすると、スマラ達からは前向きな意見が返ってきた。スマラも猫に戻り、さっさと用意した毛布の上で丸くなった。
俺は苦笑しながら準備を終えた。エメロード達も寝る準備を整える。
「明日は、この部屋で使うものを揃えないとな」
「家具とか?」
「家具よりは、石鹼や歯ブラシ、洗剤とかだな。料理のための包丁やまな板、フライパンや鍋も必要かも」
「野営用の道具じゃダメ?」
「流用できるものはそれでいいけど。まぁ確認してからだな」
毛布に潜り込みながら、スマラ達の質問に答えていく。何にせよ、明日になってからだ。両側から挟み込むように毛布へ潜り込んで来たエメロードとマグダレナの温もりを感じつつ、俺は瞳を閉じる。明日からの「生活」に、期待と不安を抱きながら。
「取り敢えず、こんなところかな」
翌朝、目を覚ました俺達は太平軒へと向かい、挨拶をした。店主は既に仕込みを始めており、俺が手伝おうとすると、
「今日は手伝わなくていい。まずは生活に必要なものを揃えてこい」
と言われ、女将さんが用意してくれた朝食を食べると、渡された茶封筒の中身を確認した。そこには見慣れないお札が束で入っている。
「これは?」
「当座の生活費よ。貴方が預けてくれた金貨を換金すれば、もっと渡せるわ」
取り出してみると、一万円と書かれたお札が20枚入っていた。だが、このお札は見たことのないデザインだった。昔のお札なのかな? これを見ただけでも、ここが俺がいた日本(現実世界)ではないことが感じられた。
「こんなに…?」
「預かった金貨が換金できれば、100万円位になるんでしょ? まずは先渡し分よ」
そう言って笑顔で頷く女将さん。俺は頭を下げ、有難く受け取った。先程、換金用に金貨を100枚渡している。どれ位必要になるか分からないが、それだけあれば半年は何とかなるだろう。
「やっぱり少しは受け取ってもらわないと」
「良いのよ。あなた達に給料を払うわけじゃないんだし、ちゃんと働いてくれれば、それだけで充分よ」
謝礼を頑なに受け取ろうとしない女将さんに、何度か繰り返した問答をするが、笑って首を振る女将さんに、俺は黙って頭を下げた。
「そういや、ばいなす以外の名前、聞いてなかったな」
「それを言ったら、俺達、まだ二人の名前を知りませんよ?」
店主の問いに、俺も問い返す。その問いに、店主は頭を掻きながら、
「そういや、俺達も名乗ってなかったか。ヨシナリだ。ヨシって呼ばれている」
「私はアキラよ。アキって呼んでね」
「私はスマラグトゥス」
「マグダレナよ」
「エメロード!」
俺達は、改めてお互いに自己紹介を済ませ、ヨシナリとアキラの勧めに従い、必要なものの買い出しに出かけるのだった。
「それがお金? 紙のお金って珍しいわね」
マグダレナが、俺の手の中にある紙幣をしげしげと見つめる。確かに、オーラムハロムでは見たことないだろうしな。
紙幣はその価値を保証してくれる「国家」があり、その価値を認めてくれる他者との間での「信頼」があって初めて成立するものだし。
「ちゃんと価値があると皆が認めれば、これはこれで便利なんだぜ」
「ふうん? マスターは知ってるの?」
「俺達〈異邦人〉の国では、一般的に使われているものだからな」
「そうね、向こう(地球)じゃ当たり前のことよ」
エメロードの問いに、俺とスマラが答える。やっぱり、スマラには現実世界の知識があるようだ。態々AIに知識を持たせるとは、開発者も酔狂なことをするよな。プログラムが重くなるだけだろうに。
まぁ、どちらの世界の知識もあるNPCがいれば、ゲームを進行する際に助けとなることは間違いないし、プレイヤーも安心できる。
良く考えれば、いちいち専属の人間を用意するのはコスト的にも大変だろうし、これだけのAIが作れるなら、そんなことをするよりも、結果として安上がりだ。
これだけ「人間味」溢れるAI達だ。プログラムが相手という無機質感は全く感じていない。俺はオーラムハロムの充実ぶりを感じつつ、買い物を勤しむことする。
「マスター、これなに?」
「これは歯ブラシっていってね。葉を磨くためのものだよ」
