65 〈幻夢(VR)〉で更なる試練に挑む
闘技大会から1週間が経った。俺は皇城での( 外の世界の1日が1カ月となる部屋での指導は、ある意味スパルタだった )皇族としての指導も終わり、漸く探索を再開できるようになった。
皇帝の言葉通り、皇族としての知識や作法を学んだあとは、特に式典や行事への出席もなく、自由に行動できるのは嬉しかった。皇帝やシシーシャからは、帝都に来た折には顔を出すように言われたが、それは命令というよりも、親愛の気持ちからくるものだと感じられたし。
帝都には、大小様々な迷宮が存在する。リィアと出会った遺跡にもあったように、迷宮の深奥には、転移のための「門」などの施設が設置されていることも多い。
俺たちはそういった迷宮を探索するべく、準備を進める傍ら、どういった迷宮があるのか、情報を集めていた。
迷宮は、規模や難易度もバラバラで、情報を集めるのには苦労させられた。著名な迷宮であれば、攻略する探索者も多く、情報も比較的多いのだが、著名であっても難易度の高い迷宮に関しては、内部の情報が殆どない。
結局、集めた情報では〈陽炎の門〉に関する有力な情報はなく、敢えて情報の少ない迷宮を中心に、探索していくしか方法がないようだった。
「それで、どうやって探索していくんだ?」
「まずはソロでしか攻略できないダンジョンを潰していく。特に俺達には『蘇生』があるから、ある程度無茶が効く。ジュネとブリスは無理しないでくれ。無理にソロのダンジョンに挑戦しなくても良い」
「そうね、私たちだと〈陽炎の門〉なのかどうかの判断も難しいでしょうから、ガデュス達を手伝っておくわ」
「そうね。実戦を経験して、戦闘技術の向上に努めるとしましょうか」
二人の言葉に、ガデュスは喜びを露わにする。
「お二人の力を借りられるのは、非常に有難い。我らだけでは、どうしても討伐系の依頼に偏りがちですからな」
ガデュス達には盗賊系の能力を持った者が殆どいない。魔術師もゴブリンメイジがいるだけなので、搦め手がなくても問題の少ない動物系の魔獣や山賊の討伐といった依頼を熟すことが多くなる。
隊商の護衛といった依頼もあるが、立ち上げたばかりの傭兵団には、まだまだ信頼が足りないということもあり、そういった依頼は回してもらえないのだ。
ジュネやブリスが参加すると、同じ討伐系でも、選択の幅が格段に広くなる。そうすると受けられる依頼も増えるので、より多く経験を積むことができるのだ。
「折角だから、傭兵の仕事の代わりに、私たちとパーティを組んで、ガデュス達も迷宮探索する?」
「そうですな…。迷宮探索も、また違った修練になりますからな。お二人が一緒であれば、参加者を厳選して挑戦してみますか」
その間、残った者たちは〈妖精郷〉で訓練と、精霊達の作業を手伝ってもらう。ガデュスは早速人選を行うために、ジュネたちと共に、ゴブリン達を集めていた。
「お前はどの迷宮を探索するんだ?」
集めた情報から、探索する迷宮を選んでいると、ゼファーから質問が飛んだ。
「俺はトーヤに勧められた〈稀人の試練〉を探索する」
「〈稀人の試練〉か…。あそこは幾つかのルートが設定されていて、それによって、難しさが全然異なるらしいな」
「難易度が違うと、迷宮の内容も変わるの?」
「そもそも、探索者個人個人で違うらしい。詳しくは知らないんだが」
「それなら、皆で一緒に探索する?」
「確かに、それもアリか…」
皆口々に意見を発しているが、個人個人で探索内容が変わるのであれば、確かに全員で挑戦してみても良いかもしれない。
「〈稀人の試練〉て、探索者のランク制限はあったっけ?」
「なかったはずだ」
それなら、まずはみんなで挑戦してみるか。
「よし、それなら、今回は皆で〈稀人の試練〉に挑戦してみよう!」
「「「おお!」」」
今回は〈異邦人〉メンバー全員で、〈稀人の試練〉へとチャレンジだ! 俺たちは準備を整えると、早速向かうことにした。
数百はあると言われる帝都の迷宮の中で、〈稀人の試練〉は有名な一つだ。だが、その知名度に比べ、内部の情報は皆無に等しかった。それはこの迷宮の性質にある。
〈稀人の試練〉は必ず一人で挑戦することになる。魔導士の使役魔などは所有物としてカウントされるようだが、原則一人で探索することになる。
そして、探索する方法が幾つかあるのだが、初めにお試しと言われる「小英雄の試練」。これは迷宮内で課される『試練』をクリアすれば成功となる。あくまでお試しなので、一度挑戦すると、二度と挑戦することはできない。
次に「英雄の試練」。これは課された三つの『試練』を達成すれば、成功となるものだ。比較的簡単で、大半の探索者はこちらを選択する。
最後に「大英雄の試練」。こちらは、ギリシャの英雄ヘラクレスに准えたと思しき十二の『試練』が課される、正に難行と言える。
