60 幻夢(VR)〉の帝都で因縁再び
〈妖精郷〉での三日間を過ごした俺たちは、4回戦を闘うため、闘技場に到着した。俺とゼファーは試合会場へ、ロゼ達はイーマンの待つ観戦席へと向かう。
「今日も勝とうぜ」
「ああ。今日勝てばいよいよベスト8だ」
俺とゼファーは拳をぶつけ合い、それぞれ控室へと向かう。控室に入ると、今まで通り、スマラとマグダレナと共に準備を行い、試合を待つ。
二人と過ごすこの時間が、俺の緊張をほぐし、過度にプレッシャーを感じることなく、試合に挑むことができていることに、今更ながらに気付いた。俺は心の中で二人に感謝しつつ、只一人で試合へと向かうゼファーにエールを送る。
順番が来たことを告げる鐘の音に、俺は立ち上がる。さて、今回の相手はどんなやつだろう。
マグダレナの背に跨り、ゲートを潜る。俺たちを迎える歓声に、俺は拳を握り締めた右手を挙げて答えた。今回は俺たちが先の入場だったようだ。マグダレナと共に対戦相手を待つ。
すると、マグダレナの背を通して振動が伝わり、それと共に向かい側のゲートから、何かが近づいて来るのが分かった。どうやら、この振動の主はその近づいて来る何かのようだ。
振動が大きくなるにつれ、それが何者かが立てる地響きだったことに気付く。相手は大物のようだ。
そして、ゲートから姿を現したものに、俺は目を見開く。
それは、周囲を侵食するかのような黒い霧を纏う、白骨化した竜だった。口からは熱い吐息の代わりに黒い瘴気を吐き、虚ろな眼窩には不気味な赤光が瞬いている。
そして、その背に結わえられた鞍に跨る、はやり黒を基調とした鎧に身を包む、戦士風の男が笑みを浮かべていた。
男は歓声に手を振って答えると、俺に向かい、
「よう、ここまで勝ち残ってきたようだが、残念だったな。俺に当たるとは運がない」
と言った。俺が何も答えないでいると、
「悪いことは言わない。さっさと『降参』しな。そのほうが痛い思いをしなくて済むぜ」
と言って笑う。その顔に俺の記憶が刺激される。こいつ、どこかで会ったような…。
『ヴァイナス、こいつ、あの時の男よ!』
スマラが突然、心話で話しかけてきた。あの時の男?
『あの砦のダンジョンの探索で! 貴方を奴隷船に売った男!』
スマラの言葉に、ようやく思い出した。そうだ、あの男だ!
俺はあの時のことを思い出し、頷く。クライスを生贄に、悪魔崇拝者の集団に手を貸して力を得ようとしていた男。コボルドに騙され、眠らされた俺を奴隷船に売った、あの男だった。
「おいおい、随分と殺気立っているじゃないか。ヤル気満々ってか? だがよ、どんなにヤル気があっても、世の中じゃどうにもならないことってのもあるんだぜ」
俺の怒気が伝わったのか、男は笑みを深くすると、呆れたように言った。悪いがこいつ相手に退く道理はない。例え『蘇生』することになったとしても、降参だけはするものか。
「まぁいいや。面倒くさいがお前を倒して先に進むだけだ。このイベントをクリアして、俺はもっと強くなるのさ!」
男はそう言って、長大な〈騎士槍〉と、足元までを覆う〈凧型の盾〉を構える。俺は静かに〈西方の焔〉と〈聖餐の拳刃〉( 最近、俺のカタールにテフヌトが名を付けた。魔法による強化などを行ったので、銘をつけたのだ )を構えた。そしてマグダレナに、
「マグ、済まない。あいつには絶対に負けたくないんだ。例え負けても『降参』はしない。お前は無理しないでくれ」
と言う。いざとなったら〈小さな魔法筒〉に戻す、と伝える前に、マグダレナが、
「分かった。私も死ぬまで闘う。死んだらブリスに【蘇生】してもらって」
と言った。その言葉に俺は言葉を飲み込み、代わりにマグダレナの首筋を、左手で軽く叩く。マグダレナを死なせるか! この闘い、絶対に勝つ!
