鉄塔村Ⅰ
鉄塔村Ⅰ
それが発電所から都市へ電力を供給するために使われていた巨大な鉄塔の群れのひとつであることを、どれほどの人間が覚えているのかどうか、怜は知らない。
鉄塔は優に八十メートルはあるだろう。その下に幾棟かのバラックが立っている。かろうじて水没をまぬかれている地域だったが、海岸線の書き換えは毎年行われている。ここが水没するのは時間の問題だった。現に、年に何度もやってくる高潮で、辺り一帯は水の引かない湿地帯だらけになっていた。
怜は車を旧国道の脇に止めた。幹線道路だったが、手入れを怠ると、人が造ったものはあっという間に朽ちていく。アスファルトはひびだらけで、片側二車線の幅員の半分は、一部がすでに草むらと化し、生長の早い白樺の若木すら新緑を風に揺らせていた。車がプルンと小さな音を立ててエンジンを始動させた。走行用バッテリー残量が一定数値を下回ると勝手に起動するディーゼルエンジンだ。怜はイグニッションキーを回して車の「スイッチ」を切った。旧世紀の自動車と違い、イグニッションキーとエンジンは直結していない。動力の半分はバッテリーとモーターが担う。
車を降りる。国道でこの有様なのだ。泥濘地にガレ場、まともに舗装されているのはいまや滑走路程度のこの世界で、怜らが乗る車の車高は高い。タイヤはパンクしないランフラットタイヤだ。場合によっては、パンクは命取りになる。そう、過激になった天気のせいだ。北緯四十三度のこの地域では、冬がそれにあたる。真冬のブリザードの中で、タイヤ交換をする気にはならない。
「調査対象、『鉄塔村』に到着。現在時刻、十二時三十七分。こちら白石、徒歩にて調査に向かう」
機構軍の兵士がつけるのと同じタイプのタクティカルベスト。そこに無線通信機。左肩のプレストークボタンを押しながら吹き込むと、後部座席のドアを開けた。
「こちら札幌本局、報告を受領。以降周辺に注意されたい。以上」
通信機からノイズのないきれいな声が返ってきた。怜はプレストークボタンを二度押すジッパーコマンドでさらに了解を伝えた。「了解」を示すいわばスラングに近いそれを怜は機構空軍のパイロットから教わった。決して上官には使うな、とつけ加えられて。いいんだ。相手は上官ではない。そしておれは兵士でもパイロットでも、軍人でもない。
「やれやれだ」
声に出した。あたりでは鳥がさえずっていた。そして、広大な入り江と湿地に化けたかつての平野を見渡した。空が青い。雲が白い。高い建物はいっさい目に入らない。かつて二百万もの人口を誇った都市は消えた。今は野鳥と魚と植物の聖域だ。怜は後席から、ガンベルトのようなツールベルトを取り、ハーネスで固定した。荷物室は……と考えたが、自動小銃が必要かと自答すると「不要」の返答になる。腰から提げた九ミリ口径の自動拳銃だけで十分だろう。十七発入りの弾倉が、銃に一本装填済み、予備であと二本。ただでさえ調査に使用する機具が重いのに、使用の可能性がほとんどないこの手の道具を携帯させられるのには閉口する。もっとも、七.六二ミリ口径の自動小銃は、時と場合によっては命綱になる。人間の世界が狭くなった分、この島で食物連鎖の頂点に立っているのは、あらゆる点で人間の身体能力を上回る「あいつ」だからだ。飛び道具なしに遭遇したらとは想像もしたくない。九ミリ口径の拳銃ではもちろん、五.五六ミリ口径の自動小銃でもダメだ。光学照準器と二脚に二十発の弾薬、そして本体込みで五キロに迫る荷物室に常備するあれでないと。
今日はいいだろう。相手は人間だ。
「モニター、開始」
機構軍の兵士がヘルメットを被るかわりに、怜は記録用の小型カメラを内蔵したゴーグルをつけている。サングラス代わりにもなるし、偏光レンズを使っているから、勢い水辺での仕事だらけになる日々、水底の様子もわかりやすい。リップマイクが付いており、これで調査員の音声を拾える。音声認識で記録の開始を宣言したのだ。念のため、というより、万一の際に自分の動作に不手際がなかったことを証明する意味も込めて、腰のホルスターから拳銃を抜く。弾倉を一度抜き、再度装填。右手で銃を前方に向け……もちろん引き金には指を触れさせず……左手でスライドを上からつかむようにして後方へ引き、初弾を薬室に送り込む。食いつめの野盗が潜んでいるわけでもなかろうが、水没地域周辺の治安はいいとは言えない。職務上の不手際を指摘されないためにも、これら一連の動作を記録しておくことは重要だった。初弾がきっちり装填されたのを、左手の親指と人差し指で軽くスライドを引き確認すると、怜は銃をホルスターに戻す。この銃に安全装置はない。
