1.檸檬の彼 side.N
豊かに生い茂った木々と、蝶が飛び交う色とりどりの花に囲まれ、華里の町の景観を損ねないように建てられたという華里大学。
その大学に通う私――国際学部4年の菱田奈緒子はウェーブのかかったショートボブを揺らし、ヒールの低いパンプスで階段を上がって、扉の前に立った。
ここは、華里大学附属図書館だ。
4年の私は卒業研究にむけて必要な資料を集めなければならず、先日下にある検索機械でサーチしてみたところ借りたい本は2階の書庫にあるということが分かった。
これまでに書庫を利用したことは一度も無い。
借りたい本が書庫にあると言われれば、ああそうですかと引き返していたのだ。なぜって?書庫に入る許可の手続きとかで面倒臭いと思っていたから。
ところがどっこい、ここの書庫をよく利用するという寮の同室の友人に「学生証さえあれば自由に出入りできるって」と教えられ、大学4年目にして初めて書庫を訪れることとなった。
扉の横の壁に備えつけられた端末に学生証を通す。ピッと電子音が鳴って、ノブを回すと簡単に入れた。なんだ。これなら楽勝じゃないか。
入学したときに図書館の利用案内で書庫の中を大勢で歩いたが、今はしんとしている。
本だけの匂いがする。独特な匂いだ。
誰もいない世界に酔いそうになり、私は我に返って赤のショルダーバッグからメモ帳を取り出す。さっそく探している文献の番号を確認した。
書庫の棚はスライドの移動式になっている。横のハンドルを回すと棚が動き、間ができて本を手にすることができるのだ。
早速、私は〈イギリス文化・歴史〉の棚に向かった。目当ての本を数冊手に入れて目的は果たしたが、せっかく書庫に来たのだからもっと探検してみようと好奇心が疼いた。
きょろきょろと辺りを見回した私は〈植物学・園芸学〉と示された棚を見つけ、そこのハンドルをくるくると回した。できた隙間に体を滑らせ、天井を見上げる。
「ええっ?ここ、電気ないの?ちょっと暗いけど……しょうがない、このままやるしかないか……」
ふうと息をついて腰をかがめ、本の背表紙に貼られたシールの番号を辿っていった。
自他共に認める美容マニアの私が今、最も興味をもっているのはハーブや薔薇で作られた化粧水やアロマオイルだ。成分などを調べているうちに植物に興味を持ちはじめた。
この棚を利用する学生はいるようで棚の隙間には埃がたまっていない。それにハンドルの軽さから、誰かが定期的に使っているのだろうと伺えた。
華里大学は植物学科と園芸学科があることで県外でも有名だ。教授や研究員たちが文献を求めに書庫に来るのは当然のことだ。
分厚い本を手に取り、ぱらぱらとページをめくって中身に目を通す。
もっと詳しいことを知りたいけれど、いかんせん植物に関しての知識は小学校のときの植物採集止まりのため、見慣れない専門用語の羅列に私はううんと唸った。
薔薇に関して言えば、含まれている色素の違いやら香りやら何やらとちんぷんかんぷんだ。根っからの文系には厳しい。
ふと、図書の無機質な匂いに檸檬の微かな香りがまじり、私は本から顔を上げて目を見張った。
びっくりした。いつのまにいたんだろうか。私がいる棚を挟んだ向こう側に人がいた。
絨毯が足音を吸収して、近くまで来ていたことに全く気がつかなかった。背丈と格好からして、男子学生のようだ。本の隙間から肩と黒い髪が見える。
かたん、と私の持っていた本の角が棚に当たり、音をたてた。しまった。
本を棚に戻していた男子学生は手を止め、私の存在を認めたようだったが特に気にすることはなく作業を再開させた。
まあ、いいか。私も、資料を探すことに意識を傾けた。
それから何分経ったのだろう。立っているのに疲れ、床に座り込んで資料を読んでいた私は高々と積み重ねられた分厚い本をため息とともに眺めた。
どうしよう。さっぱり理解できないな。
