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冬に鳴いた蝉

作者: 雉白書屋

 夜。古いアパート。そのうちの一つのドアが開いた音が室内の隅にまで響き渡った。

 ギイイィと耳障りな音だ。だから出入りの時、鳴らさないよういつも神経をすり減らした。

 そしてその少年は他にいくつも気をつけていることがあった。

 笑わないこと。泣かないこと。喋らないこと。返事をすること。

返事が大きすぎないこと。返事が小さすぎないこと。

言われたことをすること。言われる前にすること。

殴られても泣かないこと。腹を蹴られても吐かないこと。

 

 父親と約束したことは、まだまだ他にもあったが彼が今していることはたった一つだけ。

 

 自分の息を殺すこと。

 

 彼は今、押し入れの中に隠れている。

 蹲り、心臓の音をも隠そうとしていた。

 寒いが脇の下に汗をかいていた。指先は冷たいが握る手は汗を

歯はガチガチと鳴っており、それを止めようと舌を差し込み、その痛みに目をギュッとつぶる。

 外では足音がしている。堂々とした重い足音だ。

それが自分を探すような動きをしていることはすぐにわかった。

いつもそうだからだ。見つかれば手間をかけさせやがってと余計に多く殴られた。

それでも見つからなければ殴られることはないのだ。だから毎回、隠れるようにしていた。

 一か八か。まるでギャンブルだ。父親が好きな。

その嫌悪感、惨めな気持ち、それを上回る恐怖心。

寒さとは関係なしに体が震える。そんな時、彼はいつも自分をこう思うことにした。

 

 僕は蝉。ここは地中。決して見つからない。そしていずれ……いずれ外を羽ばたくと。


 だが、空想を壊すのはいつだって現実だ。

 足音が近づく。

 彼にはわかる。じき、襖が開けられると。それはこれまでの経験からくるものだが

彼は自分に特別な力が、予知能力者にでもなったような感覚がし、少しだけ気が紛れた。

尤も、すぐにその後の暴力まで予知し、体の震えは酷くなり、膝を抱えたまま倒れそうになった。

 

 今、足音が止まった。

 そして静寂。彼にはわかる。襖に手を伸ばしているのだ。

 当たった。ガッと今、手が掛かった音がした。

 彼は飛び上がりそうになるのを必死に抑えた。

 僕は蝉の幼虫。僕は蝉の幼虫。ここは土の中。決して見つからない。

いつか外を自由に。いつかいつか。今は無理でもいつか。

傷も痛みも痕も成虫になればなくなる。羽化すれば綺麗になる……。


 呪文のように心の中で唱える。

そうしていると覚悟のようなものが出来上がる。

それがクッキーよりも脆いことは彼も知っているが。


 襖が開く。ゆっくりと。

部屋の窓の外から月の光がうっすらと染みこむように彼の空間を侵す。

 大きな影がそれを遮る。

 大きな手、大きな口、大きな目。

 息、体温、汗の臭いまでも彼の脳裏に蘇る。

 震え、震え、身構える。

 手が伸びる。口を開く。

 飛び出す怒号と罵声を覚悟し、彼は目を閉じる。

 

 「大丈夫……だからその包丁をこっちに……そう、いい子だね」


 押し入れから出ると、途端に喧騒が耳の中に雪崩れ込んだ。

 警察の無線、ザワザワと野次馬の声、言葉の数々。保護、死亡と。

 彼は肩を抱かれ、アパートの部屋から出る。

 頭に思い浮かべるは、押し入れから出て目にした継父の死体。

 まるで死んだ蝉だ。

 彼はそう思った。


 そして泣いた。泣いた。泣き声は冬の夜空まで届いた。

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