3.冷めない熱 side.N
「おい、菱田……お前、歩くの……速い……」
途切れ途切れに聞こえる男の声。それは背後から迫って、続いて咳き込む音が響く。
え?いったい何をしているのかって?
心配は要らない。私の後ろにいるのは海外映画で有名なチェーンソーを持った狂った男ではないし、ハアハアしてる変質者でもない。
私は足を止めて後ろを振り返り、腰に両手をあてた。
「ったく、情けないなあ。いつも研究室にこもりっきりだからだよ。――それにしても、天気予報に裏切られたね。今日は晴れるって言ってたのに」
灰色の雲に覆われた空から無数の雫が降り注ぐのを目を眇めて見やった。今朝のニュースではキャスターが爽やかな笑顔とともに今日は天候に恵まれた一日となるでしょうとか言ってたのに。
静はというと肩を大きく上下させて息を整えている。艶やかな黒髪はぐっしょり濡れていて白い肌がより際立っているが、そんなことを言っている場合ではない。
私と静は、今、とある森の中にいる。
あれから白樺教授の研究室を頻繁に訪れるようになった部外者の私を、白樺教授は邪魔者扱いすることなく、むしろ熱く歓迎してくれた。
そんなある日、いつものように研究室に顔を出した私に白樺教授は、よければ研究の手伝いのバイトをしないかと持ちかけてきた。内容は研究室の資料の整理、野外採集の付き添いなど。今までは静と他のゼミ生がやっていたのだが、就職活動や論文のために研究の手伝いに来れない日が増えてきたのだという。ちなみに静は院に進むようだ。
菱田家のひとり娘である私は実家の家業を継ぐことになっているので就職活動をする必要もなく、あらかた単位も取れているので残すは卒業研究のみとなっていた。あまりに暇なので、なにかバイトでもしようかと考えていたところに舞い込んできたバイトを、私は二つ返事で引き受けた。
さっそく私と静に華里の郊外の森へ野外採集との命を受け、週末の今日、ここに来たわけだが―――。
ひととおり採集を終えて暗くなる前に森を出ようとした私たちを、突然の雨が襲った。
まさか雨が降るとは思ってもいなかった私たちは、傘、ましてや合羽なんてものを持参しているわけはなく、急いで帰ることにした。
「とにかく、早く戻ろう。このままじゃ、風邪引いちゃう。……高嶋くん?」
木々に包まれた林道を再び進みはじめた私は、後ろからついてきている静が思ったよりも体力をひどく消耗しているのに気づいた。息が荒い。足取りがふらついている。
2年から研究の助手をしている静なら野外採集は何度も経験しているはずだ。さっき言ったように、ただの運動不足なのかもしれないが、それにしては様子がおかしい。採集をしていた時からそうだ。ぼうっとしていることが多かった。
「菱田……?」立ち止まった私を、静は億劫そうに見下ろした。動きが緩慢だ。
「そこ動かないで。じっとしてて」
雨に濡れた手をパーカーで拭う。とは言ってもパーカーも水気を含んでいて大して意味は無い。
その手を、静の白い頬に添えた。
――熱い。
額に移動させる。やっぱり熱い。
静はぼんやりとした表情で私を見つめていた。照れもせず、赤くもならず大人しく触れられているなんて、いつもの静ではありえない。
「どうして言わなかったの」
「何……」
「さっきから変だと思ったんだ。まだ歩ける?これ以上、悪くならないうちに急ごう」
私は静の熱をもった手を掴んだ。お互いの濡れた肌がしっとりと吸いつく。静は為すがままになっていた。
歩みの遅い静を引っ張りながら草をかき分け、ようやっと森を抜けることができた。慣れない地で迷子にならなかったのは不幸中の幸いだ。
さて、ここからどうするか。
大学に帰るには来たときと同じようにバスと電車を乗り継がなければならない。この辺りのことはよく知らないし、ましてや静の自宅がどこにあるのかも知らない。
肝心の静はぐったりと木の根元に腰を下ろしてうつらうつらしている。バス停まで歩かせるのは無理そうだ。
濡れた服が肌にはりついて気持ち悪いのを堪えながら、なんとかしなければと防水機能のついたスマホを取り出す。こうなったら静に家に電話してもらおうか、そう思った時だった。
車通りが全くなかった車道に、一台の車が止まった。
車を運転していたのは、静の兄――高島征太だった。
予報外れの雨が降ったことに心配になって迎えにきたのだという。
森から少し離れた場所にある静の自宅、高嶋家に着くとそこは立派な日本住宅で、大きな庭があった。もしや金持ちなのかと思ったが、聞くところによると先祖代々受け継がれてきた家らしい。築130年とか、はじめて見た。
髪を乾かした後、通された居間で征太から出されたカップからは湯気が立ち込めていた。