ガードレールは錆びだらけだった。高潮と海風のせいだ。国道の法面を下る。真夏には背丈ほどにも成長する草も、まだ柔らかく、背も低い。すぐに複線の鉄道線路に下りた。こちらは国道と違い、手入れがされている。かつては電車が頻繁に行き来していただろうが、今は〈機構〉が運行する貨物列車が走るだけだ。都市というものが旧世紀と現在ではまるで違う様相となってしまった結果、住民たちが都市間を移動する必要もなくなった。ただし、道路が役に立たなくなり、物資や必要最低限の人員の移動のために、鉄道は維持されていた。元は交流電化されていた路線だが、いま貨物列車をけん引しているのは、ディーゼルエレクトリック方式の機関車だ。雑草だらけの線路を渡り、さらに法面を下る。水の匂いがした。
獣道だった。葦だろうか、その手の類の植物が早くも芽を出していた。背が低いからまだ遠くまで見通せる。目印となっている鉄塔がはっきりわかる。夏でないのが幸いした。おそらくこの植物もまた背丈ほど、いやそれ以上に生長するだろう。そうなるといけない。見通しのきかない現場ほど嫌なものはない。何があるかわからない。
「トレーシング継続」
リップマイクに吹き込んでおく。機構軍兵士の装備する戦闘情報表示機器(CIDS)ほどではないが、怜のゴーグル端末にも、自位置を測位し記録する機能がある。もちろん航法機能も。出発地点を時間軸でたどれば道に迷う心配はないが、それは地図上の話であって、機械はいつだって使用者の足元を気にしてくれない。コンバットブーツなみにごつい靴の裏が早くも頼りない。怜らにとって現場は兵士の戦場と変わらない。もちろん怜は戦闘経験など一度もなかったが。それを幸いとするか。発砲の経験はある。二名を最小戦闘行動単位を取る軍の方が優しいかもしれない。怜はいつも一人で行動する。同士討ち(フレンドリーファイア)を避けるため、怜のまとうジャケットは蛍光オレンジが入っており、どこにいても目立つ。それが制服だから仕方がない。野盗まがいの連中にしてみれば、高価な機材を担いだ怜が目印をつけてのこのこやってきたのがはっきりわかる。もっとも、怜の戦闘服まがいの制服を見て襲い掛かる野盗もいないだろうが。極力呪詛のつぶやきを口にしないように歩く。そこここに住宅の基礎部分の残骸が見て取れた。近い将来の浸水を見越して〈機構〉はエリアを区切り、計画的効率的に市街地を更地にしたからだ。それは廃墟に徘徊する不埒者どもを排除する目的もあった。この時代、人が住む場所は明確に規定され、居住の自由はないに等しい。とりわけこうした水没想定地域ならなおさらだ。
唐突に視界が開けた。墓標のように並ぶのは電柱だ。撤去されずに最後まで残るのは、電柱と街路灯と相場が決まっている。まれに電源が生きていて、無人の廃墟の街路で灯り続ける街灯もある。それらに出くわすと、怜はたまらない気持になる。誰かのためではなく、光るために光る。水没地域でも見たことがある。外部に電源を求めない、光発電タイプの街路灯にはそうした生き残りが多いからだ。
ブーツに何かが当たった。ふと視線を下げると、自転車だった。錆びだらけの。もう色もわからない。ゴムタイヤは数十年経た程度では分解されない。金属部品もそうだ。錆びを盛大にまとって、じっとここで水没を俟つ。プラスティック、合成樹脂、そうした文明のかけらも分解されずに地層に埋没するのを待つ。遙か未来、誰かが発掘でもするだろうか。それとも環境変動はとどまらず、海岸線は上昇を続けて、海底に沈んだままか。また潮騒を聞いた気がした。