「? ふーん、それってマスターが食事の後に噛んでる、サラマの葉みたいに使うの?」
「これは噛まないで、歯を擦って磨くんだけどね」
「面白―い。わたしもやってみたい」
エメロードは興味を持ったのか、立ち寄った雑貨屋で歯ブラシを手に取り、喜んでいる。俺の持つ買い物籠に、気に入った色の歯ブラシを次々と投げ込んでいた。
まぁ、予備があってもいいか。〈稀人の試練〉からはダンジョン内で手に入れたアイテムは持ち出せるみたいだし、折角の機会だから、持って帰って便利なアイテムは手に入れておこう。
それにしても、こうやって買い物をしていると、ここがいつの日本を参考にして創られた「世界」なのかが気になった。
少なくても「現在」ではないことは明らかだ。俺自身が見たことのないお札、500円玉がなく、代わりに500円札( ! )があった。
そして、周囲の人々はPS( ポータブルセクレタリ、現在の携帯情報端末としては最も一般的なものだ。身分証から財布なども全て賄っている )はおろか、ひと昔前のスマートフォンすら持っていないのだ。
その代わりなのだろうか、煙草屋の軒先には、薄桃色をした固定電話が置かれている。ダイヤル式の電話なんて、初めて見たぞ。
そして物価もかなり安い。今買っている歯ブラシも、俺が知らないメーカーだが、ワンコインショップで売られている物よりも、明らかに質が良いのが分かるのに、価格は80円ほど。
他にもインスタントラーメンやお菓子類、洗剤や調味料といったものを確認しても、大体現在の物価の半分くらいな印象だ。
なので、今持っている20万があれば、かなりの品物を買うことができるわけだ。
幸い、衣服は違和感さえ考えなければ持っているし、食器も普段野営で使っているものが流用できる。
備え付けのコンロがIHでなくガスコンロだったのも有難い。普段焚火で使っている鍋やフライパンがそのまま使えるからな。
「ねぇマスター、これはなに?」
「ヴァイナス、これは?」
目に映るもの、全てが新鮮なエメロードとマグダレナは、次々と視線を変えながら、質問を重ねてくる。
俺は丁寧に答えつつ、俺にも分からないものは店員を捕まえて聞きながら、いつとも知れない日本での買い物を楽しんだ。
そして、買い物をしている時に気付いたことがある。商店街の中で、俺達が行ける場所が増えていたのだ。
昨日は太平軒の裏口から出た一面のみだったが、太平軒があるブロックを囲むように、周回する通りまで行けるようになっていたのだ。
新たに行けるようになった場所も、確認していく。その中で、一番嬉しかったのが、「銭湯」に行けるようになったことだ。
銭湯の話を聞いた時、昨日までのエリアにはなかったので、どうしたものかと頭を抱えていたのだ。これで毎日風呂に入ることができる。昨日は入ることができなかったので、荷物を置いた俺達は、早速風呂に入ることにした。
昼前ということもあり、客の姿は殆どなかった。これなら悪目立ちはしないだろう。銭湯は当然混浴ではないので、俺は番台に座る女性にスマラ達の世話をお願いする。
「すいません、銭湯を使うのは初めてで、勝手が分からないんですが」
「あら、外人さん? 日本語上手ねぇ」
「ありがとうございます。それで、彼女たちに作法を教えて欲しいんですけど」
俺の言葉に、女性はスマラ達を見て、
「あらあら、綺麗な人たちね。良いわよ。今の時間なら空いているし、こちらへどうぞ」
笑顔の女性に続いて、スマラ達は女湯へと向かう。俺は男湯に行き、( 実は初体験である )銭湯にわくわくしていた。
着替えを置き、財布をロッカーに仕舞い込む。鍵のついたリストバンドを左手に填め、タオルを持って風呂場に向かう。この辺は旅館の浴場と大きくは変わらないな。
風呂場に入ると、まず目に飛び込んできたのが、奥の壁に描かれた富士山の絵だ。広い浴槽の側面に描かれていて、湯船を海に見立てているのか、とても目立っている。
そして、規則正しく並んだ蛇口と小さな椅子、裏返しに置かれた黄色い洗面器。シャワーはなく、蛇口から出るお湯を洗面器に汲んで使うようだ。
