1 これが幻夢(VR)の世界か
「これが〈オーラムハロム〉の世界か…」
AGSを介して接続した世界は、現実以上の存在感を持って伝わってきた。
足元に広がる大地から香る土の匂い。
木々の間を抜けて優しく頬を撫でるそよ風。
抜けるような青空に浮かぶ二つの太陽から差す日の光。
ふと気になって足元に茂る草に触れてみると、現実と遜色ない感触を伝えてくる。
AGS初体験の俺は、全身で感じる「現実感」に、ただただ感動していた。
20XX年現在、社会に広く普及しているVRシステムだったが、その次世代機として発表された〈アルジェントシュロシーロ(AGS)〉の初期生産分を購入する権利を、幸運にも手に入れた俺は、AGSの発売と共にサービスが開始されたVRMMO〈オーラムハロム〉を早速プレイすることにした。
〈オーラムハロム〉は、AGSの特徴である、従来のVRでは再現が難しかった味覚や嗅覚に関するシステムを組み込み、五感全てを体現できるという触れ込みもあって、AGSが発表され、発売が決定されると同時に、尋常ではない購入希望がメーカーに寄せられた。AGSの初期生産量の100倍を超える受注数に、ソフトとハードのメーカー共同で、AGSの初期販売を抽選で行う取り決めをするという、前代未聞の事態に陥ったほどだ。
当選に関しては、AGSが直接発送され、代金引換で購入することで対応する形となった。
宅配業者からAGSの小包(小包とは言っているが、実際には大型のベッドほどの大きさがある)を受け取った俺は、その場で小躍りしてしまったほどだ。
勿論、その場で購入手続きをした(現在流通しているのは電子マネーによる取引なので、マイナンバーで簡単に処理できる)俺は、早速AGSを設置し、初期設定を行っていく。
AGSはOSや通信環境まで全てが独立したシステムになっており、そこも従来のVR環境とは一線を画している。
こんなことができるのも、世界規模で展開する巨大企業グループが関連企業を中心に開発・管理運営を行っているからなのだが(誰でも名前くらいは聞いたことがあるだろうアノ企業だ)。
なにより電源自体が、専用のマイクロウェーブで供給されるというのだから驚きだ。月が出ていなくても大丈夫なのだろうか?
起動したAGSの中に横たわり、窓を閉める。窓の開閉や各種操作は、腕に装着した携帯端末から行うので簡単だ。
そして、全身をスキャニングし、身長、体重、サイズ、心拍数、感覚器官の確認など、パーソナルデータを入力していく。これによって他人が勝手にAGSを起動できないようにするのだ。
パーソナルデータの入力も終わり、今度は起動実験となる。従来のVRシステムは、ヘッドマウント型なので、単に被るだけで良かったのだが、AGSは最先端の医療技術を取り入れた最新機器である。
より鮮明に五感を体現するため、使用中は肉体が疑似的なコールドスリープ状態になるらしい。新陳代謝を抑え、排泄などの生理現象を抑えることができるそうだ。
一見素人がこんなことを行って良いのか? と思うが、災害時に使用する緊急医療ポッドとシステムは同じなので、大抵の人は問題がない(義務教育課程で緊急医療ポッドの使用訓練は行っているし、地域によっては避難訓練時に使用方法を練習しているはず)。
AGSは使用年齢制限として対象年齢15歳以上と定められており、また、安全装置として24時間以上連続で使用すると、自動的に使用が中断され、覚醒するシステムになっている(これは従来のVRシステムにも搭載されている機能だ)。
AGSの使用に必要な手順を全て終えると、今度は〈オーラムハロム〉の準備を進める。
まずはAGSを再起動し、VR状態で確認できるマニュアルで指示された手順をこなしていく。タッチパネルやキーボードを使わなくとも、視線や声で作業が進むのは非常に便利だ。その上で、説明文を読んでいく。内容はこんな感じだ。
●オーラムハロムへようこそ!●