鉄塔村の話は、局では有名だった。いずれ誰かが調査に向かわなければならないこともわかっていた。ババ抜きだと誰かが言っていた。局で外勤……調査員の数は多くなく、しかし調査区域は広大だったから、鉄塔村に当たるとしたら、よほどの幸運の持ち主だろうとまで揶揄されていた。噂が調査員の俎上にされても、実際にババを引いた怜が機動車を駆って現地へ出向くまで、年単位の隔たりがあったのは、件の鉄塔村がさしたる害悪をふりまいていなかったからだ。軍で言うところの「脅威判定レベル」、局で言うところの「要監視レベル」が平時を意味する「0」から通常監視の「1」にある区域は調査が後回しにされる。即応が要求されるのは「3」で、ここ数年は「3」のポイント潰しに時間を割いていた。繰り返される高潮で水没想定地域が拡大したのも理由の一つだ。海水位の上昇と高潮のせいで平野部は分断され、水没しつつあった。二百万都市は消滅し、住民は水没の可能性がない高台へ移住させられた。新しい街が〈機構〉によって造られた。人々に残された土地は広くなかったから、必然、住居は空へ空へと高層化した。怜もそうした街の高層住宅の一室に住む。問題は、移住に応じず、代執行にも反抗し、あるいは居座り続ける人々だ。四半期ごとで波に洗われるような地区の住民は背に腹は代えられないとばかりに逃げ出したが、水没想定期間が二年後、三年後という地域は根強く居座り続ける住民であふれた。そうした地域は完全に無人になり、〈機構〉による代執行、いわゆる都市の更地化もまだ及んでいないケースがあり、あやしげな廃品回収業者も跋扈していた。当然治安が悪化する。「脅威判定レベル」3の地域はまさにそれで、先兵として怜ら調査員が送り込まれて土地のデータを収集し、次に〈機構〉が住民を説得したうえで退去させ、更地化を実施する。
汗ばんできた。車で移動できるのは点と点。水没想定地域は道路が寸断されているケースが多く、すると頼れるのは自分の足だけになる。一日の平均歩行距離は三十キロ以上になる。大半は藪こぎと迂回だ。直線距離で四キロの地点まで、延々と迂回を強いられてその四倍を歩くこともある。したがって、コンバットブーツ並みの機能に、機器類を効率よく収納し装備できるタクティカルベスト、そして体温の上昇、真冬ならば低下を防ぐ高価なインナースーツが支給されるのは当然だった。訓練は機構軍の施設でも行われる。兵士と違うのは、戦うか戦わないかの違いでしかない。徒手格闘術まで身体に仕込まれた。生体マーカーまで外科的に身体に埋め込まれているのは、調査員の行方を思いやってのことなのか、調査員が集めたデータを回収するためのビーコンなのか、想像するのも憂鬱になるので誰もその件については口をつぐむ。
そんなことを考えるうちに、だだっ広い草原に出た。ところどころに水たまりがあるのは、春先の大高潮の名残だ。雪解けと高潮で、辺りは水浸しになった。平野は海からの風が吹きっさらしになるので、倒木も目立つ。その中にあって、倒れずにいまも垂直にその威容をさらしているのは、旧世紀に電力の送電に使われた送電塔だ。二七五キロワット交流送電のための堅牢で巨大な送電塔だ。発電所から電力消費地まで数百メートル間隔で並んでいたはずだが、度重なる災害のせいか、それとも〈機構〉による間引きか、「道央幹線」と呼ばれた送電経路の中で、平野に残るのは十数基と聞いている。そのうちの二基が目の前にある。怜はふと右手が拳銃のグリップに触れているのに気付き、苦笑。ライフルを持ってくればよかったか。弾を装填しなくても、威圧には威力を発揮するのだ。
目の前に、と思ったのが間違いだった。目標物は鉄塔だけだったから、測距を誤った。遠かった。視界が開けてからバラック群ひとつひとつが区別できるようになるまで、一時間歩いた。荒地を派手な蛍光オレンジの制服を着て、ごつい装備を身体中にくくった男がまっすぐに歩いているのだから、鉄塔まであと数百メートルの距離にたどり着いたときには、もう出迎えの住民がこちらをうかがっているのが見えた。怜は嘆息する。何を言えばいいか。彼らは〈機構〉から見捨てられたに等しい。水没想定地域に指定された時点で、移住優先権が与えられていた。彼はそれを受け取りながらも権利を行使しなかった。すると、〈機構〉には彼らを排除する義務が生じる。排除するのは怜たち調査員の役目だ。
「環境調査員がついにおいでなすったかよ」
