持久走の嘘代表「一緒にゴールしようぜ」と言ってきた男子が、そのまま私の人生全部の隣にいた話
その日の空は、やけに高くて、やけに澄んでて。
高校二年――秋。
私こと、高橋結衣が最も苦手とする持久走大会が、この日開催されていた。
「一緒にゴールしようぜ!」
緑地公園の外周三キロを二周。計六キロのコースをスタートしてから序盤も序盤。
集団のかなり後方で、既に息を上げ始めている私にそう声をかけたのは、同じクラスメイトの速水隼だった。
速水隼――その素早そうな名の通り、当然のように陸上部。そして実力も折り紙付きだ。
あんまり関わりのない私にまで、「速水がまた大会優勝した」とかの噂が耳に届いたくらいなのだから。
そんな奴にそんな言葉をかけられたのだから、私の返した言葉は当然――
「うわ、でた!」
「なんだよ?」
「運動神経良いヤツの『一緒にゴールしよ』がこの世で一番信用ならんのよ!」
「あはは、なんだそれ」
なんだそれはこっちのセリフなんだが?
まさかこんな『足遅い奴なら誰もが聞いたことのあるテンプレ』を高校生にもなって信じるバカがどこにいるものか。
だいたいはそんなことを言っておきながら、ゴール直前で謎の猛ダッシュをし始め、結果足の遅い方――つまり言われた側は裏切られた気持ちになるというアレである。
ていうか、この言葉を守った人なんてこの世にいないだろ。
「だって、どうせ嘘じゃん」
「いや途中で置いて行ったりしないって!」
「信じませーん」
「え~」
え~、じゃないが?
とは言ったものの、速水はさっそく私の歩幅に合わせて来ている。
こうなってしまえば、私が嫌と言っても結局は足速い方の匙加減でしかない。
遅い側が速い側を抜くことなんてできないのだから。
はぁ、なんなのよ。
だったらもう好きにすればいいし、私も『一緒に走ってる』と思わなければいいだけだ。
適当に合わせるフリでもしておこう。
それなら仮に裏切られても傷つくことはない。
「わかった。じゃあ言ったからね! 途中で置いてかないでよ!」
「おう! 武士に二言は無い!」
武士ってなんじゃい。
そこは男に二言は無いとかじゃないんか。
別になんでもいいけどさ。
という訳で、何の因果か突然『チキチキ・速水が私をいつ裏切るか猛レース』が始まった。
で――次の瞬間。
「うぉぉおおおおおおおい!!」
一緒に走行スタートと同時に速水は私のみならず、他生徒をゴボウ抜きして遥か彼方に消えていった。
私が思わず叫ぶようにツッコミを入れた頃には、もう届かない距離。
いや裏切るのはっや!
ついでに足もはっや!
シュンソク履いてる!?
裏切るのはわかってたからいいけどさ、もう!
「なんだアイツ……途中で置いてったりしないとか言っといて!」
…………ん? いや、『途中』で置いてってはないか。
スタートと共に置き去りにしてったもんな。
いや……どちらにせよだよ。
「これだから運動神経良いヤツは! 武士でもなんでもないじゃん!!」
愚痴の叫びと共に、私の最悪な道のりは再スタートした。
――――十五分後。
ようやく一周目終盤に差し掛かったころ。
「っ、はぁッ……はぁッ……し、死ぬッ……」
既に私は、速水に裏切られたことなんてどうでもいいくらい疲弊しきっていた。
いやスタート地点どこ……まだ半分も終わってないんか!?
もう無理、超無理限界ギリ……。
脇腹痛い。喉も痛い。足も痛い。全部痛い。
もうどうでもいい。
早く終われ。この時間。
――と、この世の終わりみたいなことを思っていたそのとき。
「よっ」
「っ……!?」
横から突然、速水の声がした。
ていうか、私の隣を並走していた。
「……はや、み……?」
え、なにコイツ早ッ。
こっちが一周行かないうちに、コイツはもう二周目終わりかけなんかい。
しかも私は死にかけてる一方で、まるで爽やかなの意味わからん。
裏切り武士――とか罵ってやりたい気持ちはあるが、いかんせん肺に酸素が足りてなさ過ぎて何も言えない。
「一緒にゴールしようぜ!」
「いや無理ッ、にッ、決まってッ、んだろ! 私ッ、周回ッ……遅れだよッ!!」
「いけるって」
いけるわけあるか。
ゴボウ抜きしてったくせに。
「お前がゴール切っても私は『残念あと一周』だよ!」
「え? 女子は二周だけど、男子は三周だぞ?」
「……は?」
「え、聞いてなかったん?」
「あ……」
あえ……?