大英雄の試練は、いきなり挑戦することも可能だが、最初に小英雄、英雄の試練をクリアしてから挑戦することも可能なので、俺はまず小英雄の試練に挑戦してみて、その結果を踏まえて、英雄、大英雄の試練に挑戦するつもりだ。
逆に大英雄の試練をクリアしてしまうと、小英雄、英雄の試練には挑戦できなくなるそうなので、イベント消化の意味でも小英雄から進めるべきた。やっぱりイベントは極力熟さないとね。
集めた情報によると、『試練』は、一つ一つの内容・期間・規模がバラバラで、1時間もあれば終わる『試練』から、一月以上掛かるものまであるらしい。
そのうえ、一人一人で『試練』の内容が変化するらしく、例え同じ内容の試練であっても、発生する順番も異なるため、事実上、攻略ルートのようなものは存在しなかった。だが、幸運に恵まれれば、更なる力や強力な武具、莫大な財宝も手に入るとあって、人気の高い迷宮となっている。
俺たちは〈稀人の試練〉の入り口にあたる、ギリシャ神殿風の建物を訪れていた。神殿の中央には美しい噴水を湛えた泉があり、泉を取り囲むように、様々な装飾が施された門が連なっている。
泉の周囲では、探索に向かうための準備を整える、探索者で賑わっていた。
「あれは何やってるんだ?」
ゼファーが指さす先には、噴水に背を向けて、何かを投げている男がいた。なんかテレビで見たことあるな。
「あれって、『願いの泉』なのかしら?」
ロゼの言葉に、合点がいったのかゼファーも頷いている。俺も昔テレビで見た、ローマのトレヴィの泉を思い出していた。たしか、後ろ向きでコインを投げ入れると、願いが叶うんだっけ。
「本当に願いが叶うのかしら?」
「さて? まあゲン担ぎの意味も込めて、やってるんじゃないかな?」
キルシュの疑問に、俺は言葉を返す。すると、近くで準備をしていた探索者が声を掛けてきた。
「違う違う。あれは挑戦する『試練』を決めているのさ」
そう言って気さくに笑う男に、質問してみる。
「それは一体どういうこと?」
「泉にコインを投げ入れると、奥にある『門』が光って、その門に入ると『試練』がスタートするのさ。コインは云わば入場料ってわけだ」
男の言葉に俺は頷く。すると今度はゼファーが、
「コインって何でもいいのか?」
と聞くと、男は頷き、
「ああ。もっとも、投げたコインによって『試練』が変わる、なんてふうにも言われているから、大半は金貨を投げ入れることにしてるがね」
言われて噴水に近づいてみると、泉の底には大量の金貨が沈んでいた。
「投げ入れるコインの枚数なんかは関係あるのか?」
たしか、トレヴィの泉では、投げ入れるコインの枚数によって叶う願いが違ったはずだ。
「分からん。関係あるのかもしれないし、ないのかもしれない。因果関係が分かる証拠もないしな。まぁ、本人の心持ち次第ってことだろうさ」
男はそう言って肩を竦めた。
「小英雄の試練と、英雄の試練、大英雄の試練は、それぞれどうやって挑戦するんだ?」
「ああ、最初は勝手に『小英雄の試練』になるから心配するな」
男の言葉に、俺はおや? と首を捻る。情報では選択式だったような…。まぁ気にするほどではないので、俺たちは男に礼を言い、早速コインを投げ入れることにした。
「それじゃ俺から行くぜ!」
ゼファーはそう言うと、そりゃ! と気合の声と共に、背負った泉に金貨を指で弾く。クルクルと回転した金貨は、ポチャリという音と共に泉へと沈んでいく。すると、ゼファーが徐に門の一つを見つめた。
「俺はどうやらあの門らしい。先に行くぜ!」
ゼファーはそう言って歩き出す。するとキルシュが追いかけて、
「ゼフ、待って!」
と言い、足を止めたゼファーに飛びつき、そのまま唇を塞ぐ。
「成功のおまじない! 頑張ってね!」
唇を離すと同時に、笑顔で言葉をかけるキルシュに、ゼファーは照れたように頭を掻くと、
「お前もな」
と言って、頬にキスをした。キルシュは嬉しそうに笑うと、お返しとばかりにキスの雨を降らせていた。二人の様子に、周囲からは冷やかしの声が上がる。
ふと横を見ると、ロゼが何かを期待するかのように、俺を見ていた。
「ヴァイナス、私はあの門です」
ロゼはそう言って門の一つを指し、そのまま瞳を閉じた。俺はそっとロゼを抱き寄せると、耳元で囁く。
「幸運を」
そして、そっとキスをする。唇の暖かさと共に、ロゼの甘い吐息を感じながら唇を離すと、ロゼは名残惜しそうに、もう一度唇を重ね、ゆっくりと離れた。その瞳にはヤル気が満ちている。
「それでは、行ってきます!」
ロゼは気合の声と共に、門へと入って行く。続いてキルシュも、
「わたしはあっち!」
と言って、指さした門に向かって飛び込んで行った。
皆を見送った俺は、改めて泉に向かい、コインを投げ入れようとして、徐に懐を探る。取り出したのは、トーヤから貰ったイコンだ。トーヤはこれが〈稀人の試練〉で必要になる、と言っていたのだが…。
もしかして、この泉に入れるのか?