さっそくおなじみの口上だ。バラックと呼ぶのは少々認識不足だったかもしれない。廃墟の町からの寄せ集めには違いないが、住むには十分すぎるほどの堅牢さと快適さすら持ち合わせた住居がそこにあった。いや、住居というよりは、鉄塔に作られた「巣」だ。
「統合社会管制機構環境保全衛生局です。私は第三種調査主任の白石怜です。あなた方は統合社会管制機構発令の水没想定地域退去命令第110号に違反しています。本日五月十五日を起点として九十日以内に当地域より退去するよう命じます」
怜はこちらもおなじみの口上を口にした。身分証代わりの蛍光オレンジの制服だけで済ますのは服務規定に反するから、タクティカルベストから身分証を突き出して示した。
「どこへ行けというのかね」
中年の男性が応じた。目線を怜に合わせようとしない。これもいつものレベル3地域での扱いだ。
「ここで水没を待つんですか」
あえて高圧的に胸を張って怜は言う。まだ二十代の怜に言われたのが気に障ったのか、男はさらに不機嫌そうな顔になった。
「電気が来るのを待ってるんだ」
「そうだよ、ここにいれば、いつか電気が通る」
何かの巣のような家の奥から、色の白い若者が出てきて言った。住宅の玄関には、色とりどりの花が咲いていた。土地は塩害でやられている。直接植えられているわけではない。みなポット栽培だ。軒先や玄関先で花を咲かす習慣は、〈機構〉が造った移転都市の住民の間にはない。花は〈アトリウム〉か花壇で咲くものだ。
「言っている意味が分かりません。ここはレベル3の水没想定地域に指定されています。次の高潮でどうなっても知りませんよ」
「指定したのは〈機構〉じゃないか。俺たちは先月の大高潮でも無事だった。これからもだ」
彼は十代後半か、あるいは二十歳前後か。まともに後期教育を受けているとは思えない。彼も、不機嫌そうな中年男性も、この集落に住む全員が、まともな情報から隔絶された無信者ということだ。〈機構〉はなにより無信者を嫌う。それでも調査員を派遣するのは、彼らは無信者である前に人間であるからだ。武装して反抗してこない限り、〈機構〉は治安部隊あるいは軍により、無信者の住む集落を潰すことはない。それもまともな情報、教育を受けていれば自明の理だったが、ここでは誤解が未開の地の宗教のように蔓延っている。
「あんた、いくつの町を葬ってきたか知らないが、ここは自活している。電気が来れば、もとの町に戻る。そうしたら、あんたら〈機構〉に頼らなくても、コミュニティは自立する。帰ってくれ」
そう言われるのはわかっていた。それでも直接この地へ足を運び、状況を記録しないと〈機構〉は……無線の向こうの連中……納得しない。彼らの意思表示さえ確認できれば、このまま帰ってもいい。だが、怜は言葉を探していた。鉄塔の巨大さと、それに寄生するような住居群の異様さに目を見張ったからかもしれない。
ここは島のようになっていた。実際、端末に表示させた海面高度は五メートルと出た。これは年初の海水位を基準にリアルタイムスキャンで出た数値だから精度は高い。正確には、いま怜が立っている場所の海面高度は五四二センチ。誤差はプラスマイナス五ミリ。
「おれは葬ってなどいない。居座ってるのはあんたらだ」
怜は口調を変えた。そして抑揚なく言う。視線入力でゴーグルの偏光率を変えた。向こうからこちらの目が見えないように。
「ようやく〈機構〉が来たと思ったら、なんだい、あんたは」
中年の男が初めて怜を向いて言った。手にはトルクレンチか何かが握られている。
「環境調査員だ」
「調査してどうする」
「本局に報告する」
「報告したら」
「それだけだ」
「結局おれたちに出て行けってことだろう」
「本局がそういうなら、そうなんだろう。いままで誰も来ていないはずはない」
「来たさ。何年か前に。まだ周りには家が並んでた。ここは町だった」
「もう町じゃない。町が町であったころ、〈機構〉は退去を勧めたはずだ。無視したのはあんたらだ」
自動小銃を持ってくればよかったか。話をするのも面倒になってきた。
「ここはおれたちが自治している。エネルギーも自給してる」