俺の気迫と共に、マグダレナの身体からも闘志が噴き出した。その時、試合開始を告げる鐘が鳴り響いた。
音と同時に、俺たちは真正面から突進する。対する男は、自信があるのだろう、その場から動かずに迎え撃つ。
俺たちの身体を魔法の力が包み込む。
『今回だけは、手を貸すわよ!』
スマラが影の中から放った【神速】の魔法が、俺たちの動きを加速する。援護を受けたマグダレナは速度を上げつつ、俺と自身を対象に【倍化】の魔法を掛けた。倍加する能力は〈体力〉。このまま真正面から闘うつもりだ。ならば俺もそれに応えるだけだ!
俺は自身とマグダレナを対象に、【魔刃】の魔法を使う。最近覚えた7レベルの魔法で、対象の攻撃力を3倍にするものだ。【付与】との違いは、対象を武器そのものでなはく、使用する人物に取ることができ、その者の使う『武器全て』に同時に効果がある点だ。
新たなエーテルの光が輝き、俺たちは一条の矢となって飛び込んでいく。駄目押しとばかりに、俺は更に魔法を重ねる。
【金剛】。8レベルのこの魔法は、対象の防御力を3倍にする。俺とマグダレナの身体を、先ほどとは違う光が俺達を包み込んだ。
「馬鹿が! 真正面から突ってくるなんざ、殺してくださいって言ってるのと一緒だぜ! やれ!」
男はそう叫ぶと、〈骸骨竜〉に指示を出し、踏ん張らせた。そして、ランスと共に、それを凌駕する剣呑さを放つ、鋭い先端を持った翼骨を左右から突き出した。骨格だけの翼は、飛ぶことができない代わりに、鋭利な凶器となって繰り出される。
迎撃の準備を整えたボーンドラゴンの、その虚ろな口腔に漆黒の瘴気が集い、極限まで凝縮された〈瘴気の吐息〉となって迸る。その奔流は、通過点の石畳を侵食しながら向かって来た。
その光景に、俺たちの背後で観戦する、観客たちから悲鳴が上がる。このままブレスが進めば、観客席を直撃することになる。
こいつ何考えているんだ!? 観客を巻き込むのか!
【瞬移】の魔法を使おうとして、俺は思いとどまった。背後には観客席があり、何よりリィアたちが観戦しているのだ。避ければ被害を免れない。
俺は意識を集中し、マグダレナと共にブレスに向かって飛び込んでいく。俺の意志に反応し、赤銅の身体が一瞬光を放つ。竜の血の加護が全身を駆け巡り、瘴気に抗う力となる。
マグダレナが気合の雄叫びを上げる。螺旋を描く一角が、玄白一対の双角となり、闘志がスパークを起こし、双角を中心にバチバチと音を立てた。
瘴気に包まれた瞬間、悪寒と共に侵食してくるような痛みが全身を襲うが、必死に耐えた。毛穴の一つ一つから、何かが染み込むような怖気と悪寒、肌を内側から溶かすような痛みに歯を食いしばって耐えながら、ブレスを突き抜ける。
その先に待っていたのは、鋭い切っ先のランスと、左右から突き出された鋭利な先端を持つ双翼骨。だが、その動きは緩慢だ。
「こいつ頭おかしいんじゃないのか? ブレスに真正面から飛び込むなんて。まあいいや。手間が省け…何!?」
俺たちがブレスに飛び込んだことで油断したのか、男の挙動は明らかに遅れた。俺は目標を禍々しい輝きを放つランスへと定め、〈聖餐の拳刃〉を振るう。
倍にまで高められた〈体力〉に裏打ちされた膂力は、明滅する翠光を放つランスに触れるや否や、上方に向かって跳ね飛ばした。
男の手を離れ、高々と宙を舞うランス。カタールのような小さな武器に、ランスを跳ね飛ばされるとは思っていなかったのか、男の顔が驚愕に染まる。その隙を逃さず、俺は〈西方の焔〉を振るい、男を狙う。
「くそっ、防げ!」
男の言葉に、ボーンドラゴンは忠実に従い、その身を翻して男と〈西方の焔〉の間へと割り込ませた。俺は構わずに〈西方の焔〉を振るう。
〈西方の焔〉の刀身を包み込む、蒼い炎が盛大に光を放った。炎に触れた瘴気が、塵も残さずに消滅していく。
