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間諜皇女 ~スパイ・プリンセス~   作者: 藤花チヱリ
花街編
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5 貴光妃

「ではあなたはこちらの拭き掃除をお願いします。」


「かしこまりました」


手拭いを組んできた水にくぐらせ、絞る。目に入るもの全てを、完璧に磨き上げていく。


妓楼に入った当初、まず初めに教わるのは、炊事と洗濯、そして掃除だった。できなければ、女主にこっぴどく叱られる。


手にあかぎれができたのが懐かしい。


女主曰く、身請けされた後に、身請け先で生きていけるように、ということらしい。最高級妓楼ならではの矜持でもあるのだろう。


「あら、なんだか気分が良いわね、こうも周りが綺麗だと。」


そう言いながら現れたのは、紛れもない貴光妃(キコウひ)だった。豪華絢爛、とはまさにこのことで、頭にこれ以上させないのではないかというほどの簪を挿している。


その一つ一つも豪華なもので、金でできた立派な造りのものもある。


「恐れ入ります」


(クイ)は慌てて礼をする。


「ああ、良いのよ。気にしないで。」


そう言うと、貴光妃は柔らかく微笑む。


微笑むと、周りに花が飛んでいるように見える。朗らかな性格なのだろう。


「あなた、名前は?」


杭々(クイクイ)と申します。」


咄嗟に考えついた名だが、いささか無理があるのではなかろうか、と一瞬不安がよぎる。しかし、貴光妃はまんざらでもない様子なので、良しとする。


「そう、今まで大変な思いをしてきたのね。ここにいるのはほんの少しの間かもしれないけれど、せめてその間は穏やかに過ごせるようにしておくから、気にせず休みなさい」


貴光妃は憐れむような視線を葵の左頬に向けて立ち去る。葵は慌てて頭を下げた。


(おお、やばかった)


ここでの「杭々」は、下賤の生まれで、両親からひどい扱いを受けて育ったことにしている。そのため、左頬に火傷の痕がある、という設定だ。


貴光妃が通りすぎていく時、後ろに付いている侍女のうちの一人に童女がいたのだが、やけに見つめられている気がした。


ジロジロと見るものでもないだろうと、多少手抜きで火傷化粧をしているが、バレると色々とめんどくさいので、明日からは少し念入りにしようと試みる。



床と窓を完璧に吹き終えると、水桶を持って、外に出る。


ここに入るのはそう大変なことでもなかった。


貴光妃は毒を盛られた後遺症として、右手の指先に麻痺が残っているらしい。


そこで、新たに臨時で短期間、下女を増員すると募集がかかっていたのである。


蝶天閣の人間は誰一人として、「葵」という人間の仕事を知らない。本来妓女というのは、御客からお呼び出しの仕事などが来ない限り、外に出ることはできない。


張様が帰った後、女主に踊り子として宮中に向かう件について話すと、二つ返事で了承が出た。


御客が減った分、取り戻そうという算段らしい。丹華、葵、蘭世の最上級妓女全員に加え、売れっ妓全員を連れて行くと意気込んでいる。


それはそれで良いのだが、今回の貴光妃の侍女として潜入するにはかなり無理があった。


なんと説明すべきか悩んでいると、鷹の旦那の遣い、と名乗る者たちが店前に現れ、数日葵を借りたい、と申し出て来た。


最初は渋っていた女主も、いくらでも出すと聞いて、了承した。守銭奴とは恐ろしいものである。



水桶や手拭いを片付け、他に仕事はないか、辺りを見回していると、季節外れの紫陽花が目に付く。


なんとも言えぬ藍色が美しい。


「あら、気になる?」


いつの間にか眺めてしまっていたらしく、後ろから少し高い声で話しかけられる。


振り向くと、一人だけ侍女を連れた貴光妃が立っていた。


「あ、いえ、申し訳ございません。」


葵は咄嗟に身を引くが、貴光妃に構わないわ、と言われる。


「私ね、紫陽花の花が昔から好きなの。昔はここだけじゃなくて、もっと広範囲に植えていたのだけど、飼っていた猫がね、誤って食べちゃって。そのまま死んでしまったの。それからはここにしか植えていないのだけれど、たまに見に来てしまうの。紫陽花が私みたいな花だからしら、うふふ。」