髪をがしがし掻いて頭を振ると、ふわりと檸檬の香りがした。さっきより濃い。
ふっと薄暗い空間にいた奈緒子に影が落ちる。さっきの彼だった。まだいたんだ。
チェックの柄シャツに藍色のカーディガンを羽織り、カーキ色のパンツに茶色の靴を合わせた無難な服装の彼は首にヘッドホンをかけていた。本を見つめる彼の横顔は彫刻のように整っていて、その肌は異様に白かった。
不躾な私の視線を感じたのか、彼は最後の一冊を棚に仕舞うと顔を下ろした。床にある積み重なった本に目を遣り、私が開いているページをざっと見た彼は、何も言わずに姿を消した。
いったい何だったんだか。
しばし呆気に取られていた私は気を取り直して別の本に手を伸ばそうとした。「――え、え?」
目の前が真っ暗になる。というより何かが目の前に塞がった。
慌てて距離をとると、それは本だった。〈簡単で分かりやすい植物学〉と題名があるそれを持っているのは彼だった。
「?」いまいち状況が飲み込めず首を傾げる私に対し、彼は何度か視線をふらふらと泳がせた後、ゆっくりと口を開いた。
「そこにあるのは専門的な内容ばかりだから。あまり詳しくないなら、これから読んだ方がいい」
分かりやすいから。そう最後につけ加えた彼の目はずっと本に注がれていて、私をちらりとも見ようとしなかった。
なんだ、そういうことだったのか。黙ったまま私が立ち上がると、彼の肩が小さく震えた。
「どうもありがと」
感謝の言葉とともに本を受け取る。すると彼はぱっと顔を上げ、私の顔を凝視した。驚きと動揺が混ざった瞳で。
私は微笑みながら彼の視線を受けとめた。そして彼が目を逸らす前に奈緒子は問いかけた。「もしかして植物学科か園芸学科の人?私は国際学部の4年なんだけど、何年生?」
「……植物学科の、4年」
「へえ、やっぱりそうなんだ。そっか、同い年――でいいんだよね?」
彼は頷いた。
「ああ、大事な本を散らかしたりしてごめん。片づけないとね」私は床に放置したままの本を拾い、元の場所に戻そうとした。が、うまくいかない。どこにあったっけ、これ。調子に乗って積みすぎたな。
「……貸して」不意に横から腕がにゅっと伸びてきた。彼は躊躇いもなく、それぞれの本が収まるべき場所にと埋めていった。魔法のようだ。
「すごいね、場所覚えてるんだ。助かったよ。戻すの手伝ってくれて、ありがと」
彼は首を横に振った。気にするな、という意味だろうか。私はショルダーバッグからスマホを出した。時刻はちょうど正午を示している。道理で腹が減った。
「ねえ、これからお昼食べに行かない?私が奢るからさ」
ちょうど棚から本を抜き出していた彼は私の誘いに目を丸くした。腕を棚に当てたのか、ごとっと大きな音がした。
「え……」高い身長のわりに顔立ちが幼い彼は、まるで迷子のように立ち尽くしてしまう。
あらら、いきなりは迷惑だったかな。それともナンパと思われたか?私は苦笑した。
「私、ハーブとか薔薇に興味あってさ。本とか読むのもいいけど、どうせなら詳しく知ってる人に色々聞いてみたいなと思って。でも用事とかあるよね。急にごめん」
「本、ありがと。ちゃんと勉強するよ」ショルダーバッグを肩にかけなおした私は本を小脇に抱えて彼の横を通り過ぎる。
そうだ学生証。定期入れから学生証を引き抜こうとした手は―――空を掴んだ。
彼に腕を引かれた反動で、学生証が床に落ちたのだ。
「ごめん」彼は私の腕をぱっと離し、学生証を拾った。すぐ返すかと思ったものの、じっと見ている。
証明写真の写りが悪いから見られたくないなんてか弱い乙女でもない私は、あえて取り返そうとはしなかった。
彼の唇が〈菱田〉と小さく動いたのを捉える。そういえばまだ自己紹介をしていない。
「まだ名乗ってなかったね。私、菱田奈緒子って言うんだ。あなたは?」
「高嶋…………静」
