21 李春妃
貴光妃の宮は、華やかとまではいかなくても、紫陽花の花々が彩る美しい庭のある、風情溢れる宮だった。
葵が今訪れている宮は、そんな情趣に溢れた宮などではない。むしろ、ずん、とした、なんならキノコが生えそうなほどの暗い空気を漂わせている。
それは、宮の様子というよりも、この宮の主の状態のせいかもしれない。
(どうやって切り出そうか)
葵は目の前で憔悴状態になっている妃を見て、立ち尽くす。話すこともままならないほどに陰気な様子で、この宮全体がそんな空気感に染まり上がっている。
「あ、あの」
恐る恐る話しかけると、焦点の合わない視線とぶつかる。まるで、熱病人を見ているようだ。
「すみません、今はこのような状態ですので、詳細は私共から…」
妃の隣に控える、侍女頭と思しき女に急かされ、葵は妃の自室を後にする。
居間に通された葵は、それはそれは丁重な扱いを受ける。菓子から茶に至るまで、どれも一級品だ。
「それで?李春妃がああなられた理由をお伺いしても?」
葵は改めて侍女頭に問う。
侍女頭は軽く人払いをして、葵の向かい側に腰かける。名を、揚怜といった。
「李春さまは愛玩動物として鳥を飼われていらっしゃったのですが、その鳥が亡くなってしまいまして…それはそれは愛でていらっしゃったので、その分悲しみも大きかったのかと」
揚怜は悲痛な面持ちで語る。
「それはまことに残念なことでございました。申し訳ございません。不躾にお伺いしてしまって」
「いえ、貴方のことは伺っております。東宮殿下の侍女の方で、東宮殿下の右腕的存在だと。こちらの相談や、困りごとの窓口になってくださるとのこと。後宮内では色々とありますから…女性の方が受け持って下さるというのも嬉しい限りです。」
揚怜はすっと頭を下げる。良い身分の出なのだろうか、一つ一つの所作が精錬されている。流石妃の侍女頭というだけある。
「いえ、そのように買い被っていただいてはお恥ずかしい限りですが、可能な限り尽力いたします。ああ、申し遅れておりました。私、紅藍と申します。」
「助かります。容易に宦官長には相談できないことも多くて…」
そう言って、揚怜は伏し目がちにする。
本来、後宮を管理しているのは宦官だ。男性であることを示すあれがない宦官であれば、帝の妃との間に間違いなど起こるはずがない。
ただ、時に後宮を管理する、という大きな立ち位置にいることから、多大な権力を持ってしまうこともある。過去の歴史を振り返ると、大きな権力を持った宦官が政治に口出しをし、国を滅亡させてしまったこともある。帝よりも大きな存在となり得る可能性もあるのだ。
となると、宦官にもしも妃の特記事項でも漏れるようなことがあれば、妃の実家に影響が起こる可能性も否めない。そういう点では、皇族の関係者が直接介した方が安心できると考えられるのだろう。
「それで、飼っていらした鳥が亡くなって憔悴されていることは分かったのですが、わざわざそれをこちらに相談なさったのは何故ですか?それだけではないのでしょう?」
葵が尋ねると、揚怜は声の調子を抑え、葵にしか聞こえないくらいの小さな声で答える。
「実は、その飼っていた鳥が死した理由が分からないのです。その鳥は雑食でしたから、時折李春さまのお食事を一緒に召し上がることもありまして…毒見役にはなにもありませんでしたが、もしかしたら…」
「李春妃の食事の一部に毒が含まれていたかもしれない、と」
「はい」
楊怜はうつむき加減で答える。
(しかし、妃と同じ食事をするとは、なんとも豪勢な鳥だ)
葵はそんなことを考えながら、李春妃がいる部屋の方を向く。部屋の前には侍女たちが待機しているが、誰一人として、辛気臭い顔をしていない者はいない。
それは、愛玩動物が亡くなった悲しみに浸る妃への同情というよりも、懐妊中の妃が毒を盛られたかもしれない可能性を示唆する心配の方が強い気がした。
「では、そちらの方を調べてみましょうか。鳥は何処に?」
葵は立ち上がる。楊怜は俯いたまま、首を横に振る。
「李春さまがそのままにしておいてくれ、と仰ったので、庭において、軽く土をかけておいたのですが…」
楊怜は言いにくそうにしながら、一枚の羽を取り出す。鮮やかな色味が特徴的だ。
(まあ、普通そのままにしていたら、腐るか、もしくは何かの動物の餌になるわな)
世界はそうやって巡り巡っているのである。
葵は菩薩のように悟りを開いた顔をする。
「あの、紅藍さん」
楊怜は怪訝な顔をしつつ、葵をつつく。どうやらそのまま突っ立っていたらしい。
「あ、ああ。失礼しました。では、鳥を調べるのも難しそうですね…とりあえず、その日鳥が食べたものを教えていただけませんか?」
「は、はい」
鳥とはいえ、李春妃が可愛がっていた愛玩動物だ。それはそれは丁重な管理の下、飼われていたに違いない。
「ええと、こちらが李春妃が召し上がったお食事ですね。三食分とお菓子を一覧にしてあります」
楊怜は一枚の紙きれを渡す。鳥が李春妃と同じものを食べていたのなら、これを見れば一目瞭然だろう。流石、よくできた侍女だ。