そう言うと、貴光妃は口元に手を当てて笑う。本当に優しい人なのだな、と折節感じるところがある。


「紫陽花には様々な意味がありますが、確かに貴光様と同じ、寛容、という意味もありましたね」


葵が答えると、貴光妃は一瞬戸惑うような表情を見せたが、そうね、そうかしら、などと言って笑みを浮かべる。



「そう言えば、来週貴光様の全快祝いの宴が行われると伺いました。」


葵は話題を変えるべく、妃に尋ねる。いきなり、毒を盛った犯人のことを問うたところで、不審がられるだけだ。


「そうなのよ、主上自らが提案してくださって…。お気遣いいただいて申し訳ないのよ。こんな麻痺を残したままで、妃の務めは定まらないと申し上げたのに…」


妃の一番の務めは、帝の子を産むことだ。もしも子になにかあれば、妃、そして妃の一族の威厳に関わる。身体に麻痺があれば、生まれてくる子になにがあるか分からない。貴光妃はその恐れを抱いているのだろう。


「それだけ帝に大切にしていただけているということではありませんか?そういえば、帝から元気になった後に一度会いたい、と文をいただいておりましたね。もう身体は大丈夫だと返事を書かれてはいかがですか?」


後ろに付いていた侍女が貴光妃を諭す。少し年配の侍女だが、その風格に有能さが溢れ出ている。


「そうねえ」


貴光妃は少しだけ困惑しているようにもとれたが、すぐにまた同じ笑顔に戻る。


(そりゃあ、まあ不安だわな)


帝の会いたい、は子作りをする、と同義にとれなくはない。実際にそうだとすると、不安は尽きぬだろう。


葵は立ち去る貴光妃と侍女の後ろ姿を見送った。


すると、どこからか自分を刺すような視線を感じる。見渡すと自分の足元に、先ほどじっと見つめて来ていた童女がいた。


「…。」


童女が何も話さないまま、じっと見つめてくるので、葵もただただじっと見つめ返すしかない。


「…??……。」


しばらく沈黙の時間が過ぎた後に、先に口を開いたのは、童女の方だった。


「きこうさまは、ひょうじょうがころころかわるんだよ。ずっとげんきなじょせいのようにみえるけど…。それにね、すごくしんぼうづよいひとなんだよ」


童女は真剣な眼差しで葵を見上げる。


「辛抱強い?」


葵には童女が言っていることの意味が全く分からなかった。伝えたいことも分からない。


「このあじさいはね、きこうさまがあるひとからもらったものなんだって。きこうさまはそのひとにべつのあじさいをかえしたっていってた。」


(わざわざ紫陽花を交換し合った?何のために?)


葵には益々分からない。童女はそんな葵の様子を見て、呆れ顔をしながら、あからさまな溜息をつく。


(なんか分かんないけど、なんかむかつく)


葵はくるっと身をひるがえすと、元来た道を戻る。


まだ童女の視線を背後に感じるので、振り返る。


「ねえ、お名前なんて言うの?」


葵が尋ねると、童女は、幼子らしからぬ、眉間にしわを寄せながら答える。


椿峰(チュンホウ)


そう名乗ると、椿峰は貴光妃の後を追うように去って行った。


(椿峰?この名前、どこかで…。)


葵は聞き覚えのあるその名に首を傾げながら、仕事に戻った。



〇●〇


「それで?来週の件はどうなっている?」


「はい、料理人は当然ながら別の者を揃えました。出来てすぐの料理を毒見する者と、いつもと同じく、会で出される時に毒見をする者の二人、毒見役を増員致しました。あとは、花街一の妓楼、蝶天閣より妓女数名を踊り子として迎えます。念の為、酒を注がせることは致しません。」


「そうか…。蝶天閣ということは、葵も?」


「はい、そのように承っております。ただ、今は貴光妃の元に侍女として出仕しておりますゆえ…」


「さっさと解決させなければ、逆に怪しまれるということか。」


「はい、蝶天閣の方には、宴までには返す、という話で通してありますから」


「こちらとしても、早急に解決してもらわねば、宴でどれほど毒見を増やしても、犯人が分からねば防ぐにも防げないところがあるからな」


そう言うと、男は深いため息をつく。


「最近頭の痛いことが多すぎる」


「はい。おっしゃる通りです」


男の従者もまた、見えぬようにため息をつく。


「解決しようにも自ら動けんというのは、もどかしいものだな」


男は力なく呟く。


「それは、、、貴方様には貴方様の御立場がございます故、私からはなにも…」


「…葵だけが頼みの綱だな」


男は今頃苦労しているであろう女のことを想いながら、天を仰ぐ。


机の上には、今一番頭を悩ませている事案が書かれた木簡が置かれている。


だが、その話が表に出るのはもう少し先の話だ。


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