45 〈幻夢(VR)〉で強制イメチェンされる
〈妖精郷〉に戻ってからの3日間、俺たちは思い思いの時間を過ごした。俺は〈妖精郷〉がどのように変化しているのかを確認し、新たにできた施設を見て回ったり、ガデュス達と訓練を行ったり、クライスと共に彼の『森』となった場所を見て回ったりした。
スマラは大半を寝て過ごしているようだったが、こっそりと新たに覚えた魔法の練習と確認をしているのを知っているので、そっとしておいた。
新顔のマグダレナだったが、何故か大半を俺に付いて過ごしている。訓練にも一緒に参加するし、施設を見回る時にも人化して付いてくる。食事も常に一緒だ。クライスは果実や生の野菜を好んで食べているのでマグダレナも同じかと思ったら、俺が食べる料理と同じものを食べていたので、少々驚いた。
成長して人化できるようになると、食事も人と同じものが食べられるようになるらしい。それでも果実や野菜が好きなのは変わらないそうだが。
更には風呂やベッドまで一緒に入ろうとするので、流石に注意すると、物凄く寂しそうな目で見てくるので、甘いとは思いながら、今では風呂や睡眠も一緒に入るのを許していた。
なんだかんだ言って、マグダレナも寂しかったのだろう。本当はクライス達と暮らしていたかったんだと思う。〈玄子〉であることに疎外感を抱いていたが故に、家族に気を遣い、自分から離れていったのだろう。
そう思うと、寂しがり屋の妹ができたみたいで、ついつい甘やかしてしまう。まぁ、今は反応が大きいだけで、慣れてくればもう少し落ち着くだろうとは思っている。それまではある程度好きにさせてやろう。
そんな〈妖精郷〉での生活の中、俺はテフヌトを訪ねていた。こっちに戻った時に相談していたことを確認するためだ。俺はノックをして、
「いるかい?」
と聞く。だが返事はなかった。寝ているのかなと思い、念のためにドアを開けて中を確認する。
テフヌトはドアに鍵を掛ける習慣がないうえ、寝ているときは起こして欲しいと言われているので、俺は気にせず入って行く。
部屋にはテフヌトはいなかった。どうやら〈慈悲の剣〉に行っているようだ。もしかすると新たな挑戦者が現れたのかもしれない。俺が探索した時からそう経っていないのに。
話に聞いている挑戦者( 強制的に挑戦させられる犯罪者含む )の頻度と比べると、珍しいこともあるものだ。などと思っていると、唐突に〈召喚環〉が光り、テフヌトが姿を現した。
「おかえり」
「ただいま戻りました…。何か不思議な感じですね。このような挨拶を交わすのは。〈慈悲の剣〉に戻っても、このように挨拶はしませんからね…。それでヴァイナス、何か用ですか?」
そう言って微笑むテフヌトからは、否定的な感情は感じられない。俺は頷くと、
「いや、この間話していたマグの『服』について確認しに来た。そろそろ探索に戻るから、できているかと思って。それにしても、〈慈悲の剣〉に戻ったってことは挑戦者が来たのかい?」
と言う。テフヌトも頷いて話し始めた。
「その件ですか。ええ、頼まれたものは出来ていますよ。確かに挑戦者はいたのですが、私の処には来ないルートを選んだみたいで、私の出番はありませんでした」
テフヌトの話を聞いて、そういうルートもあるのかと頷く。確かに、最初の試練に成功していれば、俺もテフヌトと会わないで試練を進めていた可能性はある。
俺がそんなことを考えている間に、テフヌトは頼んでいたものを用意してくれた。
「お待たせしました。これです」
「ありがとう」
テフヌトが取り出したのは、布製の馬具と、馬用の甲冑だった。布製の馬具は、〈妖の森〉での狩りで手に入れたマーダースパイダーの糸である〈蜘蛛絹糸〉を精霊が織り上げた布を使い、白を基調とした美しい造りになっている。
一方、甲冑の方は〈緑鱗鎧〉同様、アースドラゴンの鱗を使い、防御力の割に軽く、動きやすいものに仕上がっている。