俺は手近な椅子に近づき、洗面器へお湯を張ると、まずは身体を洗う。
備え付けの石鹸はないので、持参した石鹸を使い、タオルに擦りつけると、身体を洗っていく。
身体が終わり、続いて顔を、最後に髪を洗い、泡を流したら、いよいよ湯船に浸かる。
俺以外の数少ない客がしているように、俺も絞ったタオルを頭の上に乗せ、ゆっくりと湯船に浸かった。
少し熱めの湯に浸かると、自然と声が漏れた。そのまま肩まで浸かり、暫しお湯を堪能する。
「よう兄さん、良い身体してるねぇ。運動選手かい?」
先に湯船に浸かっていた老人が、話しかけてきた。
「いえ、そうではないんですが。まぁ肉体労働なので自然と」
「おっ、日本語上手いねぇ外人さん」
老人の言葉に、俺は曖昧に笑って答える。まぁ、容姿じゃ日本人とは分かるまい。説明するのも面倒だったので、そのまま流した。
「こんな時間に風呂に入るたぁ、観光かい? この辺じゃああまり見るとこはないだろうが」
「観光というわけじゃないんですよ。故あって太平軒で働くことになりまして」
「太平軒? ヨシ坊のところで? こりゃ珍しい。あいつも顔が広いなぁ。まああいつなら驚くことはないが」
俺の答えに、老人はタオルで顔を拭きながら頷いている。ヨシナリさん、顔が広いんだ。まぁ食堂をやってるくらいだし、人と接する機会は多そうだよな。
「俺も偶に食いに行くから、そん時はご馳走してくれ」
「まだ働いてもいない身の上ですが、頑張ります」
そう言って笑う老人と、他愛ない話をしながら、俺は初体験の銭湯を堪能した。
「やっぱ、風呂上りはこれだろう!」
風呂から上がった俺は、扇風機の前で仁王立ちし、腰に手を当てて、購入したコーヒー牛乳を一気飲みした。
いや、一度これ、やってみたかったんだよね。今じゃ瓶入りのコーヒー牛乳なんて殆ど売ってないし、旅館にはなかったからな。
風呂上がりの火照った身体に、冷たいコーヒー牛乳が染み込んでいくのが分かる。
「くぅ~っ、この一杯のために生きてるよなぁ!」
どこかで聞いたような台詞を叫びつつ、俺はパンツ一丁で扇風機の風を浴びながら、汗を退かせるために涼んでいた。いやはや極楽、極楽。
スマラ達は、ゆっくりとお湯に浸かっているのだろう。長湯が苦手な俺は、汗が退いたところで服を身に着け、外で待とうと脱衣場を出た。すると、そこに見知った顔がいるのに気づき、思わず声を掛ける。
「…奇遇ですね、こんなところで会うとは」
「おっ? 君も朝から銭湯とは通だねぇ。風呂はやっぱり朝湯に限る!」
俺の皮肉交じりの問いかけに、満面の笑顔で答えたのは、この『世界』を管理する神( ? )、ミカだった。
「神様でも風呂に入るんですね」
「当然。禊は大事な日課だよ? そもそも神の習慣を真似て、人々が取り入れたんだからさ」
ミカはそう言うと、手慣れた様子で番台の女性に金を払い、鼻歌交じりに脱衣場へと向かう。
「あの、それでいつ貴方に料理を作れば良いんですか?」
「うん? 何時でも良いぞ」
俺の問いに、ミカは首だけを巡らせて答えた。
「何時でも、と言われても…」
「こちとら神だからな。俺にとって『刻』とはあまり重要な要素じゃあない。大事なのは、俺という存在を満たしてくれるもの。つまりは『想い』だ」
ミカはそう言って、肩から掛けていたタオルをクルクルと振り回す。俺が首を傾げると、
「別に難しいことじゃない。それは『信仰心』とか『崇拝』と言う言葉に置き換えたって構わないさ。ヒトの俺に対する『想い』、それさえあれば、俺は存在する意義があるし、存在しようと思えるのさ」
ミカの言葉に、やはり首を傾げてしまう。はっきり言って良く分からなかった。
「分からんなら、それでもいいさ。要は、お前が俺のために作る最高の料理ができると思った時に、作りに来てくれ」
待ってるぜ、そう言ってミカはスパンと首にタオルを巻きつけると、笑いながら脱衣場へと消えていった。
俺は肩を竦めると、番台の女性と世間話をしながら、スマラ達を待った。
さっきのミカの言葉は良く分からなかったが、最後の「最高の料理を作る」ということだけは、理解できた。