そういえばそんなことを先生が以前言ってたかも?
やべ、持久走が嫌すぎてあんま聞いてなかった。
てことは何? コイツ裏切るようなフリして最初にぶっ飛ばしたのって、一周ハンデの私に追いつくためだったの!? なんだそれ!
普通「一緒に走ろう」って言われたら一周目から一緒に走ると思うだろうが!
逆にどんだけ私と一緒にゴールしたいんだよ!
「いや、今一位なんだからちゃんと走ればいいじゃん!」
「えー、だって別にタイムに興味ないし」
「だとしても、もっと他にいるでしょ。仲いい友達とか。なんで私なのよ」
「高橋と仲良くなりたいな~って思ったから。気になってたし」
「はぁ!?」
「ダメ?」
「ダメ……とかじゃないけど」
なんだこいつ! なんだこいつ!?
気になってたってなんだ!
爽やかな顔して、ほんと意味わかんない!
「うはは、顔真っ赤じゃん!」
「っ……! 走ってるからでしょ!!」
顔が熱くなったのは、走ってるせいだけじゃないなんて自分でも分かってる。
そりゃ気になってるなんて言われたの初めてなんだから、耐性なんてない。
「じゃあいーだろ? 一緒に走っても」
「いいけど……私めっちゃ遅いよ?」
「わかってるって。まだこんなとこにいんだから」
「うるさいな!」
意味わかんない。意味わかんない。
一番嫌いなイベントだったのに、なんでちょっと喜んじゃってるのよ私。
気づけば私と速水は、スタート地点を再び通過していた。
なんか、既にちょっとだけ足が軽い。
「よっしゃ! あと一周な! ほら、踏ん張れ踏ん張れ!」
「地獄ッ……!! ぅうう~~!!」
「うはははは! 死にそうな顔オモロ~!」
「殺すッ!!」
足が軽くなったとはいえ、ラスト一周はやっぱり地獄だった。
けれど、速水が最後までいてくれたおかげなのか、思ってたより早く走り切った。
たぶんメンタル的な問題だと思う。
武士が言った通り、途中で置いていくなんてことはなく、最後の一歩まで私に合わせてくれた。
思えば、この日から私の日々が少しずつ変化した。
***
あの日以来、速水はやたらと私を見つけては話しかけてくるようになった。
廊下でも、購買でも、たまに校門でも。
最初は「なんなのコイツ」としか思ってなかったけど、気づけばその声を探してる自分がいた。
意識している――と言われれば否定はできない。
理由は……なんだろ、足が速いから?
いや、足速くてカッコイイなんて思うのは小学生までって言いがちじゃん?
でもさ、逆に考えると足速くてカッコ悪い瞬間なんてないからな。
それに何より――気になる、と言われたからだろう。
「一緒にゴールしようぜ!!」
昼休み――廊下から「高橋~」と大声を上げながら走ってきて、そのまま私の机の前で速水はそう言った。
手に持っていた大学のパンフレットを見せながら、いつものようにニコニコで。
「ゴール? ってなにこれ、私の志望校じゃん。なんで知ってるの?」
「担任に聞いた!」
勝手に聞くなよ。
担任も勝手に教えるなよ。
別にいいけどさ。
「……ていうか、なに。なんでそれ持ってきたの」
「ん? 一緒に行こうと思って」
あまりにも軽い。
コンビニ行くくらいのノリで言うな。
って、「一緒にゴールしようぜ」ってそういう意味かよ。
「そりゃ速水が目指すのは勝手だけど、ここ偏差値どんだけだと思ってんの」
「知らん! でも高橋行くんだろ?」
「いや私だって行けたらいいなってくらいなんだから。あんたの名前なんてテストの点数張り出しでも見たことないし、無理でしょ」
「じゃあ勉強する! 教えてくれよ!」
ぐ……それが人にものを頼むときの態度か。
私だって自分の勉強で手一杯なんですけど。
けど、まぁいいかって思う自分もいて、なんか悔しい。
それに、持久走で一緒に走ってくれた借りもあるし……いや、あれは借りなのだろうか? しかも受験勉強とは釣り合ってない気もするけど。
「……わかった。私が見てあげるわよ」
「え、マジ!? ラッキー!」
「ちゃんとやるならだからね!?」
「やるやる! 毎日やる! 高橋と一緒にゴールするし!」
……またそれ。
「……受験はマラソンじゃないんだけど」
「でもゴールはあるだろ?」
ああもう。
なんか、こういうところ。
「……はぁ。まぁいいけど、落ちても知らないからね」
「落ちねーよ。だって高橋いるし。お前と一緒に居たいし!」
なんだ……?