このたびは、弊社が運営するVRMMO「オーラムハロム」にご参加いただき誠にありがとうございます。この場を借りましてプレイヤーの方々には感謝の言葉を述べさせていただくとともに、「もう一つの現実」を謳った本作を楽しんでいただくことを切に願います。
本作を楽しんでいただくためにも、以下の解説をご確認いただきますようよろしくお願いいたします。
●アルジェントシュロシーロ●
本作は次世代VRシステム「アルジェントシュロシーロ(AGS)」対応のサービスです。
AGSはインプラント等の特殊な外科処理の必要ない、画期的なVRインターフェースですが、体質・健康状態などの原因で身体に影響がある場合もあります。睡眠不足・体調不良の時には、使用をお控えください。
なお、システムの不具合等、本作の運営に関するトラブルを除く、使用上における責任は弊社では一切お受けすることができませんので、ご了承ください。
●もう一つの現実●
本作は、脳へ電気信号を送ることにより、使用者の意識・五感をVRワールドに完全に移行する新システム対応のサービスになります。
現実世界に戻るためには、ログアウトを行うか、外部からの強制中断以外の方法はありません。プレイされる場合は、用法・接続時間を十分に考慮していただくよう、よろしくお願いします。
まぁ、この辺りはいわゆるガイドブック的な感じだな。AGSを購入する際に同じような文章を読んでいるので、斜め読みで済ませる。
次に、ゲーム自体の概要を確認。
●探索の舞台●
プレイヤーが「探索」を行う世界、もう一つの現実である異世界、オーラムハロムはいままでにない「現実感」をご提供します。
従来のVR型MMO全般に使用されているアイコン・ステータス表記といったものは一切ありません。オートマップやアイテムストレージといったサービスも行っておりません。
プレイヤーの皆様は、現実世界同様、自らの手で地図を書き、明かりを手にし、武具を携えて「探索」を行うことになります!
当然、プレイヤー同士による戦闘も、全エリアで可能なハードな仕様になっております。
もっとも、場を弁えずに危険な行為を行えば、衛士たちに捕えられ、相応のペナルティを受けることになるので注意してください!
準備などに手間をかける不便さも本作の特徴であると敢えて言わせていただきます! 現実世界と変わらぬ異世界の探索を、心行くまでお楽しみください!
攻略のヒントなどは、弊社からは一切提供いたしません。プレイヤー同士での協力やNPCたちとの交流が、現実世界同様不可欠となります!
ふーむ、ベータテストのレビューも読んだけど、リアル志向が非常に強いな。ここに書いてあることが本当なら、オーラムハロムでは、現実世界と同じように行動する必要があるわけだ。
腹が減れば飯を食う。
眠くなれば眠る。
身体や服が汚れれば、風呂に入り、洗濯をする。
怪我をしたら手当をする。
便意を催せば、用を足す。
これは、賛否両論が激しそうだ(ちなみにここまで挙げたものは、全て実装されているらしい)。
俺はどこまで現実を再現できているのか、リアリティがあるのかに非常に興味があるので、現実世界同様の手間暇はむしろ願ったり叶ったりなのだが、ゲームにそこまで現実感を持ち込むことに抵抗がある人だっているだろう。
まぁ、そんな人は初めから手を出さないだろうし、実際に体感してみないと、どんなものかは分からない。ぶっちゃけてしまえば、受け取り方は主観であるし…。
気を取り直して、最後に課金関係の確認をする。
●課金システム●
本作は有料サービスのコンテンツとなります。接続料金として、月額¥3000(20XX年現在)が必要になります。
また、本作は「ゲームコイン現実還元システム」を導入しております。オーラムハロム内にある「両替商」で、所定の手続きを行えば、オーラムハロムで獲得した「金銭」が、電子マネーの形でプレイヤーの方々に還元されます。詳細はオーラムハロム内の銀行でご確認ください。
なお課金アイテム等のサービスは、弊社の運営するオフィシャルサイトをご確認ください。
そう、このゲームはなんとリアルマネーが手に入るのだ!