ものは試し。間違っていたら、イコンは回収して、金貨を入れれば良い。俺は泉に背を向け、イコンを投げ入れた。イコンは綺麗な放物線を描き、泉へと達する。
ポチャリとイコンが水面へ達した瞬間、俺は背後から迸る強烈な光に、思わず目を細めた。手を翳しつつ振り向くと、泉の中央で滔々と噴き出す噴水が眩い光を放っている。
まさか、この噴水が『門』?
俺は光に導かれるように、噴水へと近づいていく。周囲の者は、まるで俺が視界に入らないかのように行動いている。それは俺が水飛沫を上げて泉へと足を踏み入れても、変わることはなかった。
周囲から投げ込まれるコインも、俺を避けるかのように、離れた場所へと沈んでいく。
俺は噴水へと辿り着き、ゆっくりと手を触れる。その瞬間、光は強さを増し、周囲が真っ白に染まっていく。周囲全てが白く変わった時、俺の姿は消え去り、辺りには何事もなかったかのように、先ほどまでの景色が戻っていた。
「ここは…?」
気が付くと、俺は先ほどまでとは全く違う場所に、一人佇んでいた。周囲を見渡すが、壁も、天井も、床でさえも、見ることができない。
暗視を持つ俺の目にも見通すことのできない闇の中。しかし、足裏から感じる感触に、自分がどこかに立っているということだけは認識できた。
さて、どうするべきか…。
前も後ろも分からないこの状況で、俺はどうすれば良いかを考える。手探りながら動いた方が良いのか、状況が変わるまでこの場に留まり、変化を待つのか。
いずれにせよ、判断に足る情報が欲しい。俺がそう考えた途端、カツカツという規則的な音が、何処からともなく聞こえてくる。どうせ見えないんだ。そう思って目を閉じると、音に意識を集中させる。
高い〈器用〉に裏打ちされた鋭敏な聴覚が、音の主がこちらに近づいてきていることを知らせてくる。そして、音の正体は何者かがこちらに向かって歩いているのだと分かった。
警戒したまま、足音の主が姿を現すのを待つ。どのみち、今の状態ではどちらに進むのかも分からないのだ。来てくれるなら待つまでだ。
「ほほう、初めての『お客様』だね」
不意に、声を掛けられた。足音はいつの間にか止まっていた。俺は閉じていた目を開く。そこに立っていたのは、細かく襞を持たせた亜麻の腰布を身に着け、黄色と瑠璃色で染められた前垂れを付け、黄金をふんだんに使ったスカラベやアンク、ウジャトが施された装飾品を身に着けた、黒い肌のイケメンだった。
「ようこそ、〈稀人〉よ。私はネフ。この『世界』の管理を任されている者だ」
ネフと名乗った男は、そう言って微笑んだ。男の微笑みだというのに、引き込まれそうになる。俺は慌てて小さく首を振り、
「始めまして。俺はヴァイナスと言います。ここが〈稀人の試練〉なのですか?」
「その通り。正確には、〈稀人の試練〉の一つ、であるがね」
ネフはそう言うと、掛けたまえ、と俺を促した。いつの間にか、俺の傍に椅子が用意されていた。俺が座ると、ネフもいつの間にか椅子に腰掛けていた。
「〈稀人の試練〉は、特殊な存在だ。誰一人として、同じ『試練』を受けることはない。それは、この『世界』が各々の持つ『心』を元にして作られるからだ」
ネフの言葉に、俺は首を傾げる。難しい言い回しだが、
「つまり、ここは『心象世界』と言うことですか?」
「ふむ、君は面白いね。『心象世界』とは言い得て妙だ。心象風景も『世界』を構築する現象の一つであるのだから、確かに、その言い回しは理にかなっている。私も今後、その言い方を使わせてもらおう」
ネフは感心したといった様子で、頷いている。その仕草をどこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。ネフは言葉を続ける。
「この『世界』で課される『試練』は、ヴァイナス、君の『心象世界』に基づいたものになる。勿論、君の『心象世界』だからといって、君にとって都合の良いものにはならない。それでは『試練』にならないからね」