持久走の時もそうだったけど、天然で言ってやがるのか?
そういうの、ほんとずるい。
意味わかんない。
「……じゃあ今日からね。放課後、図書室で」
「おっけー!」
なんで私は、こんな簡単に巻き込まれてるんだろ。
でも――たぶん。
あの日、あの持久走大会の日から、とっくに巻き込まれていたんだ。
***
――それから、いろいろあった。
気づけば季節は巡って、私たちは高校を卒業し、大学に進学して。
あの「一緒にゴールしようぜ」は、いつの間にか当たり前に隣にある言葉になっていた。
持久走で。
受験で。
何度も、何度も。
そのたびに私は振り回されて――
でも結局、速水はずっと私の隣にいた。
そして今。
「高橋、緊張してる?」
「静かにしてよ……」
私の隣には、スーツ姿の速水。
大学四年、春。
就職活動、最終面接。
持久走のときみたいに爽やかな顔してるけど、ここはお気楽な学校じゃない。
会社だ。
しかも最終面接だ。
だから頼むから、そのノリを少しはしまってくれ。
ていうか、なんで一緒の会社なんだよ。
世の中には星の数ほど企業があるんですけど?
なんでその中から、よりにもよって私の第一志望に、当然みたいな顔してエントリーしてきてるわけ?
大学受験のときに「一緒に行こう」とか言い出した前科があるから、嫌な予感はちょっとしてたけど。
してたけどさ。
まさか本当にここまで一緒に来るとは思わないじゃん?
「ですので……私の想像力が貢献できると考え、応募させていただきました」
「なるほど……」
面接は淡々と進んだ。
学生時代に力を入れたこと。
志望動機。
入社後にやりたいこと。
私はどうにか無難に答える。
頭の中で何度もシミュレーションしてきたことをなぞるように、一つずつ丁寧に。
よし、悪くない。たぶん。
少なくとも爆死はしてない。
一方、速水も、意外なことにそこそこちゃんと答えていた。
……意外ってなんだよ、って話だけど。
でも実際、大学受験のときだって最初は絶対無理だと思ってたのに、こいつは本当に受かってしまったのだ。
そういう意味では、油断ならない。
このまま終われば。
このまま大人しくしていれば。
たぶん、私も速水も、ちゃんとゴールできる。
そう思った、そのときだった。
「速水さん。当社を志望した理由を、もう少し具体的に教えてください」
面接官の一人が、静かに尋ねる。
速水は、一瞬だけ考える素振りを見せて――
「そうですねぇ……他にあるとすれば、高橋と一緒にいたいからですかね!」
「はっ……!?」
私は思わず、勢いよく隣を振り向いた。
なに言ってんだこいつーーーー!?
今なんの場!? 就活!! 面接!! 人生の分岐点!!
そこで出す答えがそれ!?
おまっ、ギャグでも言って場を和ませたいならもっとなんかあるだろ!?
面接官見てみ!? 無風だから!
笑いもしない。
引きもしない。
ただ、静かにこちらを見ているだけ。
やば、これ、私もなんか言わないと――
「えっと、その、彼は――」
「大学受験のときも、一緒にゴールしようって言ってて……」
うぉおい私を無視して説明を始めるな!!
広げるな!!
しまえその思い出エピソード!!
「は、速水!?」
「おう! 一緒にゴールしようぜ!」
そういうことじゃなさすぎる!
私の制止なんて、当然のように聞いちゃいない。
終わったから!
その言葉を言ったと同時に、一緒にどころか二人ともゴールできなくなったの確定したから!
「御社に入れば、一緒に働けるじゃないですか」
「速水」
「だから、一緒だったら楽しいかなって」
「速水!」
お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前!!