もっとも、ゲーム世界でどれだけお金が稼げるのか分からないし、他の「ゲームコイン還元システム」を導入しているゲームを見ると、ゲーム内だけの収入で生活する「プロ」VRゲーマーは、そのほとんどがトップランカー、もしくはそれに準ずる廃プレイヤーであるらしく、とても採算が取れるものではないらしい。
むしろ、課金アイテムなどを使い、コストが掛かるほうが多いようだ。所詮「娯楽」であるゲームで、楽して稼ぐなんてことは夢物語なのだ。
最後にマイナンバーを登録して契約を完了し、IDとパスコードを決定し、準備は完了。俺は期待に胸を膨らませ、〈オーラムハロム〉の世界へと足を踏み入れた。
そして先ほどの場面へと繋がるわけだ。俺は回想を打ち切ると、他のプレイヤーと共に聞こえてくる話に耳を傾ける。
サービス開始初日である今日は、平日の午後12時にも関わらず、多くのプレイヤーがログインしていた。他のプレイヤーも俺と同様、アクセスポイントである〈陽炎の門〉(ミラージュゲート)の前に降り立ち、〈門番〉(ゲートキーパー)の話を聞いているところだ。
周囲を見渡すと、初期装備である簡素な造りの巻頭衣を来たキャラクター達が立っており、その姿を見て思わず笑みを浮かべる。
キャラクターの初期作成では、年齢、性別、身長、体重、体色、体毛の色などに加えて〈種族〉(レイス)を選択できる(ちなみに顔の造形に関してはランダムに決定される。これが嫌な場合は、種族を〈ヒューマン〉に限定され、現実世界のパーソナルデータを使って、現実の自分の姿で遊ぶことになる)のだが、ヒューマン以外の種族を選択した人が結構いるのだ。
人間に比べてやや小柄で華奢な体格、尖った耳を持つ〈エルフ〉
短躯でがっしりした体格、豊かな髭を持つ〈ドワーフ〉
一見すると人間の子供のような姿の〈ハーフリング〉
半人半馬の逞しい〈セントール〉
直立した竜を思わせる〈ドラゴニュート〉
小さな体に透き通った羽根を背に生やした〈フェアリー〉
獣耳と尻尾を持つ〈セリアンスロープ〉
ここに老若男女の違いだけでなく、〈種族〉内での体格の違いまで加わって、異世界情緒感が半端ない。見ているだけでワクワクしてしまう(ちなみに俺は無難に〈ヒューマン〉を選択している)。
〈門番〉の周囲には、数千人のプレイヤーが群がっているのだが、〈門番〉の声は、不思議と全員にしっかりと聞こえているようだ。おそらくAGSの通話機能あたりを流用しているのだろう。
「もう一つの現実」を謳っている割には都合の良さを感じなくもないが、現実には通信機器なぞ珍しくもないので、これもリアリティがあると言えるのかもしれない。
〈門番〉の説明は終盤に差し掛かったようだ。これからキャラクターの〈職業〉(クラス)ごとに、場所を変えて説明があるようだ。
気の早い者は、早速指定された場所へと向かっている。中には説明も聞かずに向かっている人もいるようだが、おそらくはベータテストから参加していた「先輩」だろう。
「此度の探索者は気の逸る者が多いのぅ…。やる気があるというか、粗忽者というか…」
我先にと次のエリアに向かうキャラクター達。それを見ながら苦笑している〈門番〉に近づき、俺は声を掛けた。
「はじめまして。いくつか質問をしたいんですけど、いいですか?」
俺の声に対し、〈門番〉は少し驚いた顔をしつつ、
「ほほう、そなたは他の者とは少々違うようじゃな。儂に答えられることならば、何にでも答えよう」
そう言って頷いた。
声を聞いた時から違和感があったのだが、近づいてみて更に驚かされた。口調からは想像できない、可愛らしい少女だったからだ。これはいわゆるロリb…。
「何か良からぬことを考えておるようじゃのぅ。あまり不躾に人を見るものではないわ」
俺の視線から考えを読んだのか、少々ご立腹な少女に対し、俺は慌てて居住まいを正す。