太平軒で料理を教わり、自分に自信が持てたら、ミカの所に行き、料理を振舞えば良い。
目標が定まった俺は、風呂上がりのスマラ達から香る、石鹸の香りにちょっぴりドキドキしながら、商店街を周り、買い物を続けるのだった。
「よし、それじゃあ今日から働いてもらう」
「宜しくお願いします!」
下宿での生活に必要な物を揃え、俺はいよいよ太平軒で働くことになった。ヨシナリ( 今日からは店長と呼べ! と言われた )が用意してくれた調理服は、真新しいのに、妙に俺の身体に馴染んでいる。
「ふむ、馬子にも衣装ってところか? 様になってやがる」
「ありがとうございます」
店長の言葉に、俺は頭を下げた。その様子を見て、テーブルを拭きながら、アキラ( 女将さんと呼んでね、と言われている )とマグダレナが微笑んでいた。
マグダレナは、料理に興味があるらしく、俺と共に店を手伝うことになった。スマラは興味がないと言って、気ままに下宿で昼寝をしたり、商店街を周ったりして過ごしている。
エメロードも興味があるようなのだが、狭い太平軒で、勝手の分からない新人が3人も動ける余裕はない。そこで、マグダレナと1日おきで働くことにしたのだ。今日はお留守番である。
「言っとくが、俺は本当に教える気はない。昨日の確認で、基礎は出来ているのを見ているから、ばいなす…言いにくいな。なす、お前は食材の下準備と、営業中は皿洗いをやれ。まぐだれな…言いにくいな。れな、お前はアキについて注文取りと給仕だ」
店長の言葉に、俺達は「はい!」と答える。
昨日は営業後に、俺の料理の技術を見るため、何か作ってみろ、と言われたので、残り御飯を使ってオムライスを作った。
調理道具はどれを使っても良い、と言われたので、自分の道具を持って来て使った。この店の道具を使うには、まだまだ経験不足だし、下手に使って壊したら、それこそ問題だ。
店長は、俺が調理をする間、黙ってじっと見つめていた。その視線の鋭さに、俺は今まで感じたことのない緊張を覚え、震えそうになる手を必死で動かした。
出来上がったオムライスは、賄として今日の夕食になった。スマラ達の分も用意し、皆で食べる。
「美味しい~」
エメロードは気に入ってくれたらしく、お代わりを要求された。マグダレナやスマラも満足そうだ。
女将さんは一口食べて、「あら、美味しい。あんたより上手いんじゃない?」などと褒めてくれたが、店長は食べ終えるまで、一言も喋らなかった。
そして、最後に一言、「明日から働いてもらう」とだけ言い、身一つで来いと言われて、今に至る。
「まずは米を砥いでみろ」
俺は店長に言われ、業務用の釜に二升の米を入れ、流水で砥ごうとして、いきなり後頭部を叩かれた。
「馬鹿野郎! 砥ぎ始めは汲み置きの水を使え!」
「すいません!」
俺は慌てて、調理場の隅にあるタンクから水を汲み、釜に注ぎ入れる。
後で女将さんが教えてくれたが、お米を砥ぐ際、砥ぎ始めが一番水を吸収するらしい。そこで、砥ぎ始めの水は水道水ではなく、神社の境内の裏にある、湧水を汲んできたものを使うのだそうだ。
これは、炊飯する時の水にも使っており、毎朝汲んでくるのが日課になっているらしい。明日からは俺の仕事になる。
水を切り、米を割らないように砥ぐことを3回ほど繰り返した。そして、水を張り、炊飯器のスイッチを押す。これで炊飯は終了だ。
続いて、食材の加工に入る。とはいっても、俺が任されるのは、スープの出汁を取るために使うざく切りの野菜の皮むきや、パン粉に使う乾燥させたパンを削るといった簡単な作業だ。
料理に直接使う食材は、全て店長が処理していく。俺は作業を進めながら、できる限り店長の作業を観察し、その工程を頭に叩き込んでいく。
それにしても、店長の動きは見事だ。無駄な動きが殆どない。次の手順に繋がる様に、複数の作業を同時に進めている。
「手が空いたら、鍋の様子を見てくれ」
店長の言葉に、俺は火を掛けっ放しになっている鍋へと向かう。
大ぶりな寸胴鍋が二つ、弱火でクツクツと煮込まれている。これはひたすら継ぎ足しで作られている、デミグラスソースとカレールゥの鍋だ。