275キロワット送電線はとうの昔に断線している。盗電は出来ない。おそらくは、風力発電か、鉄塔の根元にびっしりと寄生する家々の屋根に光発電パネルを貼り付けて、それで自給しているのだろう。それでも十分な電力があるとは思えない。
「食糧はどうしてるんだ。自給できてるとは思えない」
「交易」
若者がぶっきらぼうに言った。
「統合社会管制機構環境保全衛生局の権限を行使する。これより、当地域の居住状況および住民の調査を行う」
「令状はあるのかよ」
若者がワイヤーカッターを手に言った。奥から十歳くらいか、子供の姿がのぞいた。
「おれは警察じゃない。環境調査員だ。中を見せてもらう」
言うと、怜はこの「集落」の入り口と思しき建物に足を踏み入れた。
「おい」
中年男が鋭く言ってきたが、立ち上がるわけでもなく、忌々しそうな視線を送ってくるだけだ。〈機構〉の職員に楯突く市民はいない。
足元は板張りだった。基礎を打っているのだろうか、水準は取れているようで、こうしたバラックにありがちな建物そのものの歪みはさほど感じない。天井にはLED電灯。配線もしっかりしている。バラック、スラム、そんな印象よりは、水没地域の雑居ビルのように思えた。建築の心得のある人間が手を入れたに違いない。後ろからワイヤーカッターを手にした若者がついてくる。ついてくるなとは言えない。
迷路だ。
「トレース継続」
リップマイクにつぶやく。そうしないと、自分の歩いてきた経路を見失いそうだった。視界には入り口からの累積歩行距離と、真北を0度とする自分が向いている絶対方位が表示される。旧世紀のさらに昔、東亜のどこかの都市にあったという高層建築が入り乱れた巨大なスラムをイメージした。あるいは、この国にかつて存在した洋上の炭鉱町。趣はそちらに近いかもしれない。怜は図書館の写真集で見た。階段、渡り廊下、採光窓、ドア、個室、この集落は、275キロワット送電塔を中心にして、最大八層の居住区が造られている。みな、水没想定地域の廃屋から拾ってきた部材を使って作られたものだ。よく建築したものだと思う。春のあの低気圧に耐えられたというのも信じられない。
「あの低気圧で被害はなかったのか」
ずっと怜のあとをついてくる若者……といっても怜とさほど歳は変わらないのかもしれない……に訊いた。前を向いたまま。
「北側の二棟が倒壊した」
「その程度で済んだのか」
「ああ」
補修跡が怜にもわかった。急ごしらえなのか、倒壊したという部分の壁材や天井パネルの色が違う。部材を拾いに行くにも、集落の半径五キロ以内にまともな建物はもう残っていない。湿原の中に廃屋が崩れ落ちているかもしれないが、そんなものはまともに使えないはずだ。彼が(交易)と言ったことがひっかかる。こうした集落はほかにもあるのではないか。局での要監視レベル3以下の対象はほぼ手つかずといっていい。プライオリティが高い順に調査員が送り込まれるからだ。「鉄塔村」の要監視レベルは2だった。治安を乱しているわけでもなく、ただ少なくない住民が水没想定地域にいまだ居座っている、それだけの認識だった。
「ここには何人住んでる」
「それも報告するのかよ」
「必要なら」
「七六人」
言われて、怜は若者を振り返った。
「そんなにいるのか」
「だったらなんだよ」
〈機構〉職員としての頭が思考する。食糧は確保されているのか、医療補助は、そもそも教育は、労働は。
「見捨てておいて、よく言うぜ」
「〈機構〉は見捨ててない。退去勧告と、移転地区への優先入居権があったのに、それを拒否したのはお前らだ」
「なぜ町を守ろうとしてくれなかった」
「大高潮で生き残れると思ったのか」
「おれたちは生き残ってる」
「倒壊したんだろう、二棟。……死人は出なかったのか」
元通り進行方向に向き直り、怜は言った。若者は返答しなかった。それが答え。
「いずれ、このあたりは完全に水没する。なあ、君、名前は」
「アマノコレチカ」
「アマノ君。君がいくつか知らないが、おれとそう違わないだろう。さっきのおじさんは、おれたちの親世代かな。あの人たちが知っている世界はもうない。世界は変わった。もう穏やかに季節はめぐらない。風は町を壊す。風は波を運んで、町を飲む。それが旧世紀の終わりだ。教わっていないんだろう」
「知ってるよ」