えらい間を空けた自己紹介だ。学生証を返す彼は微妙な表情をしていた。それで私はピンときた。
「自分の名前、嫌なの?」
「……嫌じゃないけど、昔よくからかわれたから。女みたいな名前だって」
「へえ、そうなの?似合うと思うけどな、静って名前。いいじゃない、可愛らしくて綺麗な響きでさ。私なんか奈緒子だよ。こう言ったら全国の“なおこ”さんに失礼だけど、なんかインパクトにかけるっていうか。――あ、話が脱線しちゃったね。ごめんごめん」
朗らかに笑った私を物珍しそうに見ていた静は、少し考え込み、顔を上げた。
「今から研究室に本を届けないといけないんだけど、それからでもいいなら」
「いいの?じゃあ、私も持っていくの手伝うよ。それ貸して」
「いや、重いから――」
「平気だって。元陸上部だから体力には自信あるし。――ん?でも腕力には関係ないか?まあ、いいからよこしなさいって」
私は静の手に積まれた本の半分以上を掻っ攫い、軽々と抱えた。静が不安そうにしているのは主に本に関してだろう。そう思った私は明るい調子で言う。
「だから大丈夫だってば。絶対に落とさないようにするから。さ、貸し出しの手続きしに行こう。両手塞がってるから、学生証代わりに通してくれる?」
さっさと書庫の出口へと歩きだす私の背中を、静が数冊の本を抱えて駆け足で追いかける。
学生証を機械に通して扉を開けて私を先に通し、エレベーターを使って下に降りてカウンターで手続きを済ませ、二人は図書館を出た。
手続きの途中で司書のお姉さんが、私を見て「高嶋君、研究手伝ってくれる子ができて良かったわね」と嬉しそうに言っていた。静は、そうではないと申し訳なさげに返していたけれど。
植物学部の講義棟にある白樺教授の研究室に着くと静は私から本を受け取り、「ここで待ってて」と奥の部屋へ消えていった。
見慣れぬ器具や大量の植物に囲まれた研究室は初めての私の目には異世界に映り、机に置かれているドーム型のガラスに飾られた小さな薄紅色の薔薇に釘づけになった。
「きれー……」
「それは特殊な品種改良をして作ったミニバラ。白樺先生が配合したんだ」
「へえ、こんなちっちゃいバラもあるんだ。初めて見た」
「これは生育できる環境が限られていて――」
そばに来た静が私の後ろからミニバラを覗きこむ。ふわっと檸檬の仄かな香りがした。まただ。
元を辿って顔を横に向けると間近に静の端整な顔があり、二人して同時に固まった。
静の陶磁器のような滑らかな肌にさっと赤みがさし、ひゅうっと息を詰めた音が私の耳朶を打つ。まるで時が止まったよう、なんて少女漫画にありがちな表現が浮かんできた。それより近いな、この距離。
その時、がらりと研究室のドアが開いた。
「おや、高嶋君。もう資料を運んでくれたんですね。毎度ながら仕事が速くて感心感心」
現れたのは真っ白な白衣を身にまとい、銀縁の眼鏡をかけた品のいい老紳士――私もキャンパス内ですれ違ったことがある、白樺教授だった。
そばに寄ってきた白樺教授は静の陰になっていた私を発見し、「おや?」と目を瞬かせた。
「そちらのお嬢さんは?知らない顔ですね」
「あ、彼女は――……」
素早く私から離れ、もごもごと口籠もる静に代わって答える。
「初めまして、私は国際学部4年の菱田奈緒子といいます。高嶋くんとは書庫で偶然知り合って、植物について色々教えてもらおうと、お昼に誘ったんです」
「それと、先生から頼まれた本を運ぶのを彼女が手伝ってくれて――そうだ。腕。どこか痛めたりしなかったか?」
「なんともないよ。そんな顔しないでってば。それより昼飯はどうする?近くのパン屋さんでもいい?」
「俺は、どこでも構わないけど……」
白樺教授は静と話す私を興味深そうに見つめていた。
その視線が静に移り、とても嬉しそうに頬を緩ませていたことを、私も静も知らなかった。