俺は迷うことなく、男を庇ったボーンドラゴンに斬りつけた。〈西方の焔〉は怨敵を見つけた喜びに打ち震えるかのように、蒼い炎を迸らせると、その刀身を竜骨へと沈み込ませていく。
〈西方の焔〉の持つ、〈不死種〉に対して威力が倍化する効果の影響は劇的だった。本来刃を持つ武器は骨などの「硬い」ものを斬るには向いていない。それが強靭な身体を持つドラゴンの骨ならば、猶更だ。
だというのに、まるで熱したナイフでバターを切るように、ボーンドラゴンを抵抗なく斬り裂いていく。その様子に、男の表情が更に変わる。
「ちょ、待てよ! 何で、剣でボーンドラゴンの骨を斬れるんだよ! チートか!」
慌てて腰の剣を引き抜き、ボーンドラゴンに下がるよう指示を出す男。左翼を斬り飛ばされ、左腕も失ったボーンドラゴンは、それでも命令に忠実に後退した。マグダレナも深追いせず、距離を取って仕切り直す。
「…くそっ、一体何だってんだ。NPCの情報じゃ、闘技大会には10レベル以上の強者なんて殆どいなかったはずだぞ。俺とボーンドラゴンなら、楽勝のはずだったのに」
「…それは前回までだろう。今回は〈異邦人〉が数多く参加している。お前自身が〈異邦人〉なら分かるだろう。お前がそこまで強くなっているなら、他の〈異邦人〉が強くなっていないと何故言い切れる?」
俺の言葉に、男は忌々し気に舌打ちをする。
「ちっ、お前もプレイヤーかよ…。どこのイベントで強化したのか知らないが、俺に勝てると思うなよ!」
男はそう言うや否や、再度ボーンドラゴンに指示を出した。命令を受け、ボーンドラゴンの虚ろな口腔に瘴気が集まっていく。男自身は、腰から取り出した何かの薬品を口元に運び、飲み下していく。
ボーンドラゴンの背から飛び降りた男の身体が、みるみる大きくなっていった。【拡大】の効果を封じた秘薬か!
薬の効果が出るまでは、もう少し時間が掛かりそうだ。呑気に待っている必要などない。マグダレナも心得たもので、男に向かって全力で突進していく。
「ボーンドラゴン、後のことは良い! 最大出力でぶっ放せ!」
男はそう命令すると、ボーンドラゴンの影に隠れるように後退していく。ボーンドラゴンは命令通り、生きているうちには到底できなかったであろう、限界を超えて開いた口腔に、先ほどとは比べ物にならないくらい大きな瘴気の塊を貯め込んでいる。
「よし、周りなんか気にせず、そのまま食らわせろ!」
そう言い放つ男に、俺は思わず言い返す。
「闘技場を破壊したら、大会そのものが中止になるぞ!」
「はっ、どうせ建物は『破壊不能属性』が付いてるさ! NPCだって、死んだところですぐに再配置するさ!」
俺の言葉を、男は笑い飛ばした。こいつ、分かってないな! オーラムハロムはリアリティを追及しているんだ。施設や建物は相応の力が加われば破壊されるし、〈現地人〉だって、彼らの中でのサイクルで生死を繰り返している。
彼らは現実世界の俺達同様、死んだらそれまでなんだぞ! 【蘇生】の魔法を知った今、彼らだって復活できることはできる。だが、それは一部の裕福な者か、権力者に限ったことだ。大半の人々にとって、死は生の終わりであり、やり直しの効かないものなのだ。
これがゲームだって言うんだから…!
俺はマグダレナにボーンドラゴンへ向かってもらう。あの出力でブレスを吐かれたら、被害は俺達だけじゃ済まない。何としても、止めるしかない!
ボーンドラゴンへと迫りながら、俺は意識を集中し、体内のエーテルを高める。初めて使う魔法に、緊張は嫌が応にも高まる。
効かなかった時は、大惨事だな…。
思わず弱気になる心を叱咤し、全霊をかけて魔法に集中する。ボーンドラゴンの首がぐるりとこちらを向く。まだ距離が足りない、間に合うか!?