「これを付けた状態で人化すれば…」
「ええ、マグダレナも服を着た状態で人化できますよ」
そう、俺がテフヌトに頼んでいたのは、マグダレナが身に着ける馬具だ。それも人化した時に、そのまま服に変わる機能を持つマジックアイテムの馬具。
服に変化する機能をつけただけの簡単なものなので、弱い加護くらいしか付与されていないが、俺が乗る時の乗り易さと、何よりマグダレナを裸で歩かせないのが目的なので、問題はない。
マグダレナのやつ、未だに一人で着替えられないんだよな。半分甘えているだけのような気がするが、流石にこれからもずっと手伝うわけにもいかない。まぁ、覚えてくれれば良いんだけど、今は手抜きでも良いだろう。
「ありがとう、助かったよ」
「いえいえ。ヴァイナス、これで『貸し』一つですよ」
テフヌトはそう言って微笑む。彼女の言う『貸し』とは、〈饗宴の食卓掛〉に登録する新しい料理を作れ、と言うことだ。今は新しい食材や調味料が手に入らないので、街に着いて料理ができるように落ち着いたら、登録をする約束をしている。『貸し』一つにつき一品なので、街に着いたら作らないとな。
因みに、この馬具はテフヌト自身が着る服を参考にして作っている。〈饗宴の食卓掛〉を手に入れてから、彼女は食事が趣味のようになったのだが、獅子の身体では当然食事がし難いので、魔法を使って人化することにした。
…したのだが、当然の如く全裸であったため、俺が服を着るように言ったのだ。彼女は不思議そうな顔をしたが、俺が困ると説得すると、納得してくれた。
テフヌトも服を着る習慣はなかったため、獅子の身体でも着ることができるローブのようなものを作り、人化してもそのまま服として機能するものを作ったのだ。
テフヌトは今もその服を着ているが、意外と気に入っているらしく、他にも何着か作ったらしい。
テフヌトから馬具を受け取った俺は、テフヌトの部屋を出て、階下にいるマグダレナの処へ向かう。
マグダレナは、手持無沙汰だったらしく、ソファーに寝転がって退屈そうにしていた。俺の姿を見た途端、満面の笑みを浮かべて飛びついてくる。
すっかり懐かれたことに苦笑しつつ、マグダレナと共に外へ出る。そして、
「服を脱いで」
「服を脱ぐの? もしかして、ここで交尾?」
何故かキラキラと瞳を輝かせるマグダレナの言葉に俺は噴き出す。そして、言葉が足らなかったことに気付き、
「いや、服を脱いで人化を解いてくれ」
「分かったわ。脱がせて」
「そろそろ着替えも覚えただろう? いつまでも甘えていないで自分でやりなさい」
俺の言葉に、マグダレナは渋々と服を脱ぎ始めた。ズボンは簡単に脱げるが、やはりボタンは難しいらしく、苦戦しながらも何とか脱ぎ終える。
マグダレナは全裸になると、人化を解いて黒馬の姿に戻った。
「それで、どうするの?」
「テフヌトに頼んで、マグの馬具を作ってもらった。これを付けたまま人化すると、そのまま服になる」
俺はそう言って腰鞄から馬具を取り出した。布製と甲冑の両方を準備し、まずは布製の馬具をマグダレナに着せる。
「どうだい? 着苦しいとかあるかい?」
「ううん、大丈夫。とても着心地が良いわ」
服を着る習慣のなかったマグダレナだが、ここ数日で服を着るのに抵抗はなくなったようだ。それは黒馬の状態でも同じようで安心する。
俺は手綱を握り、鐙に足を掛けてマグダレナに跨った。そして、周囲を軽く走ってもらう。
マグダレナは草原を軽快に走る。ここ数日は人化したままだったので、思い切り走れたことが嬉しいのか、喜びが伝わってくる。
結構な距離を走って満足したのか、予定よりもかなりの距離を走ってから家の前に戻る。
「それじゃあ、人化してみて」
マグダレナから降りた俺は、マグダレナに人化をお願いする。マグダレナが人化すると、白を基調としたワンピース姿の美女が、目の前に現れた。
「どう?」
マグダレナは首を傾げて聞いてくる。彼女の漆黒の肌に、対照的な白のワンピースは非常に似合っていた。