頭を抱えたい。
今すぐ逃げ出したい。
でも面接中だからそんなこともできない。
終わった。
私の就活、終わったかもしれない。
――この後のことは、何が起こったか正直覚えてない。
その後も何か聞かれて、私はたぶんそれなりに受け答えした。
した、はず。
いやしててくれ、私。
でも正直、記憶はほとんどない。
「……はぁぁぁぁぁ……」
肺の中のもの全部吐き出すように、長いため息が漏れる。
「すごい深呼吸するじゃん」
「深呼吸じゃないんだが? 絶望の吐息なんだが?」
「うははは!」
笑うな。
誰が笑ってもお前だけは笑うな。
まったく、誰のせいだと思ってんだ。
「ほら、高橋」
自販機の前で、速水が缶コーヒーを一本差し出してきた。
受け取ってから、私はじとっと睨む。
「……ゴール馬鹿」
「なんだそれ」
「次からはもう、あんなとこで『一緒にゴールしようぜ』とか言わないでよね」
「えー、なんで?」
「なんでもだよ!」
こっちがどれだけ振り回されると思ってんのよ。
けど。
缶の温かさがじんわり手に馴染むのと同じくらい、速水の笑顔も、もうずいぶん前から当たり前みたいに胸に残るようになっていた。
一緒、一緒ね……一緒にゴールしたい。
…………そんなふうに思ってるなんて、絶対まだ言ってやらないけど。
「ねぇ」
「うん?」
「今日は……もう少しゆっくり帰ろうよ」
***
「一緒にゴールしようぜ」
――またそれか。
そう思ったのに、今回は今までみたいに即座にツッコめなかった。
窓の向こうには、宝石をばら撒いたみたいな夜景が広がっている。
見上げるような高層ビルの、その最上階。
ドレスコード必須なんて、私の人生にそんな場所そうそう出てこないんですけど、みたいなレストランの窓際の席で。
テーブルを挟んだ向こう側には、いつもみたいに笑ってる速水隼がいて。
そして、私に差し出した手元には――小さな箱。
開かれたそこに収まっているものを、私は知っている。
知らないわけがない。
だって、こんなのもう、ドラマか何かでしか見たことないやつじゃん。
就活のあとも、いろいろあった。
あの最悪な面接は、なぜか二人とも通っていて。
社会人になってからも、隼は相変わらずで。
朝からうるさくて、距離感がおかしくて、でも――気づけば、しんどい日ほど隣にいてほしいのはいつもこいつだった。
だから、いつかこういう日が来てもおかしくないのかもしれないって、どこかで思っていたのかもしれない。
……思っていたとしても、心の準備ができるかは別問題なんだけど。
「結衣……」
名前を呼ばれて、私はハッとして彼の顔を見上げる。
その声が、昔より少しだけ低くなっていることも。
スーツじゃなくて、きちんとしたジャケット姿の隼が、学生のころよりずっと大人に見えることも。
なのに笑う顔だけは、あの頃とちっとも変わらないことも。
全部、ずるい。
「もう、こんな時までそのセリフなの?」
やっと言えたのは、それだけだった。
私の声は、思っていたよりもずっと震えていた。
隼は少しだけ困ったように笑って、それから、あの頃のままの顔でまっすぐ私を見る。
「だって、ずっとそうしてきただろ」
ずるい。
ほんと、ずるい。
勝手に置き去りにして。
勝手に追いついて。
勝手に私の人生に入り込んできて。
受験も。
大学も。
就活も。
仕事も。
何回も振り回されて。
何回も悪態ついて。
何回も呆れて。
それでも結局、ここまで来てしまった。
気づけば私は、あの日の持久走で置いていかれた女の子じゃなくて。
この人となら、どこまででも一緒に行けるのかもしれないって。
そんなふうに思ってしまう女になっていた。
「結衣」
もう一度、私の名前を呼びながら、彼はゆっくりと箱を差し出した。
「ずっと一緒にいよう。絶対に幸せにする」
だめだ。
そんなの、泣くに決まってるじゃん。
視界が滲む。
せっかく今日はちゃんとしてきたのに。
ドレスだって、靴だって、髪だって。
こういう日のために頑張って整えたのに、全部台無しになるじゃん。
なのに、涙は止まらなかった。
「……っ、ほんと……」
笑いたいのか、泣きたいのか、自分でもわからない声が漏れる。
「ほんと、ゴール馬鹿……」
あの頃から何も変わってない。
大学受験でも、就活でも、そしてこんなときまで。
人生で一番大事な場面くらい、もっと他に言い方あるでしょ。
たとえば、もっとロマンチックにとか。
もっとちゃんとしたプロポーズの言葉とか。
ドラマとか映画とか、いくらでも参考にできるものあったでしょうが。
なのにこの人は、結局これなんだ。
『一緒にゴールしよう』
それは、一緒に走るってこと。
置いていかないってこと。
しんどくても、みっともなくても、情けなくても、ずっと隣にいるってこと。
あの日、持久走で言われた言葉が。
大学のパンフレットを差し出されながら言われた言葉が。