ドラゴンの口からブレスが放たれる瞬間、俺の魔法も完成した。俺は渾身の力で解き放つ。
【分解】の魔法。
ブリスとの対戦後、テフヌトに頼んで教えてもらった破壊魔法。ボーンドラゴンの眉間を中心として展開した魔法は、抵抗されることなく発動。ボーンドラゴンの骨でできた身体が分解されていく。俺たちに向かって放たれるはずだった瘴気は、制御する力が失われたためか、その場で解き放たれた。
そこに出現する肌を焦がすような熱気。【分解】の魔法が生み出した膨大な熱量は、解き放たれた瘴気と混じり合い、本来の数倍は盛大な、爆炎が周囲を吹き荒れる。
マグダレナ、済まない。巻き込んでしまった。俺は心の中でマグダレナに謝ると、襲い来る爆炎に耐えるため、身構える。
ボーンドラゴンがいた場所を中心に凝縮した、光と熱が周囲を白く染め、次の瞬間、轟音が響き渡った。
俺は歯を食いしばり、閃光から目を護るために瞼をきつく閉じた。もっとも、あの爆発の前には、無意味な気がしたが。
マグダレナも身を固くしたのが、鎧越しに感じられる。少しでも防げるように、俺はマグダレナの頭を抱え込む様に腕を回した。
爆音が周囲を包み、他の一切の音が消える。その直後に俺を衝撃が襲う。だが、不思議なことに、来るはずの痛みは一向に訪れなかった。
瞼越しに光が収まるのを感じ、俺はゆっくりと瞼を開いた。抱え込んでいたマグダレナも、無事だったのか身動ぎ始める。
開いた俺の目に飛び込んできたのは、【分解】の魔法によってクレーター状に陥没し、破壊された闘技場の床と、その場所を中心に円を描くように綺麗に縁どられ、全く被害を受けていない周囲の風景だった。
男は吹き飛ばされたのか、壁際に転がっていた。今だ変化が続いているのか、徐々に大きくなっている。
一体、何が起きた?
俺の疑問を感じたかのように、闘技場内に声が響く。
『困りますね。参加者同士がどうなろうと自己責任ですが、闘技場を壊すような真似はルール違反です。勿論、観客を巻き込むような行動も。今回は不可抗力としますが、気を付けてくださいね』
声の主は、観客席の最上段から発せられていた。そこは観客の中でも特に身分の高い人物が観戦するエリアだ。見上げる俺の視線の先に、悠然と佇む美しい女性の姿が映る。緩やかに差し出された簡素な錫杖すら、女性を彩る豪奢な装飾として際立たせている。
「悠久なる女皇帝」アトロレィ・エル・ズォン=カ。
帝国の支配者にして永遠の皇帝。太古の魔法によって不老不死を得た、絶対の女王。その比類なき魔法の力は、30レベルを超えると言われている。
皇帝は優雅に微笑むと、構えた錫杖を下ろすと、静かに席に戻る。俺は無意識のうちに頭を下げる。どうやら、爆発を防いだのは皇帝の魔法のようだ。どういった魔法かは後で確認するとして、今は目の前の闘いだ。
マグダレナの様子を伺い、無事を確認する。俺たちは、改めて男に向かい、身構える。
男は頭を振りながら起き上がった。その身は倍以上に大きくなっていた。
「【分解】とはな…。〈魔戦士〉、いや〈英雄〉か? 流石に肝が冷えたぜ。だが、あれだけの大技、連発はできまい?」
「さて、どうだかな?」
男の言葉に、俺は肩を竦める。【倍化】の影響で、SPも上昇しているから、後2、3回は使うことができるが、【拡大】の効果で男の〈耐久〉も上昇している。抵抗される可能性は高かった。
「だがな、俺はボーンドラゴンみたいにはいかないぜ? あんなのただの騎獣だからな。コスト的には大損害だが、補充ができないわけじゃない。大会に優勝すれば、また呼び出せるさ」
男はそう言って剣を構えた。本来はブロード・ソードであろう剣は、魔法の効果によって拡大し、〈埒外の大剣〉もかくや、という大きさになっている。
男はそれを軽々と振るうと、盾と共に構え、
「そら、掛かって来いよ。『格の違い』ってやつを見せてやるぜ!」