「後は、時折虫を食べていることもありました。なにせ雑食ですからね…この日も蝶を口にしておりました」
「あ、ああ…そうですか…」
そうだ、世界はそうやって巡り巡っているのである。
「それってどんな蝶だったか分かります?」
葵の問い掛けに、紅藍は首を傾げる。
「私は見たことのない種類のものでした」
「はっきりおっしゃるんですね」
「ええ。あんな蝶、一度見たら忘れることはないですから」
「と、申しますと?」
「食べられるにはもったいないほど、美しい蝶でしたので」
(ふーん)
葵は適当に相槌を打っておく。さほど虫には興味がない。代わりに葵が興味を示すものと言えば。
「少し話が逸れますが、ここ、すごくいい香りがしますね」
葵は鼻をスンスンさせる。白檀の香りを基調とした、甘い香りがする。いくつか香を掛け合わせているのだろう。
「でしょう?主上直々に頂戴した、李春さまだけの香りなのです。四夫人それぞれ香りが異なるんです」
楊怜は先ほどよりも少し頬を緩ませる。
葵が妓楼にいた頃、御客の位が上がれば上がるほど、上品な香の香りがしていた。
蝶天閣も、最高級の妓楼を名乗るだけあって、香はそれなりのものを使っていた。
そうしているうちに、葵もいつの間にか香に関してはかなり鋭くなり、自身の香も自ら調合するようになった。
今ではすっかり、趣味の一部である。
「使用されるのは、この宮の中だけということですか?」
葵が尋ねると、楊怜は首を少しだけ横に振る。
「いいえ、李春さまのお召しになられる衣装はすべて、この香にかぶせております。先日の宴の時もそうでした」
(先日の宴?ああ、そういえば)
葵が宴の時のことを楊怜に尋ねようとしたその時、李春妃の部屋から奇声が上がる。
駆け出した楊怜に続き、葵も李春妃の部屋に入る。少々失礼に値するが、今は気にしないことにする。
「どうされました、李春さま!」
楊怜が慌てて駆け寄るも、李春妃は泡を吹く寸前のような表情をしている。
「あれが、あれがいるのよ!いや、いや、来ないでえーー!」
髪をかき乱し、暴れ回っている。これが、狂乱というものだろうか。
「落ち着いてくださいませ!」
楊怜が必死になだめる。
背後に付いている侍女たちは、変貌した李春妃を見て、呆然としている。明らか、手を震わせる者もいる。
「あなたたち!何をぼさっとしているの!早く水を手拭いを!」
楊怜に叱咤され、ようやく我に返った侍女たちは、パタパタと動き出す。
李春妃が一体何を怯えているのか。葵は注意深く辺りを見渡す。
すると、楊怜と目を合わせていない李春妃が見つめる先が、とある一点に定まっていることに気付く。
(なんだ?)
葵がその視線の先を追い、そっとその場所に近づくと、先日庭で見かけた蝶が止まっていた。
「これですか?」
葵が李春妃をなるべく刺激しないよう、優しく、でもはっきりと尋ねる。
「そ、それが、ずっとずっと襲ってくるの!眠るときまで…もういや!」
李春妃は泣きじゃくっている。それを必死に侍女が数人がかりでなだめる。
蝶を追い払うように葵が手を仰ぐと、蝶は窓辺へと向かう。飛んだ時はまた一際暴れ出した李春妃だが、出て行ったのを見届けると、人が変わったようにおとなしくなった。
まるで魂が抜けたように床に座り込む李春妃には、妃としての威厳はない。
先日、宴で見かけた時のような華々しさはなく、すっかり衰弱しきっている。
「楊怜さま。李春妃はお食事をきちんと取られているのでしょうか?後、睡眠はきっちりとられていますか?」
葵の淡々とした問いに、楊怜は苦悶の表情を浮かべる。
「もしかして、李春妃はこの頃よく眠れていらっしゃらなかったのでは?目の下の隈が濃いですね。しかもそれは、愛玩動物の鳥が亡くなられるよりも前から続いているのではありませんか?」
葵のその言葉がとどめとなったのか、楊怜は重い口を開く。
「実は…、先日の宴で先ほどのような蝶が李春さまを襲ったのです。李春さまは幼い頃に蝶に執拗に追い回された記憶から、虫が飛んだ時などに過剰に反応し、時に発作を起こしてしまうのです」
「つまり、宴での騒ぎは、お腹の御子が胎を蹴ったからではなく、蝶に驚いた李春妃がパニックを起こしたから、ということでお間違いないですか」
楊怜は返事を返す代わりに、顔を俯かせる。
それを言い出せなかったのは、李春妃が恐れているものが外に知られてしまった場合、逆に李春妃に嫌がらせを仕掛ける者が増えてしまうことを懸念したからだろう。
だが。
「楊怜さま。言い出せなかったのは、よくわかります。しかし、今の李春妃は身重です。食事もろくにとらず、睡眠不足が続いていては、お腹の御子にも悪影響です。」
「分かっています」
楊怜は涙目になって答える。そんなことは侍女頭が一番分かっているだろう。彼女が一番悔しいに違いない。
「こちらに医官を寄こしましょう。このままでは御子どころか、李春妃も危ういです」
葵はさっと身を翻すと、李春妃の宮を後にした。