「良く似合っている。可愛いよ」
マグダレナの容姿には適切ではない気がしたが、最近の彼女の仕草を見ていると、外見に反した幼さを感じてしまうので、可愛いと評してしまった。
「可愛い、なんて言われたの初めて…」
マグダレナは嬉しそうに微笑んでいる。俺はそのままの格好で動き辛くないか確認してもらう。そして、そのまま服を脱いでもらう。下着まで含めて全裸になると、もう一度服を着てもらい、その後人化を解いてもらった。
黒馬状態になっても馬具が装備されていることを確認し、今度は甲冑を装備してもらう。服の上から着ることができるので着つけていくと、深緑の甲冑に身を包んだ、勇壮な黒馬が出現した。
「うん、強そうだ」
「嬉しいけど、何かモヤモヤする」
気を許したためか、素の部分がそうだったのかは分からないが、口調や態度がすっかり年頃の少女の様になっているマグダレナからすると、強そうと言われるより、可愛いと言われるほうが嬉しかったようだ。
俺は宥めるように軽く首を叩くと、甲冑を付けた状態での騎乗具合も確認するため、鐙に足を掛けて跨る。マグダレナは先ほどと同じように草原を駆け戻ってくる。甲冑を付けていても特に問題はないな。動きも鈍くなっていない。
俺はマグダレナから降りると、マグダレナは人化を開始する。そこに現れたのは、深緑の甲冑に身を包んだ美女だった。
額飾り(ディアデム)の下に覗く顔は美しく、ドラゴンの骨を使った胸甲、手甲、足甲の白さと、緑鱗とのコントラストが見事だった。
ワンピースのスカート部分を覆うように作られた装甲は、小さな鱗を用いて柔軟性を持たせると共に、強度も確保している。
凛々しい女騎士といった姿になったマグダレナを見て、俺は暫く見蕩れていたが、マグダレナはモジモジすると、
「あのね、そんなに見つめられると恥ずかしい」
と言って恥ずかしがっている。何この娘、凄い可愛いんだけど。俺は思わず頭を撫でていた。マグダレナはますます照れて縮こまってしまう。この娘が俺と死闘を繰り広げたとはとても思えん。
暫しの間頭を撫でて愛でてから、再び人化を解いてもらい、鎧が装備されたままであるのを確認してから家へと戻る。
明日には探索に出発するということで、今夜は草原で皆を呼んで夕食を取ることにした。ゴブリン達やエメやクライス、テフヌトや精霊達を呼んでの夕食は、非常に賑やかで楽しかった。
まだまだ食材も調味料も種類に乏しいのでご馳走とまではいかなかったが、精霊の作る料理は美味しかった。街に戻ったら色々と買い込んでこようと思う。
食事を終え、風呂に入り寝ることにする。今夜はマグダレナがいないので、一人ベッドに潜り込む。
マグダレナはクライスの処へ行っている。今日は姉弟で一緒に寝るらしい。俺も誘われたが、せっかくの姉弟水入らずの時間を邪魔したくなかったので、丁重にお断りした。
明日からの探索に思いを馳せつつ、俺は目を閉じた。
次の日の朝、俺は準備を整えると、スマラとマグダレナを連れて〈妖精郷〉を後にした。安地以外では門が開けない以上、皆を連れていくわけにはいかなかった。
マグダレナも置いていこうと思ったのだが、頑として聞き入れなかったのと、森のことを良く知っていることを考えて、連れていくことにした。戦力としては俺に匹敵するものがあるので、信頼はしているが、無理はしないようにしよう。
完全武装したマグダレナに跨り、俺たちは夜明けの森を進む。「妖精の輪」を見つけながらの進みは決して早いものではなかったが、焦らずゆっくりと進んで行く。
すると、何処からか小さな声が聞こえてくる。どうやら誰かが泣いているらしい。
「マグ、泣き声が聞こえないか?」
「聞こえる。どうする? 行ってみる?」
俺が頷くと、マグダレナは鳴き声のする方向へと向かっていく。近づいていくにつれ、泣き声ははっきりと聞こえてくるようになったが、動物の鳴き声ではない。