ネフはそう言って、やはりどこから取り出したのか分からない、黄金の杯を口に運ぶ。美味しそうに嚥下する口元から一滴、流れ落ちた液体が喉を濡らして滑り落ちる。
飲み終えたネフは、唇を舌でチロリと舐めとる。その姿が妙に艶めかしい。思わずドキリとさせられるが、平静を装った。
「君もどうだい? 知り合いから貰った〈神の(シェケール・)血〉だよ」
「頂きます」
俺は〈全贈匣〉から〈極光の宴〉を取り出し、杯を用意すると、ネフは( やはりどこから取り出したか分からない )黄金と水晶でできた水差しから、深紅の酒を並々と注ぐ。俺は溢れそうになる酒を慌てて口で迎えると、そのまま一息に飲み干した。
爽やかな酸味を感じた後、体中を焼けつくような熱さが駆け巡る。
余りの熱さに盃を取り落とす。盃が見えない床に落ちて甲高い音を立てるが、気にする余裕もなく、俺は毒を盛られたのかと思い、必死になって耐えていた。
《毒無効》を持つ俺の身体には、毒は効かない筈…。そう思いながら耐えていると、不意に熱さは消え去り、世界が広がったかのように感じた。顔を上げると、ネフが悪戯めいた光を瞳に宿らせつつ、微笑んでいた。
「おやおや、これを呑んで何ともないとはね。流石私の『試練』に挑戦するだけのことはある。素晴らしい!」
どうやら、曰くあるものを飲まされたようだ。つくづくオーラムハロムのイベントは気が抜けない。
「気を悪くしないでくれたまえ。私なりの歓迎なのだよ。その証拠に、君の『力』は見違えるほど強くなっているさ」
ネフの言葉に、俺は改めて自分を確認する。特に変わったところは感じなかったが、落とした盃を拾おうとした時、その言葉の意味を知った。
物を拾う、ただそれだけの動作なのに、今までとは明らかに行動への負荷が小さかったのだ。逆に言えば、その僅かな不可の差を感じられるほどに、感覚が研ぎ澄まされている。
驚きの余り、俺がネフを見ると、ネフは心底楽しそうに笑みを浮かべている。
「いやぁ、本当に久しぶりだよ。〈神の血〉の『歓迎』を乗り越えた者は。前に試練を課した者は、耐え切れずに試練を放棄してしまったからね」
ネフはそう言って笑っている。これが『歓迎』だったのか。てっきり『試練』かと思ったのだが…。本当に油断できない。
それでは『試練』を始めようか。
ネフの口調は変わらないのに、周囲を取り巻く空気が一変して、厳かなものに変わる。俺は緊張に身を引き締めると、ネフは微笑みを浮かべ、
「そんなに固くなることはない。難しいものではないさ。君の心に問いかけるものだ」
ネフがそう言うと、目の前に壁のようなものが姿を現した。それは奇怪な姿をモチーフに、不規則な幾何学模様という、ある種の矛盾を孕んだものを随所に施した、異形の浮彫の刻まれてた壁だった。
ネフはその壁を一撫でし、
「これは君の心の変化に合わせて、千差万別の姿を取る『魂賺しの供犠臺』だ。ここに手を差し入れたまえ」
と言って、口( ? )に見える場所を指示した。穴の中はこの空間同様、《暗視》を以てしても見通すことのできない闇に覆われている。ここにきて退くわけにもいかず、俺は左手をゆっくりと差し入れる。
どこまで差し入れて良いのか分からず、兎に角何かに触れるまでは差し入れてみようと思い、左手を進めていくと、何かに触れる感触がした。それは触れているようで触れていないような、不可解な『感触』を伝えてくる。掴んでみるとすり抜け、手を開くと常に纏わりつくような質感を感じた。
俺が戸惑いの表情を浮かべていると、ネフはクスクスと笑い、
「ああ、気にすることはない。君が好きなようにすると良いよ。君が守るべきは唯一つ、『試練』が終わるまで、決してその手を引き抜いてはいけない。それだけだ」
と言った。俺は頷くと、
「了解しました。それでいつ、『試練』が始まるのですか?」
「そう急かさないでくれたまえ。心配しなくてもすぐに始まるよ」
ネフがそう言った瞬間、目の前に光が溢れ、そこに映し出された光景に、俺は目を閉じることも忘れ、凝視することになる。