面接会場の前で、呆れるほど無邪気に言われた言葉が。
全部、全部ここに繋がっていた。
隼が、少しだけ目を丸くして。
それから、嬉しそうに笑った。
ああもう、かなわない。
最初から、ずっと。
たぶん私は、この人にはかなわなかったんだ。
一緒に走るのも、置いていくのも、全部コイツ次第だから。
涙でぐしゃぐしゃのまま、それでも私は笑う。
いや、最初からかなわないなんて、それは少し違うのかもしれない。
だって私も、何度だってこの人の隣を選んできたんだから。
「しょーがないなぁ、もう」
何年もかかって、ようやく。
持久走で置いてけぼりにされたあの日の自分に、教えてやりたい。
その“意味わかんない武士”と。
その“ゴール馬鹿”と。
これから先も、ずっと一緒にいたいと思う日が来るんだよって。
「じゃあ、一緒にゴールしよっか」
そう言った瞬間、彼の顔が、信じられないくらい嬉しそうに崩れた。
夜景が綺麗だとか。
高層ビルの最上階だとか。
そんなこと、もうどうでもよかった。
ただ、この人と迎える未来だけが。
今の私には、何よりも眩しく見えたから。
***
そんな――懐かしい夢を見ていた。
窓から見える空は、やけに高くて、やけに澄んでいて。
持久走が嫌で嫌で仕方なくて。
勝手に話しかけてきた、意味わかんない自認武士の男に振り回されて。
受験でも。
就活でも。
あの日のプロポーズでも。
何度も何度も、あいつは笑って言ったのだ。
『一緒にゴールしようぜ』
だから私は、もうとっくに信じていた。
この先もずっと。
どんな道でも、どんな景色でも。
隣には彼がいるんだって。
――なのに。
見上げた天井は、白くて、何の飾り気もなかった。
高層ビルの最上階で見た、あの宝石みたいな夜景とはまるで違う。
綺麗でも、特別でもない。
ただ無機質で、ただ静かな、白い天井。
耳に届くのは、規則的な機械音。
ピッ、ピッ、と、やけに几帳面な音が、静まり返った部屋に淡々と響いていた。
……ああ。
そっか。
私、もう――。
「結衣……!」
掠れた声と一緒に、ぎゅっと手を握られる。
重い瞼をゆっくり動かすと、そこには今も隣にいる彼がいた。
もう“速水”なんて呼び方じゃない。
何十年も前から、私の旦那さんで。
私の人生の隣を、当たり前のような顔でずっと歩いてきた人。
なのに今は、その顔がひどく泣きそうで、でも泣くまいとしていて。
笑おうとしてるくせに、全然笑えてなくて。
そんな顔、しないでよ。
私は少しだけ指先に力を込める。
それだけで精一杯だった。
「ごめん……ね……」
「無理に喋るな」
即答された言葉は、震えていた。
強く言っているつもりでも、全然強くなんかなくて。
ああ、本当に困ってるんだなってわかってしまう。
「もういい。喋んな。いいから……」
よくないよ。
全然、よくない。
だって私。
言わなきゃいけないことがあるのに。
「いっしょ、に……」
喉が痛い。
息も、ちゃんと続かない。
なのに、言わなきゃと思った。
だってあなたは、あの日からずっと言ってくれてたでしょう。
持久走で。
受験で。
就活で。
プロポーズで。
何回も何回も、呆れるくらい真っ直ぐに。
「一緒に……ゴール……しよ、って……」
「結衣」
「わた、しも……いった、のに……」
一緒にゴールしよっか、って。
あの夜、ちゃんと言ったのに。
ちゃんと返したのに。
なのに。
「いっしょ、に……できなく、て……」
途切れ途切れの声は、情けないくらい弱かった。
泣きたくなかったのに、視界がぼやける。
違う。
こんなの、違う。
持久走のとき、彼は置いていかずに私の隣にいてくれたのに。
受験のときも、就活のときも、何だかんだで隣にいてくれて。
ここまで来たのに。
最後だけ、私が先に行くなんて。
そんなの、ずるじゃん。
「やだ……よ……」
老いぼれの口から出たのに、子供みたいな声だった。
「置いて……いく、の……やだぁ……」
旦那は、握っていた私の手を両手で包み込んだ。
壊れ物に触るみたいに、そっと。けれど必死に。
「結衣」
その声を聞いただけで、胸が苦しくなる。
「大丈夫だ」
大丈夫なわけないでしょうが。
何年一緒にいると思ってるのよ。
その“大丈夫”が、自分に言い聞かせてるだけの声だってくらい、すぐわかる。
「そう遠くないうちに、俺も行くから」
ゆっくりと、噛みしめるように。
でも、はっきりと。
私の旦那はそう言った。
「だから……先に行って、待っててくれ」
息が、止まりそうになった。
その言葉は、優しいのに。
優しすぎるのに。
どうしようもなく、残酷だった。
先に行って。
待っててくれ。
いやだよ。
ずるいよ。
あなたは、ずっと私を待っていてくれたじゃない。
ちゃんと私の歩幅に合わせてくれたじゃない。
最後まで、隣で一緒にゴールしようとしてくれたじゃない。
なのに今度は、私が先?