「いえ、決して失礼なことを考えているわけでは…。ですが、失礼があったようなので、謝罪します。申し訳ありません」
そう言って頭を下げる俺に対し、
「何が失礼なのかを分かりもせずに、謝るのは感心せんのぅ。まあ良いわ。話も聞かずに進んだあ奴らに比べれば、そなたはましな方じゃからな」
少女はそう言って微笑みを浮かべる。その笑顔に安心し、改めて話を聞くことにする。
「それで、何が聞きたいのじゃ?」
「まずは貴方のお名前を。失礼、僕はヴァイナスと申します」
少女の名前を聞いていなかったことを思い出し、そういえば自分の名前も言っていなかったと、キャラクターとして自己紹介をする。
「ヴァイナスか。儂は〈陽炎の門〉の〈門番〉、ム・ルゥじゃ」
少女はそう言って微笑む。ちょっとした表情の変化に違和感はなく、この少女が運営側が用意したスタッフなのか、設定された高度なAIなのかの区別はつかなかった。普通、チュートリアルを担当するのはプログラムされたNPCであるし、わざわざ人員を配置するコストを掛けるとは思えないのだが。
「して、何がききたいのじゃ?」
微笑みを浮かべたまま、小首を傾げる姿は自然でとても愛らしく、こちらも思わず笑みを浮かべてしまう。
「そうですね。まずはこれについて」
俺はそう言って左手を上げる。そこには精緻な模様が彫り込まれた腕時計のようなものが嵌められていた。
「それか? それは〈刻の刻御手〉(ときのきざみて)じゃよ」
「ああ、これが…」
ム・ルゥの言葉を受けて、俺はそれをしげしげと眺める。そしてゲームを始める前に確認したガイドを思い出す。
●刻の刻御手●
「刻の刻御手」は、オーラムハロムで活動する探索者が一人ずつ所持する、銀色の金属で造られた時計(腕時計、懐中時計、指輪型、首飾り型などデザインは複数から選択できます)で、探索者ごとに、文字盤の台座に刻まれた模様が異なり、二つと同じものがないユニークアイテムです。
これは初めてオーラムハロムを訪れる際に「陽炎の門」を守る神官、ム・ルウから渡されます。刻の刻御手を装備中、探索者は〈幸運〉の値が1点上昇します。
このアイテムを失うと、現実世界に帰る手段の一つが失われることになるので、探索者は管理に細心の注意を払ってください。
なお、探索者の中にはPKを行い、刻の刻御手を奪う悪質な者もおり、「簒奪者」と呼ばれ忌避されています。ですが、ゲームの仕様上禁止行為ではありません! 探索者の方々には、そのことを踏まえて行動していただきたく思います。
なるほど、実際にはこういうデザインになるのか。
文字盤の周囲を巡るように彫り込まれた装飾は、仄かに緑色の光を発している。文字盤や、それ自体も凝った造りをした時針が刻む音まで再現されている。
「とりあえず腕時計を選択しましたが、実際にデザインを見るのは初めてでしたので」
「なるほどな。確かに、〈探索者〉(クエスター)一人一人に異なる形、装飾が与えられる〈唯一無二の品〉(ユニークアイテム)であるし、与える儂であっても、どのようなものになるかは予測がつかん。気に入ってもらえれば幸いじゃ」
「素敵なデザインですよ。気に入りました。ありがとうございます」
俺の腕の〈刻の刻御手〉をしげしげと眺めつつ話すム・ルゥに、俺は礼を言って頭を下げた。
「うむ、そなた等〈探索者〉にとっては生命ともいえる品じゃ。大事にせよ」
ム・ルゥの言葉に頷く。ここで俺はまたガイドを思い出す。
●現実世界への帰還●
オーラムハロムから現実世界に帰還するには、「刻の刻御手」の帰還機能を起動するか、世界の各所にある「門」をくぐることによって帰還することができます。乱暴な手段にはなりますが、探索者が「死亡」することによっても現実世界に帰還できます。