と言ってニヤリと笑う。確かに拡大した体躯を使って繰り出される斬撃は、相当な脅威になる。それが当たるのならば、だが。
「大層な自信だが、この魔法を受けても続くかな?」
俺はそう言い放つと、魔法を唱えた。どんな、魔法が来ても耐える自信があるのだろう、男はその場から動かず、どっしりと構えていた。
俺の魔法が発動する。その瞬間、俺を見る男の視線が徐々に平行になっていく。
「お、お…?」
男の目線が下がる理由、それは男の足元が泥濘に変わり、徐々に沈み込んでいっているのだ。男は慌てて足を抜き出そうとするが、男の周囲は全て泥濘だ。踏み出す足もまた、沈み込んでいく。
「お、おい! 卑怯だぞ! 正々堂々勝負しろ!」
「生憎と、俺は盗賊だからな。卑怯で結構。楽して勝てるならそれに越したことはない」
男は叫ぶが、沈みゆく足元を止めることはできず、身動きも取れずにもがいていた。
【軟化】の魔法。
対象の範囲の土や岩を、泥濘や砂に変えるこの魔法は、飛ぶことのできない者にとって、致命的な状況を作り出す。一度沈んでしまえば身動きが取れずに、頭まで沈んでしまえば、そのまま窒息してしまう。
そうでなくとも、足を抜き出すには硬い支えが必要だが、開けた場所で使えば、そのような支えなど存在しない。
魔法の範囲は約5立方メートル。男の身長が3mを超えていても、底には足が届かない。男の体重と相まって、既に腰までが沈み込んでしまっている。
「魔法は何も相手に向かって掛けるものばかりじゃない。どんなにレベルを上げて、抵抗する力があっても、それだけじゃどうにもならないぞ」
男は必死に抜け出そうともがいているが、重い鎧や盾、剣が邪魔をする。ボーンドラゴンが残っていれば、それを足場に抜け出すこともできただろうが、相方は先に脱落している。
「ちきしょう! これは闘技大会だぞ! 真正面からぶつかるのが礼儀だろうが! 観客は熱いバトルを望んでいる!」
「その観客を巻き込んで殺そうとした奴が何を言っているんだ。それなら最初から、俺がしたように体一つで真正面から挑んで来い!」
男の苦し紛れの台詞に、俺は冷たく言い放つ。男はとうとう剣と盾を捨て、泳ぐように抜け出そうとするが、プレートアーマーを着た状態で、泥を掻き分けて進むことが、どれだけ困難なのかを分かっていない。
まぁ、今身をもって実感しているだろうから、敢えて指摘はしないが。
とうとう胸までが泥に沈み込み、男は観念したかのように、俺を見上げながら、
「分かった。する。『降参』するよ! だから、助けてくれぇ!」
と言って、泥に塗れた腕を伸ばし、必死に懇願する。俺は、
「そうだな。『降参』するなら助けることは吝かじゃない。だが、その裁定は俺以外に下してもらおう」
と言って男から視線を逸らし、観戦する観客たちを見上げた。観客たちからは、怒号と共に盛大なブーイングが巻き起こる。そして、声を揃えて連呼する言葉はただ一つ、
「死を!」「死を!」「死を!」「死を!」「死を!」「死を!」
「「「死を!」」」
だった。俺はくるりと男に視線を戻し、
「だ、そうだ」
と肩を竦めた。男の表情は絶望に染まり、次の瞬間、周囲に向かって叫ぶ。
「クソッタレ! NPCの分際でプレイヤーに向かって何様だ! 覚えてろ! お前ら全員ぶっ殺してやるからな!」
男の捨て台詞に対し、観客はより一層の怒号が巻き起こった。もはや首まで沈み込んだ男に、
「残念だったな。奴隷船に売られた借り、返させてもらった」
と声を掛ける。男の瞳は驚愕に見開かれたが、泥の中に埋もれた口からは、もはや何も聞こえなかった。苦しさ故か、最後まで突き出された腕がもがいていたが、指先が沈むころには、その動きも止まっていた。
男の姿が完全に泥濘の中に消え、俺は構えた剣を天に向かって突き上げる。途端に沸き起こる歓声と共に、俺の勝利を告げる鐘が、闘技場に鳴り響いた。




