第53話 菌類の可能性
一通り加工所を見て回った私とマシューさんは、最後の酒造を後にする。
酒造の中は熱気で満たされていたけれど、外に出ると真冬の寒風が吹きつける。
私はぶるりと肩を震わせた。
「うう、寒い……なんだか年を越してから、寒さが厳しくなった気がしますね」
「実際そうなってますよ……ブルーフォレスト地方の特徴です……年を跨いだ頃から春先まで、一気に冷え込むんです」
私のぼやきにマシューさんが答える。
冬のブルーフォレスト領は、辺り一面に銀世界が広がっている。
息を吐けば真っ白い。容赦なく吹き付ける寒風が、肌から水分を奪って乾燥させる。
「……それに、風邪が蔓延するのもこれからの時期の特徴ですね……エルシー様も気を付けてくださいよ」
「風邪?」
「はい……ブルーフォレストの先代様も、風邪が悪化した肺炎で亡くなられましたからね……」
ブルーフォレストの先代様というのは、ラウル様のお父上のことだ。
ラウル様のお父様は数年前に病気で亡くなったと聞いている。
「最初は軽い風邪だと軽く見ていたようですが……その状態で無理を重ねた結果、悪化して気付いた時には……という状況でした」
「そうだったんですね……」
確かに、たかが風邪といって甘く見てはいけない。
特にこの世界では、まだ抗生物質が発見されていないようだから気を付けないといけない。
流石に私も抗生物質の作り方は知らない。
こんなことなら医者が江戸時代にタイムスリップする漫画を読んで、抗生物質の作り方を覚えておけば良かったわ。
「ちなみにこの世界だと、風邪の原因は何だと考えられているんですか?」
「……この世界?」
「あ。いえ、ええと――ほら、私は山を越えた南側から来たでしょう。王都周辺だと病気の原因は体液の乱れや瘴気のせいだと考えられていたのだけれど!」
「ああ、そういう……概ね変わりませんよ。冬季に到来する冬将軍が悪い気を引き連れてくるので、その影響で風邪が蔓延する……そう考えられていますね」
「なるほど」
どうやらその辺りも、前世の世界におけるヨーロッパの歴史と大体同じみたい。
「まあ……個人的には、それだけではないと思いますけど……」
「そうなんですか?」
「はい。まあ……まだ仮説段階なので何とも言えませんが……もしかすると病気にも『菌』が関係しているのではないかと……」
「え?」
「もっとも、父に話したところ笑われましたが……『お前は何でも菌類に結び付けて考えすぎだ』と……」
マシューさんは自虐的に笑うけど、彼の言葉を聞きながら私の胸は早鐘を打ち始める。
この世界では、まだ細菌の存在も確認されていない。
そもそも前世の世界でも、細菌が感染症の原因だと知れ渡るようになったのは、19世紀に入ってからだった。
長らく病気の原因はこの世界と同じように、体液の乱れや悪い気の影響だと考えられていた。しかし原因が特定されたことにより、医学は飛躍的に進歩する。
細菌が発見され、感染症の原因が細菌だと判明すると、次の段階として細菌を殺す薬の研究が始まった。
細菌を殺す薬――すなわち抗生物質だ。
そして世界発の抗生物質・ペニシリンは、カビの中から発見されたと聞いている。
詳しい作り方は知らないけど、それぐらいなら歴史の授業で教わった記憶がある。
「マシューさん」
「はい……なんですか? やっぱり笑えますか? いいですよ、笑ってください。あははははは」
マシューさんはどこか自棄っぽく乾いた笑いを漏らす。だけど私は一切笑わず、真っ直ぐ彼を見据えて言った。
「私はあなたの考えを支持します」
「……はい?」
「私は菌類の専門家ではないから、難しい話は分かりません。それでも、あなたの理論は私の夢の一つを叶えてくれました。だから私は、あなたの考えを全面的に支持します」
マシューさんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
その反応は妥当かもしれない。だって彼の理論は、父であるブラウン男爵に笑い飛ばされたようだから。
でも21世紀の日本で生きてきた私は、彼の理論が正しいことを知っている。
感染症の原因は細菌。細菌を殺す薬は抗生物質。そして原初の抗生物質はカビの中から見つかる。
きっとこの世界ではマシューさん、あるいは彼の菌類仲間が、細菌を発見して抗生物質を作るんだろう。
――私はそう確信する。
「だから歩みを止めないで、研究を続けてください。誰に否定されようとも私はあなたの考えを支持します」
「エルシー様……」
マシューさんの白い顔に赤みが増す。
普段屋内に籠っていることが多い彼の肌は、透き通るような白い色をしている。だから顔色が変わるとすぐに分かった。
……さっき清酒を試飲したせいかしら?
なんだ。私のことをお酒に弱いと笑っていたけれど、マシューさんだってそんなに強くないんじゃないの。
でも、そんなことを今指摘するのは良くない。空気が悪くなるかもしれないもの。
私は気付いていないふりをして話を続けた。
「それにラウル様だって肺炎でお父様を亡くされているんですもの。風邪の原因を特定すれば、悪化を防ぐ薬だって作れるでしょう? きっとご理解してくださるわ」
「あ……そう、ですね。エルシー様にはラウル様がいるんだった」
「マシューさん?」
「……なんでもありません。もう帰りましょう……冬場は日が沈むのも、冷え込むのも早いです」
「あ、そうですね。そろそろお暇します。マシューさん、今日はどうもありがとうございました」
その後も会話を続けながら歩いていると、いつの間にかブラウン男爵邸の前まで辿り着いていた。
帰りの馬車の前で深々と頭を下げる。
マシューさんは加工所を案内してくれて、お土産まで持たせてくれた。
このまま彼の研究が進んで成功すれば、この世界の感染症死亡率は劇的に下がるかもしれない。
ブルーフォレスト領の未来は明るいわ。マシューさんとは今後も良い付き合いを継続していかなくちゃ。
私は決意を新たに、ブラウン男爵領を後にした。