俺は大きなヘラで、鍋の底から丁寧に、全体を掻き混ぜるように攪拌していく。そして、やや小さめの鍋に適量を移すと、火に掛けた。
そこに店長が、予め下拵えをした食材を入れていく。これが今日使うカレーライスとハヤシライス用のルゥになる。開店までじっくりと煮込んでいくのだ。
その後も仕込みや準備を進め、開店準備を整えた俺達は、遅めの朝食を採る。因みに、朝食は女将さんの担当らしい。
「やっぱり、人手があると早いわねぇ」
女将さんが朝食を食べながらニコニコと微笑んでいる。聞けば、普段よりもかなり早く準備を終えることができたそうだ。
「普段と勝手が違うから、調子が狂うぜ」
「あら、あんなに楽しそうにしていたのに?」
店長の漏らした一言に、女将さんは意地悪そうな笑みを浮かべ、首を傾げている。
楽しそうだった? 俺には普段の店長との違いが分からなかったが、長い間連れ添った人が言うんだ、そうなのだろう。
店長は鼻を鳴らすと、黙って飯を掻きこんでいく。女将さんはクスクスと笑うと、食後のお茶を淹れ始めた。俺達も慌てて食事を終える。
それからは店内を見回って、細かい場所を整える。割り箸や爪楊枝の補充、給水機のタンク確認、などなど。
最後に暖簾を掛けて、準備は終了。いよいよ開店である。
「いらっしゃいませ」
「うお、あ、はい、いらっしゃいました」
扉が開くと同時に笑顔のマグダレナに迎えられ、入って来た客が慌てて頭を下げている。
そのまま入り口で立ち止まってしまったため、後から入って来る客がぶつかり、文句を言おうとしたところで、マグダレナの笑顔に言葉を失った。
「はいはい、そんなとこで止まってたら邪魔になるでしょ? 早く入って頂戴」
女将さんに促され、慌てて席に着く客達。そこにお冷を持って注文を取りに来たマグダレナに笑顔を向けられ、頬を赤く染めながら注文をしている。
いつもと違う店の雰囲気なのだが、決して悪いものじゃなかった。俺は口元に笑みを浮かべると、マグダレナが下げてきた食器を受け取り、洗っていく。
その間にも店長の動きを眼で追っていく。食材の切り方、調理する順、調味料の使い方など。見なければならないことはいくらでもある。
「カツ定、フライ定、メンチカレー上がったぞ」
「注文お願いします。炒飯、餃子ライス、中華丼二つ!」
「はいはい、食べたらどんどん席を空けてね!」
食べ終わった後も、マグダレナの姿を眼で追っていた客を、女将さんが容赦なく追い立てていく。普通ならクレームの一つも来そうだが、客達も大人しく出ていった。
マグダレナは追い出される客に一礼すると、手早く食器を片付けていく。俺はそれを受け取り洗った後、店長が料理を提供し易いよう、用途別に仕分けしていく。
「なすさん、箸の数が足りないわ」
「了解です!」
女将さんからの要望に、シンクの底に溜まっていた箸を取り上げ、素早く洗っていく。
「お待たせです!」
「ありがとう!」
手早く拭き取った箸の束を女将さんに渡すと、皿洗いを継続する。
「今日はいつもより長居する客が多いわねぇ。まったく、美人が居るからって現金なんだから」
テーブルを拭きながら、女将さんが苦笑する。美人と言われて嬉しかったのか、マグダレナが頬を染めつつそれを手伝う。その間も客が途切れることはない。
「店長、置き切れない食器はどうします?」
「何? …一旦棚に仕舞っとけ」
俺が仕分けして置いた食器を横目で確認し、店長はそう指示を出した。その時小さく「早ぇな…」と呟いたのを聞き、俺は内心安堵する。
初めての環境で、食器を洗うペースが遅かったらどうしようかと思っていたのだ。ここでも優秀な〈能力〉の恩恵が有難かった。
俺は棚の位置、料理の提供具合を考えながら、用意し易いように食器を仕舞っていく。少し余裕が出てきた分、俺は店長の調理を学ぶべく、その動作に集中する。
店長は俺の様子に気付いているのか、口元に小さく笑みを浮かべながら、流れるような動作で料理を仕上げていく。こうして、俺の初仕事は、営業時間ギリギリまで休まることはなかった。