泣き声を頼りに暫く進んで行くと、森の中に崩れた建物が現れた。瓦礫の上には木や草が生い茂り、かなり古いものであることが窺えた。
俺はマグダレナから降りて、崩れた建物を探索する。瓦礫の隙間にも木の根が潜り込んでおり、倒壊する危険は少なそうだが、足元は凸凹で動き辛い。何が潜んでいるか分からないので、音を立てないように探索するのは大変だ。
マグダレナは待機している。流石に忍び歩きとかは無理だからだ。探索をしていると、木の根の隙間から地下へと続く階段が見えた。耳を澄ますと、泣き声はこの下から聞こえてくる。
俺はマグダレナを呼んで、中へと進むことにする。黒馬の状態では入れないので、人化してもらい共に進んで行く。
階段は長い間使われていなかったのか、埃が積もっている。螺旋を描きながら続く階段を降りながら、俺は考えていた。
泣き声の主は人ではないのだろうか? このように人気のない場所にいるのだから、幽霊などのアンデッドとかの可能性もある。
だが、精霊や幻想種が泣いている可能性もあるので、まずは確認だ。友好的な存在なら、可能な限り助けてやりたい。イベントやクエストは極力回収する性質なのだ。
長く続いた階段の先には、古びた扉があった。長い年月を感じさせる扉は不思議と汚れておらず、その理由は扉の表面に施された幾何学模様にあるようだ。
「随分強力な魔法で施錠してあるわね」
スマラが影から姿を現し、扉を見ながら呟く。
「解除できるか?」
「私だと厳しそう」
スマラに確認すると、そう答えが返って来た。それを聞いてマグダレナが、
「それなら私がやってみる」
と言って扉に近づこうとした。その足元がグラリと揺れる。俺は注意をしようとしたが間に合わず、マグダレナの足元が崩れ落ち、マグダレナが落下する。
俺は咄嗟に腕を伸ばし、マグダレナの腕を掴む。甲冑を着込んだマグダレナの重さに身体ごと持っていかれそうになり、空いた手で壁を掴み、何とか踏み止まった。試練によって成長した〈体力〉によって支えることができたが、以前の俺なら間違いなく一緒に落ちていた。
呆然と俺を見上げるマグダレナ越しに崩れた床の先を見ると、鋭いスパイクが無数に生えているのが見えた。そしてスパイクの犠牲になった哀れな先達が、白骨と化した骸を晒している。
俺は慎重にマグダレナを引き上げると、マグダレナは俺に抱き着いて俺の首筋に頬を擦りつけてきた。嬉しかったのだろうが、ディアデムが当たって痛いので止めさせる。
「ありがとう。死ぬかと思った」
「いや、俺の注意も足りなかったな。ダンジョンにはこういったトラップも多いから、俺が良いと言うまで勝手に動くんじゃないぞ」
俺の言葉にマグダレナは頷く。それを確認し、俺は改めて扉へと向かう。調べてみたが、特に罠はないようだ。俺は集中し、【開錠】の魔法を唱える。余分にSPを消費して、5レベルで魔法を使う。
俺の魔法はあっさりと弾かれる。かなり強力な鍵だ。俺は再度集中し、今度は倍の10レベルで【開錠】を掛けた。
これで開かなかったら諦めよう。そう思ったが、今度は効果を発揮し、幾何学模様を包んでいた光が消える。扉は嫌な軋み音を立てながらゆっくりと開いていく。
扉が開くと同時に、泣き声も途絶えていた。中は真っ暗だったが《暗視》を持つ俺には問題はない。それよりも巻き上がった埃が視界を妨げている。
その埃を掻き分けるように何かが姿を現した。その姿を見たマグダレナが警戒の声を上げた。
「いけない、〈哀哭精〉よ!」
〈哀哭精〉
西洋の伝承にある妖精だが、オーラムハロムでは精霊の一種として知られている。決して邪悪な存在ではないが、その能力のために、忌避されている。
恐らく、こいつが泣き声の主だ。俺は身構えて警戒をする。長い黒髪の美しい女性ではあるが、その瞳は真っ赤に染まっている。透き通るような白い肌の上にボロボロの灰色のマントを身に着けただけの姿からは、脅威は感じなかった。