「何を知ってる。〈機構〉がどうして存在して、住民を保護しているのか、バイアスがかかった教育でしか君らは知らないんだろう。知っていればこんな危険な場所に住み続けられるわけがない」
第八層から七層へ下る。西向きの窓がずらりと並ぶここは棟と棟を結ぶ渡り廊下のひとつのようだ。どこからでも鉄塔の構造物が見える。最初遠くから見たときは、鉄塔に建物の構造そのものが依存しているのだと考えたが、すべての建物は自立していた。鉄塔にぴたりと寄り添っていても、それぞれの建物には基礎があった。陽が鉄塔の根元まで射している。緑。木。客土したのか、それとも塩害に強い改良植物を植えたのか。改良植物は〈機構〉の環境転換局が開発し、水没想定地域の沿岸部に播種している。波に洗われた沿岸部は文字通り塩害と浸食で不毛化してしまう。それを避けるため、防風林代わりにさまざまな改良植物を〈機構〉は植えているのだ。汚染物質対策でもあった。この国に限らず、世界的に大都市は沿岸部に分布していたから、都市が水没するとおしなべて汚染物質が海流に乗ってまき散らされることになる。この国においては発電所や重工業拠点が沿岸部に立地していたからなおさらだ。植物による環境修復。品種改良された植物なら、塩だらけのこの腐った土地でも果実を実らせるかもしれない。高等教育を受け、設備と技術さえあれば、こんな捨てられた集落でも、独自の品種を生み出し、生長させられるだろう。ただし、それなりの電力が必要だ。
「電気が来るのを待っているって言ったな」
第三層まで下りた。南向きの回廊だった。窓は複層ポリカーボネート製のようだ。風対策だ。ガラスでは割れる。水没地域の調査で環境調査員が戦闘服もどきの装備をまとう理由のひとつでもある。都市廃墟の足元には大量の割れガラスが沈殿している。低気圧が苛烈といえるほどに発達するようになってから、ケイ素系ガラスを使用した窓は淘汰された。ガラスの外側をポリカーボネートで保護することから始まり、旧世紀の終わりには建物の窓から「ガラス」は消えた。もっとも、ポリカーボネートは紫外線で変色するから、怜の住む街の建物の「ガラス」は、特殊コーティングを施したアクリルが使われている。断熱・保温・耐衝撃性に優れたアクリルだ。
「電気が来れば、こんな暮らしともおさらばさ」
「ここには電気がある」
「鉄塔だよ」
「鉄塔がどうしたんだ」
「送電が再開されれば、外で暮らせるようになる」
「……外?」
「揚水機を使って、湿地を排水するんだ。おれはエンジニアになる。改良植物で環境修復して、町を元通りにする」
二の句が継げなかった。怜は歩きながら、ゴーグルに表示されるステアリングキューに従い、帰路を辿っていく。階段はこちらか。第二層へ。延べ床面積は相当なものと見積もられた。住民七十六人というが、その気になればその三倍は居住可能なスペースがありそうだ。とても全フロアを調査することは出来ない。集落全体の輪郭を記録できただけでもいい。十分だ。彼らとの対話も必要ない。
「電気はいくら待っても来ない」
「なぜ」
アマノが急いたように怜に並ぶ。
「鉄塔一基でなにができる? ただの避雷針代わりにしかならない。そうか、だから建物を鉄塔に密着させていないのか」
「何の話だよ」
「電気の話だ。誰が吹き込んだか知らないが、いくら待っても、この鉄塔は鉄クズだ。外に出て見ればいい。断線してる。誰も直さない。直す必要がないからだ。送電はもう旧世紀に遮断されたままだ」
「発電所が再稼働すれば……」
「なんのために〈機構〉があると思ってるんだ……」
「そんなことは知らない」
怜は立ち止まり、アマノの鼻先に人差し指を突き付けた。
「いいか、発電所は軒並み水没したんだ。改良植物をなぜ〈機構〉が播種してるのかもよく考えろ。悪いことは言わない。水没想定地域退去命令第110号が有効なうちに従え。誰がリーダーなのか知らないが、まだ街区に空き部屋はある。入念な思想調査を覚悟すれば、権利は行使できる可能性がある。市民登録できるうちに、移住しろ」
強い口調で言うと、ガランと音がした。アマノが武器代わりに手にしていたワイヤーカッターが床に落ちていた。怜は一瞥し、ワイヤーカッターを拾い上げ、表情なく立ち尽くすアマノに突き出した。