「刻の刻御手」による帰還は、機能を使用した場所で帰還・復帰を行うため、注意が必要です。
「門」を用いて、または「死亡」時の帰還は、クエスト中などの特殊な状況を除き、使用した(または死亡時の場所から最も近い)門から復帰します。
説明通りなら、この世界からログアウトする方法は3つある。
・〈刻の刻御手〉による帰還
・〈陽炎の門〉を使っての帰還
・キャラクターが【死亡】状態になった時の帰還
ここにシステム異常による強制帰還や、AGSの連続起動限界(24時間)による強制帰還などもあるのだが、それに関してはあくまでイレギュラーなので数には含めない。
〈刻の刻御手〉を失った場合、能動的な帰還方法が事実上〈陽炎の門〉によるもののみとなるので、探索の自由度が大幅に制限されることになる。この世界にどれだけ門が設置されているのかは分からないが、せいぜい大きな街に一つ、といった程度ではないかと予想している。
予想が正しい場合、門を中心として行動できる範囲に探索が限られてしまい、〈探索者〉としての行動には大きな足枷となるだろう。
ちなみにベータテスト時のレビューを読んだのだが、遊び半分で他のキャラクターの〈刻の刻御手〉を奪う〈簒奪者〉(ユザーパー)は結構いたらしく、被害にあったプレイヤーから運営に対してクレームが入ったようだが、運営からは「仕様」の一言で終わったらしい。
確かにベータテストは限定された場所のみで行われ、帰還のための門も一つだけだが常設されており、テスターが行動できたのは門がある街と、街のある島(大人の足で端から端まで1日ほどの広さ)の中だけだったのである程度問題があったようだが、ベータとは比べ物にならないくらい広大な世界で、プレイヤーキャラクター(以後PC)の他に何百倍も存在するノンプレイヤーキャラクター(以後NPC)の中からPCを探し出して〈刻の刻御手〉を奪う労力はよほどの物好きでない限り敬遠するはずだ。
とはいえ、警戒することにはこしたことがないので、心の隅には留めておく。
「あと、これを身に着けている時に〈幸運〉の値が1上昇すると聞いているのですが、僕の能力値はどこで確認できるのでしょう?」
俺の質問に対し、ム・ルゥは、
「ふーむ、本来それを答えるのは儂ではないのだが、まぁよかろ。大きな街には〈鑑定士〉がおるし、〈探索者組合〉(クエスターギルド)には専属の鑑定士がおるから、その者に頼めば確認できる」
「〈探索者組合〉?」
俺が思わず聞き返すと、ム・ルゥは苦笑いを浮かべ、
「なんじゃ、このままではいつまでたっても疑問が尽きなそうじゃな…。そなたが良ければ、付き合うてやろう。他の者たちはすでに探索を始めるようじゃが、どうする?」
と尋ねてくる。俺は迷わず、
「お願いします。ぜひお話をさせてください。僕はこの世界のことを何も知らない。世界を知ることは、決して遠回りじゃないはずだ」
と頭を下げた。
ム・ルゥはそれを受けてコロコロと笑い。
「ほんに、そなたは変わっておるのぅ。よかろう、そなたの気が済むまで、付き合うてやるわい。じゃが、その前に腹が減ったわい。先に食事にしようではないか」
「御相伴に預かれるのでしたら、喜んで」
俺はにこりと笑って返答する。ム・ルゥは笑みを深め、
「ちゃっかりしておるのぅ。よかろ。御馳走してやるわい」
と言って踵を返し、他のプレイヤーが向かった施設とは別の方向にある、奥まった建物に向かって行く。俺はその後を付いて行った。
ム・ルゥが用意した食事は、質素ではあったが量があり、味も申し分のないものだった。特に自家製であるベーコンは厚切りにされ、非常に食べ応えがあり、気に入った。
そして食事をしながら、俺はム・ルゥから語られる話に耳を傾け、疑問に思ったことを質問する。こうして行われる対話は、日が暮れて、深夜になるまで続いた。