鼻を近づけると檸檬の香りがした。
「これ、高嶋――静くんと同じ匂いだ……」
「え?ああ、それは庭で摘んだレモンバームとミントのハーブティーだよ。静は毎朝、庭の手入れをしてから大学に行ってるから、その匂いが染みついてるんじゃないかな。あいつは筋金入りの植物好きだからね」
征太は明るく笑って言った。弟の静と顔立ちが似ているが、性格は正反対のようだ。征太は華里大学付属高校で地理の教師をしていて、華里大学出身でもあり、私の先輩だと分かった。
「奈緒子ちゃんにはうちの愚弟が迷惑かけたね。すまなかった」
「いえ、こちらこそ。お風呂貸してもらって洗濯までしてもらって、ありがとうございます。静くんの具合は、どうですか?」
「うん、薬を飲んだら落ち着いたみたいだよ。上の部屋で寝かせてるけど、なんか奈緒子ちゃんのこと気にして眠れなさそうだから、帰る前に顔見せてやってくれる?帰りはちゃんと俺が大学まで送るから」
「それは、もちろん構いませんけど」
何を気にしてるんだろうか。もしかして、体調が悪いのを隠していたことだろうか。迷惑かけたとか余計なことを考えてるんじゃ、治るものも治らない。まったく。
なぜか楽しげな征太に見送られ、私は檸檬の香りがするお茶を飲み干して静の部屋へと向かった。
教えられた部屋の襖をそっと引くと、畳に敷かれた布団に横になっていた静が薄っすらと目を開けて私を見た。情けない顔をしている。
「よっ、気分はどうよ。だいぶ顔色が良くなったみたいだね。よかった。――あ、起きなくていいって。大人しく寝てなさい」
身を起こそうとした静を制し、黒髪をのけて露になった額に掌をあてる。さっきよりは熱も下がったようだ。低体温の私の手が心地よいのか、静は目を細めた。
「……悪かった」
「謝らなくていいよ。最近、研究やら論文やらで忙しかったんだって?ろくに睡眠を取ってないって、お兄さんに聞いた。白樺先生も、研究に熱を入れすぎて倒れてたことがあるって前に言ってたしね。無理しすぎたんだよ、きっと。たまにはさ、ゆっくり休まないと」
「ああ……。もう、帰るのか?」
「うん、征太さんが大学まで送ってくれるんだって。そうだ、それと今日採集したやつは私が預かっておくから明日にでも白樺先生のとこに届けておくよ。あとは――」
静の柔らかい黒髪を撫で、その手で頬を指で軽くつまむ。
「私がそばにいるからにはもう無茶させない。覚悟しときな」
いい?そう念を押すように畳みかけると、静は黙ってこくこくと頷いた。
満足した私は手を離して笑う。
「うむ、分かればよろしい。そんじゃ静くんやい、私は行くからね。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、ちゃんと治してよ。じゃあ、……」
立ち上がろうとした私は言葉を切る。静が私の手を掴んだからだ。
「静くん?」何事かと首を傾げてみせれば、難しい顔をしていた静は唇を微かに開いた。
「もう―――」
「もう?どうかした?どっか辛いの?」
「いや、その……」
歯切れの悪い静は目をきょろきょろと泳がして、初めて会ったときと同じ表情をしていた。
静といっしょにいて、何気ない仕草も彼にとっては思いを伝える手段なのだと知った私は推測した。これは、言いたいことがあるけどどう言えばいいのか分からなくて戸惑っているの図だ。もう、の続きを考えてみる。
もう、嫌になったか。
もう、面倒になったか。
この状況から、もう、の後に続く言葉なんてネガティブでしかない。人見知りの静なら尚更だ。
「今日は楽しかった。体調が良くなったら、また行こうね。今度は庭も見せてよ」
「え、あ、わかった」
「いい?私がいなくなっても寝るんだよ。寝にくいんだったら、よく眠れるおまじないしてあげようか?」
「え――」
私は空いている方の手で静の前髪を掻き分け、
「Good night, sweet dream, my dear」
そう囁いて、額に口づけを落とした。イギリス生まれイギリス育ちの父親のおまじないだ。効き目はあると保証できる。
「なっ、な、に……!」
目を丸くして顔を両手で覆ってしまった静の頬は、紅く染まっている。茶化した際に見せる、いつも通りの反応だ。そんな静の目がいつもとは違って潤んでいることには気づかず、私は腰を上げた。
「またね、静くん」
高嶋家の庭にはつやつやとして緑と花で溢れている。そのなかでも強く逞しく根を張っているのは、レモンバームだ。
繁殖能力が高いそれは檸檬の香りを辺りに漂わせ、冬を除いて若々しい葉を地に生い茂らせる。
ピンクと白のホタルブクロが風に揺れて妖精のスカートのようにひらめいた。そこから伝った雫が、ぴちゃん、とレモンバームの葉を踊らせた。