そこには無数の異形によって嬲り者にされる、少女の姿があった。
泣き叫び、涙を流して逃れようとする少女を、蛇人たちが、食屍鬼が、怒声や嘲笑と共に責め立てている。泣き腫らす瞳が俺を見つめ、何かを求めるように微かに唇が動く。その少女とは誰でもない、リィアだった。
俺の理性は吹き飛びかけ、思わず駆け出そうとする。
だが、左手から伝わる『もの』が、その動きを止めさせた。左手から伝わるのは、リィアの感じる恐怖、哀しみ、怒りだけでなく、異形たちの肉欲、征服欲、喜悦、といった感情。そして、望まぬ行為によって齎される痛み、苦しみ、そして今まで感じたことのない快楽といったものが、一気に俺の『中』へと流れ込んできたのだ。
いきなり訪れた『刺激』の洪水に、踏み出しかけた足が止まり、その場に膝をつきそうになる。だが、リィアを救わなければという思いが、歯を食いしばって立ち上がれと、俺の身体を叱咤する。
だが、そこで俺の中に幽かに残った『理性』が、これは『試練』なのだと告げている。どのような原理なのかは分からないが、目を閉じようと、顔を逸らそうと、目の前の光景は俺の脳裏に流れ込んでくる。俺は否応なしに、目の前の光景を見続けるしかなかった。
地獄のような光景は終わりを迎え、力なく横たわるリィアの唇が、声なき言葉を発した。
どうして、たすけてくれなかったの?
その言葉に、表情に、力ない姿に、俺は絶叫した。これが、こんなものが『試練』だというのか! 例え試練が見せる幻影だったとしても、俺が感じた『もの』は、俺にとっては現実と同じだ。それだけ目の前で繰り広げられた光景はリアルで、残酷で、非情だった。
左手から伝わる『もの』が、否応なしに俺の心を切り刻む。
左手を抜け。抜いてリィアに駆け寄り、抱き締めてやれ。
俺は心を擽る誘惑を、左手をきつく握りしめることで耐える。骨が砕けるほど強く握っているのに、伝わってくるのは『感情』であり、痛みとは違う『感触』だった。
唐突に目の前の光景が変わる。そこはどこかの室内のようで、様々な拷問器具で溢れていた。拷問台に縛り付けられ、焼けた鉄串を指という指に突き立てられているのは、ロゼだった。
その身体には見るのも憚られる傷跡が走り、間断なく訪れる痛みに声を上げようとするが、すでに枯れ果てたのか、震えるような呼吸のみが漏れ出ている。
だが、その瞳は痛みなど何でもない、と言うように、部屋の奥を凝視している。そこには、笑みを浮かべたまま絡み合う、『俺』と皇帝の姿があった。
『俺』はさも楽しそうに、拷問を受けるロゼを見ながら、皇帝から与えられる快楽の渦に身を任せていた。
左手からは、『俺』が感じる快楽が、愉悦が、皇帝の発する甘い汗の香りだけが伝わってくる。その強烈な刺激に、意志とは無関係に、身体が反応してしまう。
違う、それは俺じゃない! ロゼ、済まない…。
俺は必死に振り払おうと顔を振るが、消えることのない光景と刺激に、気が狂いそうになる。ロゼへの拷問と、皇帝との睦事は、ロゼの命の焔が消える瞬間まで続き、俺を見つめるロゼの瞳は、一度たりとも閉じられることなく、哀しみを映したまま閉じられることはなかった…。
その後も目の前に映し出される光景は、次々と場面が変わり、俺の心をあらゆる方法で責め立てた。
手足を捥がれたヴィオーラが、俺の名を何度も呼びながら、生きたまま竜に喰われる様を。
嬉しそうに嬌声を上げ、俺のことなどどうでもいいと叫びながら、無数の男たちと絡み合い、睦み合うジュネを。
何処とも知れない場所で、足枷で繋がれ、鞭打たれ、羽根を捥がれ、終わることのない死への舞踏を延々と繰り返すブリスを。
クライスが。
エメロードが。
テフヌトが。
ガデュスが。
… … …。
どれくらいの時が経ったのだろうか。その後も繰り返される、一つとして同じもののない、残酷なまでにリアルな光景に、俺の心は擦り切れ、摩耗していった。
『試練』は、終わらない。