「さて、流石に喋り疲れたのぅ。そろそろお開きにするか」
「ありがとうございました。おかげで色々勉強になりました」
大きく息を吐き、長話のせいで冷めてしまったお茶を啜りつつ、ム・ルゥはそう言って話を切り上げた。俺は感謝をこめて深々と頭を下げる。
「しかし、次から次へとよくもまぁあれだけ質問をしてくるものじゃ。1年分くらい喋った気がするわい」
言葉通りに疲れた表情をするム・ルゥの様子に、俺は苦笑いを浮かべる。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とばかりに、俺はム・ルゥに様々な質問をぶつけた。この世界の法則や、人種、種族、国や文化、経済に至るまで。
無論、ム・ルゥにも答えられない質問もあったが、彼女の知識は豊富で、俺は覚えきれないとム・ルゥに催促し、1冊の手帳を用意してもらい、聞き取りながら記していった。
「その白本も、羽ペンもインクも安くはないんじゃが…」
本当にちゃっかりしておるわい。そう言って笑うム・ルゥに、俺は頬を掻きつつ視線を逸らす。
「それにしても、何故そこまで貪欲に知識を求める? この後、探索者として活動できるよう、向こうの施設で訓練をするし、必要な説明はされるのじゃが」
「それは、僕が初めてこの世界を訪れたからです」
俺の答えに首を傾げるム・ルゥ。彼女は〈門番〉として、今まで数多くのPCに対して基本的な説明をしてきたのだろう。そして、今までのPC達は、さして疑問にも思わず、次のステップへと進んだはずだ。
これは彼女との会話の中で確認したことだが、彼女はずっと〈門番〉としてここで暮らしており、俺達以外のキャラクターを探索者としてのスタート地点に立たせてきたのだ。
俺達が〈オーラムハロム〉(ここ)に来る以前から、ずっと。
これは、彼女がそういう「設定」に従っているということもあるのだろうが、俺の行動を疑問に思うくらい、〈門番〉として過ごしてきたということだ。
俺はガイドの一節を思い出した。
『攻略のヒントなどは弊社からは一切提供いたしません。プレイヤー同士での協力やNPCたちとの交流が、現実世界同様不可欠となります!』
ガイドにはそう書かれていた。つまり、
すでに「探索」は始まっているのだ。
チュートリアルだからといって、NPCから情報を得なくて良いと言うことはない。
それに聞いてみて分かったことだが、この後、探索者としての訓練を終えたPCは、ランダムに世界各地に送られるらしい。友人同士のプレイを楽しみにしていた人には残念だが、ソロプレイヤーへの不公平をなくすのと、〈簒奪者〉対策だと俺は考える。
人間、一人になるとなにかと不安になるものだ。特に右も左も分からないような状況であるならば。
それに、この条件ならば、「先行組」が持つメリットは、オーラムハロムにおける動作感と、実地で経験しているであろう戦闘方法くらいだ。後発組に対しての不公平さも少ない。
まぁ、単純に運営がドSで、苦労するプレイヤーを見て笑っているだけかもしれないが。
ともかく、ム・ルゥから聞けるだけの情報を得た俺は、彼女に礼を言い、訓練施設に向かおうとする。すると、
「今日はもう遅い。今宵はここに泊まり、明日施設に向かう方が良いだろう。儂からも教官に伝えることがあるしの」
と言ってくれた。俺は素直に感謝し、お言葉に甘えることにした。ここまで過ごした時間を考えても、現実時間では1時間にも満たない。まだ時間は十分にあるので、慌てても良いことはないだろう。そんなことを考えつつ、俺は与えられたベッドに横たわり、眠りについた。
●時間と年齢●
オーラムハロム内での時間は、現実世界とは異なり、時に長く、時に短く流れます。しかし共通しているのは、現実世界よりも早く時間が流れるということです。基準として、現実世界の1時間が、オーラムハロムの1日に相当しています。