私が待つ側?
そんなの、簡単に受け入れられるわけない。
でも。
この人は、きっと本当に来るんだろうなって。
そんな、どうしようもない確信があった。
だって私の旦那は、足が速いもの。
三キロ走ってへばってた私に、いつのまにか追いついて。
受験でも、就活でも、人生の節目全部で、結局ちゃんと隣に並んできた男だ。
だからきっと、どれだけ遠くても。
どれだけ長い道でも。
どれだけ向こう岸が霞んで見えても。
この人は、また当たり前のような顔をして追いついてくる。
川を渡り切る、その前に。
息を切らせるでもなく、昔と同じ笑顔のままで。
そしてきっと、こう言うのだ。
『一緒にゴールしようぜ』
って。
「……ほんと……」
涙が、こめかみを伝って落ちた。
「ゴール……馬鹿……」
旦那が、泣き笑いみたいな顔をする。
その顔があまりにもいつも通りで、私は少しだけ安心した。
「あぁ、そうだな」
あなたは、いつだってそうだった。
勝手で。
強引で。
意味わかんなくて。
でも、絶対に私をひとりにはしなかった。
ずっと、そうだった。
胸の奥に、長い長い年月をかけて積もってきたものが、ふっとほどける。
「じゃあ……まって、る……」
やっとの思いでそう言うと、彼は何度も頷いた。
子供みたいに、ぼろぼろ泣きながら。
それでも笑おうとして、ぐちゃぐちゃの顔で。
「ああ。すぐ追いつく」
すぐ、なんて。
そんなこと、信じていいのか分からない。
でも、あの日から今まで。
この人が言った“ゴール”の約束は、一度だって外れなかったから。
だから、今回も信じてあげる。
それに、私は足が遅いから。
先に行っても、しばらくはモタモタしてるから。
重たくなっていく瞼の向こうで、旦那の手の温度だけが、最後まで確かだった。
少しだけ先に、ゴールテープの手前で待つだけなんだ。
だから。
「……いっしょ、に……ゴール……しよ……ね……」
最後にそう呟いたとき。
握られた手が、泣きたいくらい強く、優しく、私を掴んだ気がした。
あなたと一緒に走れて、とっても幸せでした。
THE END
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
もしお気に召しましたら、ブックマークや評価(☆☆☆☆☆)にて応援いただけますと、大変嬉しいです。
挿絵込みでの作品を書いてみたかったので初めて書いてみました!
五枚つかれたーー!←
舞台は割と時を跨いでましたが、分かりやすく朝、昼、夕、夜、朝にしてみたのです……気づいてくれたら嬉しおす、嬉しおす……。
…………ここから先は蛇足です。
黄泉――果てしなく広い暗闇の世界。
彼を信じ、生きて欲しいと切に願い、それでも川を渡りきる前に心が折れた世界。
その終点。
声をかけられた先の――
結衣が辿り着く、最後のゴール。
(2/2)
4/15 現実世界恋愛1位 ありがとうございました。
後書きの世界は、その感謝の気持ちです。
2人の愛が、永遠でありますように。
(※挿絵が上手く表示されない時があるようなので、変に間空いてるところがあればページ更新すれば復活することがあるみたいです)




