2.ヒトリシズカ side.S
ショートボブで、ウェーブのかかった柔らかそうな亜麻色の髪。
目尻が少し下がっていて、人懐こい笑顔が眩しい。
よく動く唇からは絶えず賑やかな音が続いて飛び出し、その勢いは止まらないかと思えば、次の瞬間には口を閉ざして人の話を聞く体勢に入る。先生、と冗談交じりに呼ばれるのはこそばゆかった。
相槌を打つタイミングも絶妙で、投げ掛けられる質問も的確で鋭い。菱田が自分の話をきちんと理解しようとしてくれているのだと身に染みて分かった。
それでついつい、時間を忘れて話しこんでしまった。こんなのは初めてだった。
「珍しいこともあるんですねえ、君が女子生徒と親しくなるとは。しかも植物学部ではなく国際学部の学生ときましたか。いやはや、面白い面白い」
その日の夕方、菱田と別れて研究室に戻ると講義を終えて戻っていた白樺先生と鉢合わせた。そこで唐突に言われたのが、これだ。
「はあ……」と曖昧に相槌を打つ。白樺先生が何を言いたいつもりなのか、俺にはよく分からない。
取りあえずサンプルの分析と資料の整理に取りかかろうと椅子にかけておいた白衣を羽織る。顕微鏡の準備をしていると参考書を棚に戻していた白樺先生が白衣を脱いでハンガーにかけた。
予定では、これから研究所に行くことになっているはずだ。
白樺先生は鼻歌を歌いながら研究室の中を踊るようにして移動する。
「では、後の戸締りは頼みますね。高嶋君、夢中になるのはいいですが、あまり根を詰めすぎないように程ほどにして切り上げて下さいよ?」
「……善処します。いってらっしゃい」
「はい、いってきます。また明日」
見送る俺に白樺先生は手を振り、資料が入った鞄を持って扉の向こうに姿を消した。
「さて……進めようかな」
しんと静まった研究室には俺以外、もう誰もいない。無意識に首に手をやり、はっとした。いつも首からかけているヘッドホンが無い。
そうだ。菱田と話している時に外したんだった。
俺は使い慣れたこげ茶のトートバッグからヘッドホンと音楽プレイヤーを出し、装着した。適当なフォルダを開いて再生ボタンを押し、耳に馴染んだ旋律が流れるとともに作業を開始する。
いつもと変わらない光景に、いつもと変わらないBGM。
けれどなぜか、いつもと違う気がした。
なんでだろう。確かな答えはなく、でもどうにもしっくりこない。パズルのピースを違う場所にはめた時のような違和感を覚えた。
俺は音楽を止めた。ヘッドホンを耳から外し、はかどらない作業を一旦中断させる。
今日の俺はおかしい。どこがと問われたら困るが。でも、きっと原因は。
「菱田、奈緒子――」
俺は他人と関わることが苦手だ。要するに人見知りというやつだ。人と喋るくらいなら植物に触れていた方がマシだというくらい重症だ。
同世代の女子と、しかも初対面の相手とあんなに長い時間話したのは初めてで、専門の生徒でもないのに自分の小難しい話を飽きずに聞き続けてくれた赤の他人と出会ったのも初めてで。
不慣れなことの連続で頭がついていけていない。
気分転換がてらにコーヒーを入れようと立ち上がった。すると机の脇に置いてあるスマホがバイブ音を鳴らす。
メールの送信元は登録されていないアドレスからだった。開いてみると件名に〈国際学部の菱田〉とあった。別れ際に、よければメアドを教えてくれないかと言ってきたのだ。もっと学びたいことがあるから、と。
本文は〈今日はありがとう。〉という感謝の言葉から始まっていた。
〈遅くまでつき合わせて悪かった。また研究室に遊びに行っても構わない?あと、寮に帰って棚の整理してたら昔買った植物図鑑が発掘されて気になるの見つけた。教えなくても名前、分かる?撮った写真送る。〉
そこで添付されていた画像を開いた俺は、きゅっと唇を固く引き結んだ。
茎の先に光沢のある2対の葉が十字に対生し、まるで十字架になっている葉の中央から白い雄しべが花弁のように連なっている。
センリョウ科のヒトリシズカだ。
その艶やかな葉と白い穂状花序を備えたそれは、かの静御前の舞い姿に見立てられて名づけられたという。
だが高さは10cmから30cmで、林に紛れるその野草はあまり目立つものではない。
ヒトリシズカ。
ひとりしずか。
独り、静。
「……馬鹿らしい」
自嘲しながら続きの文を追う。改行されていたのでスクロールさせ、そこで俺は、今日一番驚かされることとなった。
〈図鑑に自分の名前があるのって羨ましいね。なんか可愛いし、しかも名前の由来まであるし。ほにゃららナオコとかいう花は?どっかにあるよね?(´-ω-`)〉
ぷっ。思わず吹き出してしまった。
菱田は単に、俺の名前が入っていることに注目していただけらしい。
奈緒子、なおこ、ナオコ。
俺が記憶している限り、それに該当するものはないはずだ。明日、白樺先生にも聞いてみるか。
俺はメールの文を読み返した。最後に添えられた顔文字が彼女の落胆と不満と待望を表しているようだった。
画面に指を滑らせ、返信の文を打つ。件名は〈こちらこそ。〉。
〈名前は分かる。白樺先生に聞いてみるけど、無いと思う。〉
こんな感じでいいのかと悩みつつ、送信した。妙な達成感に息をつき、背もたれに体を預ける。
菱田と話していて思ったこと。彼女は普通の女子と違う。
さばさばして大人びているかと思えば、表情が豊かで時々茶化したりもする。それでいて子供のように知識を収集する無邪気さを兼ね備えている。本人は美容のためだと言っていたが。
不思議なやつだ。
それから数分も経たないうちに〈やっぱりないか。私も全部のページ見てみたけど無かった。っていうか、シズカってついてるのもう一個見つけた。明日文句言いにいってやる。逃げるなよ。〉と恨みつらみの込められた理不尽な返事が届いた。そして最後に、
〈また明日。〉
また、があるのか。
芽吹いた想いが花を咲かせて実を結ぶのは、まだまだ先のようだ。