場所やクエストの状況によっては、時間の経過が変化することもあります。長時間に及ぶプレイは健康を損なう場合もあります。十分に注意してください。
探索者は原則として、オーラムハロムでは年をとることがありません。プレイヤーの実年齢以下であれば、自由に年齢を設定できます。当ゲームのサービス対象年齢が15歳以上なので、15歳以下には設定することができません。年齢制限は、NPCである「現地人」には適用されません。
現実世界とは文化・風習・法律・常識の異なるオーラムハロムですが、倫理的・通俗的にモラルに反する行動は、現実世界同様、処罰の対象になります。プレイヤーの方々には、自らの行動には責任を持っていただくことを願い致します。
次の日、窓から差し込む明かりに起こされた俺は、身支度を整えて寝室を出た。
居間ではム・ルゥがすでに朝御飯の支度を終え、静かにお茶を飲んでいたが、起きてきた俺に微笑みを浮かべ、
「おはよう。良く眠れたかえ?」
と声を掛けてくる。俺も笑顔を返し、
「おはようございます。ええ、快適でした」
と答えた。ム・ルゥは頷くと、
「それは良かった。朝食の準備はできている。食べようじゃないか」
と言って、皿に料理を盛り付け始めた。俺は慌てて、
「手伝います」
と言い、ム・ルゥの指示を受けながら配膳を始める。
朝食の準備が整うと、ム・ルゥは食事の前の祈りを捧げ始めた。口の中で呟くように唱えているのは、信仰している神への祝詞だろうか? 俺だけ食べ始めるわけにはいかないので、ム・ルゥの向かいの席に座ると、彼女の祈りが終わるまで、黙祷をした。
「では、いただこうか」
「いただきます」
ム・ルゥの音頭に合わせて食事を始める。
朝食の献立は、厚めに切ったパンに、ベーコンエッグ、カットしたチーズにミルクという、シンプルなものだ。
俺はパンの上にベーコンエッグとチーズを乗せ、オーブンサンドにして食べる。
旨い。
ベーコンの塩気が卵によってまろやかになり、ベーコンから染み出た油で焼いた卵は、ベーコンの風味が加わって旨味が増している。そこにやや癖の強いチーズが良いアクセントになっているのだ。
夢中になって食事を勧める俺を見ながら、ム・ルゥも真似をしてオープンサンドを作り、食べている。
「なるほど、こうすると旨いな。ヴァイナスは料理ができるのか?」
もごもごと口に頬張ったまま、質問をしてくるム・ルゥの姿が愛らしくて、思わず見入っていたが、
「一人暮らしの男やもめですからね。一通りの家事はこなせますよ」
と答えた。
実際、現実世界の俺は、両親は交通事故ですでに他界し、兄弟もおらず、親から引き継いだ家で、一人で暮らしている。
結婚どころか恋人もいないし、身体を壊したせいで、務めていた会社を退職。病気療養中とはなっているが、過労と精神的なストレスが重なり、早期の社会復帰も難しい。
幸い、両親の保険金がかなりの金額だったのと、少ないとはいえ退職金と失業保険があるので、すぐにどうにかなる状況ではないのだが、唯一の趣味だったゲームの世界に現実逃避している部分は少なからずあった。
俺がそんな物思いに耽っていると、
「そうか。探索者たるもの、何事も自らの力で成さねばならぬ。これからも努力を続けるがよい」
とム・ルゥは言いながら、うんうんと頷いている。その間も食事のペースは落ちていないのだから驚きだ。
その後食事を終えた俺達は、食器を片づけ、出発の準備をした。とはいっても、俺の荷物は昨日もらった手帳くらいなのだが。
「それでは、施設へと向かうとするかの」
支度を終えたム・ルゥに促され、俺は施設へと向かうことになった。ム・ルゥは施設を訪ねた後、また新規参加者への説明に行くそうだ。
「そなたのように面白い者がおればいいがのぅ」