すると、バンシーは突然、身の毛も弥立つような叫び声を上げた。その声は周囲の埃を吹き飛ばし、俺の精神に直接痛みを与えてくる。俺は必死に精神を集中し、抵抗する。
これがバンシーの忌避されている能力だ。彼女の叫びを聞いた者は、精神にダメージを受ける。心の弱い者は、そのまま精神を破壊されて廃人になると言う。
このバンシーはかなり強い力を持っているようで、成長した今であれば耐えられるが、以前の俺だったら抵抗できなかっただろう。スマラも辛うじて耐えていたが、かなり疲弊しているので、影の中に避難させる。
マグダレナも耐えているようだが、動きに精彩がない。俺は〈西方の焔〉を振り翳し、バンシーに切り掛かるが、マグダレナが制止の声を上げた。
「駄目! 攻撃したら…」
マグダレナの制止は間に合わず、俺の剣がバンシーを切り裂いた。すると、バンシーは叫び声を上げた。先ほどとは比べ物にならないくらいの衝撃を精神に受け、俺は堪らずにその場に膝をつく。マグダレナも膝をついて必死に耐えている。
「〈哀哭精〉に物理的な攻撃は殆ど効果がない。斃すには魔法か、拠り所となる原因を取り除くしかない…」
マグダレナの言葉に、俺は【呪弾】の魔法を唱えようとして、バンシーの周囲を取り囲む、靄のようなものに気が付いた。
それは蒼い霧のようなもので、まるでバンシーを縛り付ける鎖のように感じた。
「マグ、バンシーを取り巻く霧が見えるか?」
「ごめん、私には見えない。でも、それが原因ならそれを取り除けば…」
荒い息の中、必死に耐えているマグダレナの言葉に、俺は魔法を変更し、【破呪】の魔法を唱える。対象はバンシーを取り巻く蒼い霧だ。俺の掌から放たれた魔法が霧を捉えるが、手ごたえがない。
バンシーは再び叫び声を上げる。俺は必死に耐えるが、マグダレナはすでに四つん這いになっている。このままだと耐え切れないかもしれない。
俺は〈小さな魔法筒〉を取り出し、マグダレナに中に入るよう指示を出す。マグダレナは小さく頷くと筒の中に吸い込まれた。
俺は耐えながら、今度は【解呪】の魔法を唱える。これは純粋に魔法を打ち消す【破呪】とは異なり、魔術的な封印や呪術的な呪いを解除するものだ。よりレベルの低いものにしか効果がないが、【破呪】では効果がない魔法を解除することができる。
俺は体内のエーテルを活性化させ、残ったSPの殆どを費やし、渾身の【解呪】を唱える。
【解呪】の魔法は対象に接触していなければならない。俺は震える足を必死に運び、バンシーに抱き着くように飛び込むと、【解呪】を発動した。
身体越しに放たれた【解呪】は、バンシーを取り巻く蒼い霧を一瞬にして消し去り、それと同時に放たれたバンシーの叫びに、俺の意識が飛びそうになる。
意識を失うある種の心地よさに必死に耐え、バンシーのいつ終わるとも知れぬ『死の叫び』が収まるまで、俺はバンシーを抱き締め続けた。
どれだけ時間が経ったのか、気が付くとバンシーの叫びは収まり、周囲には静寂が漂っている。いつの間にか意識を失っていた俺は、顔を包み込むように感じる温かさと、何かを口に含まされている息苦しさに目を覚ました。
目を開くと、視界を塞ぐ白くて暖かいものに戸惑う。そして口の中に感じる温かさと仄かな甘さ。首を動かそうとしたが、何かに掴まれているようで、動かすことができなかった。
無理に引き剥がそうとはせずに、状況を確認しようと目を動かすと、頭上から俺を見下ろすバンシーの微笑みが見えた。深紅に染まっていた瞳は、澄んだ榛色になっていた。
そして目の前のものが人肌だと分かり、俺は何故かバンシーの乳房を含まされている。そのことに気が付いた俺は、思わず含まされたものを吸ってしまう。
急な吸い付きに、バンシーの身体がピクリと反応するが、バンシーは変わらずに俺の顔を抱え込んでいる。それはまるで母親が赤子に乳をやるような慈愛に満ちていた。