退屈せずに済む、とム・ルゥは笑う。俺も釣られて微笑んだ。
「ム・ルゥはこれからもずっと〈門番〉を?」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、ム・ルゥは少し考える素振りを見せると、
「ふむ、そうじゃのぅ。もうしばらくは続けることになるじゃろうな。少なくても新たに訪れる探索者志望の者が落ち着くまでは、休みすらないわい」
と言って肩を竦めた。AGS購入者はほぼ確実にこの世界にくるだろうから、あと10日くらいは休みなしか…。割とブラックだな〈門番〉の仕事は。
「まぁ、落ち着けば街にでも繰り出すか、貯まった書物を読むかするでの。忙しいのは今だけじゃよ」
どうやら、普段は割と普通の生活を送っているようだ。
そうやって他愛のない会話をしているうちに、施設へと辿り着いた。ム・ルゥの後に付いて、入ることにする。
施設の中は外から見るよりも広く感じた。天井までが吹き抜けになっていることもあるが、地面を掘り下げているらしく、その影響で広く感じるみたいだ。
ム・ルゥは入口の傍にいた女性(受付嬢?)に話しかけると、俺に向かって手招きをする。
「ほれ、こちらに来てさっさと受付を済まさぬか。この時間はそなたしかおらん。あまり手間をかけさせるな」
ム・ルゥに言われ、俺は慌てて手続きを行う。
ここに来るのは初めてなんだから、勝手が分からないのは当然なんだが…。
思わず出掛かった言葉をぐっと飲み込み、受付の女性に話しかける。
「おはようございます。どのようにすれば良いのでしょうか?」
「探索者志望の方ですね。こちらの水晶に手を当ててください。その前に、〈刻の刻御手〉はこちらの台座に置いて下さい」
俺は左腕から刻御手を外すと、言われた通りに台座に置き、その後右手を水晶に乗せる。
すると、水晶が光を発し、それに合わせて刻御手も光を発した。光はゆっくりと明滅を繰り返し、徐々に収まって行った。
水晶の光が完全に消えると同時に、刻御手の光も消える。すると、受付嬢が、
「はい、これで登録が終了しました。貴方の情報が〈刻の刻御手〉に刻まれ、以降は刻御手を使用すれば、身分を証明することができます。もっとも、探索者は社会的地位が高いわけではないので、一般市民と同じくらいの保障しかありませんが」
受付嬢の説明に頷く。これで探索者としての登録は終わったわけか。
「それでは、奥に進んでください。これから〈職業〉への適性と訓練を行います」
先へと促す受付嬢の言葉に従い、先へ進む前に、俺はム・ルゥに向き合い、丁寧に頭を下げた。
「色々とお世話になりました。またいつか会える日を楽しみにしています」
お礼の言葉を口にし、頭を上げようとした時、俺の頭をふわりと何かに包まれる。
俺の頭を抱きしめたまま、ム・ルゥは話し始めた。
「儂も楽しかったぞ。そなたの未来に幸あらんことを。我が信奉する地母神の加護が、汝にあらんことを」
そして、俺の額にそっと唇を触れた。
驚く俺にム・ルゥは微笑みを返し、
「探索者としての第一歩を歩み始めたそなたに祝福じゃ。また会う時を楽しみにしているぞ」
ム・ルゥはそういって踵を返すと、その後は振り返ることもなく立ち去って行った。
俺はム・ルゥの姿が見えなくなるまでその場で立ち尽くすと、
最後にもう一度頭を下げ、受付嬢に、
「お待たせしました。どちらへ向かえばいいのですか?」
と尋ねる。受付嬢はぽかんとした表情で俺を見ていたが、声がかかると我に帰り、
「失礼しました。まさか〈門番〉が祝福を与えるなんて…。あの方は立場上、特定の者に肩入れすることはないのです。貴方は一体…」
と呟いていた。俺は悪戯心を出し、
「昨日、一夜を共にしただけですよ」
と言って微笑んだ。その言葉に受付嬢は固まり、しばらく動くことはなかった…。