俺は混乱した意識のまま、暫く乳房を含んでいると、バンシーは満足したのか、俺の顔を抱えていた腕をそっと解く。俺はバンシーの拘束から解放されると、起き上がって様子を伺う。
バンシーは穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見ている。どうやら敵意はないようなので、俺はスマラに心話で声を掛け、〈小さな魔法筒〉からマグダレナを呼び出した。
俺が行動している間、バンシーは微笑みながらこちらを見ていたが、スマラやマグダレナが姿を現しても、その態度は変わらず、こちらを見ながら微笑んでいる。
『君は何故此処に閉じ込められていたんだ?』
俺は精霊語で話しかける。バンシーは首を傾げると、ふるふると首を振った。
「この娘、もしかして喋れないのかしら」
スマラがバンシーの態度を見て、そう判断する。マグダレナも落ち着いたのか、敵意の感じないバンシーに、どうしたものかという表情でこちらを見ていた。
「本来、〈哀哭精〉は拠り所を失うと消えてしまうものだけど、この娘はどうして消えずにいるのかしら?」
スマラが疑問を口にすると、バンシーは立ち上がり、部屋の奥へと進んで行く。こちらを振り向いて手招きするので、俺たちは付いていくことにした。
部屋の奥には様々な家具が置かれていたが、どれも長い年月を経て朽ち果てている。バンシーはその中を進み、古びた暖炉の前に立つ。そこには小さいながらも精緻な造りの小箱が置かれていた。埃だらけの中、小箱だけは綺麗に保たれていた。
バンシーは小箱を取ると、そっと俺に渡してきた。俺は徐に小箱を開いてみる。すると、小箱から美しい音色が流れ始めた。
「これは、自鳴琴か…」
オルゴールから流れる曲は俺の知らないものだったが、不思議と心が癒された。俺は目を瞑り、暫く音色に耳を傾けた。
曲が一回りしたところで蓋を閉じ、俺はバンシーに小箱を返そうとする。するとバンシーは首を振り、受け取ろうとしなかった。
「これを持っていけってことか?」
俺の言葉にバンシーは頷く。無意識に共通語で喋っていたが、どうやら言葉は通じているようだ。
「分かった。大切にするよ」
俺がそう言うと、バンシーは微笑みながら頷く。その姿が徐々に薄くなっていく。バンシーの姿が消えるまで、俺はその場で見守っていた。
「きっと、この自鳴琴があの娘の本当の拠り所だったのでしょうね」
スマラの言葉に俺は頷くと、オルゴールを腰鞄に仕舞った。そして、背後を振り返ると、マグダレナが目を見開いて俺を見ている。
「どうした?」
「ヴァイナス、髪が…」
髪? 俺は前髪を摘まんで目の前に翳す。すると、目に映ったのは見慣れた黒髪ではなく、銀糸のような白髪だった。
「え?」
俺は慌てて腰鞄から手鏡を取り出して顔を映す。そこに現れたのは、白銀の髪を持ち、碧眼の左目を持つ、俺だった。
恐らく、バンシーの叫び声を聞き過ぎたのだろう。精神的に強烈なショックを受けると、白髪に変わるというのを聞いたことがあったが、まさか自分に振り掛かるとは…。
「身体は大丈夫なの? どこか痛いところかはない?」
マグダレナが身体のあちこちを触りながら心配してくるが、髪の色が変わった以外は特に異常を感じてはいないし、むしろ調子が良いくらいだった。
「髪の色にはびっくりしたが、特に問題はないよ。今まで髪を染めたことなんてなかったから、ちょっと恥ずかしいけどな」
「染めたんじゃなくて、変わってるんでしょ」
スマラのツッコミはスルーし、しきりに心配するマグダレナを宥めながら、俺は部屋を後にする。
それにしても、バンシーの乳房を含まされたのはなんだったのだろうか…。街に戻ったら調べてみるか。そのためにもバーゲストを倒さないとな。
『それで、〈哀哭精〉のおっぱいは美味しかった?』
ここでそれを聞くのかよ…。スマラのからかい交じりの心話もスルーして、俺は表へと続く階段を登り続けた。




