20 間諜
短いです。すみません。
本来、皇族というものは独自の諜報員を持っている。
自身の命を狙う者、謀反を起こそうとする者。負の力を炙り出すためだ。
その諜報員は、互いに正体を知っている者もいれば、全く知らずにいる者もいる。あくまで表向きは、文官、武官、宦官、下女にいたるまで、様々なありふれた官職に就いている。
そして、彼らが互いの主のことをわざわざ口にしなければならない時には、主の裏の名を語る。
そう、その諜報員の一人である、私「葵」の主が、「紫水」こと、東宮であるように。
○○○
「お前、「葵」だろ?」
暁笙が振り返って、葵を見る。
葵よりも一寸ほど高いので、必然的に見下げられる形になる。そうなると、威圧感も増しましである。
(こわ)
葵は自然にそう思った。
暁笙とて、紫水の部下だ。<葵>であることを明かしたところで特に支障はないかもしれない。むしろ好都合な可能性もある。
だが、もしも誰かの耳に入ったりでもすれば、公には活動できなくなる。それは避けたい。避けなければならない。
「私は紅藍です」
嘘ではない。現に、今の「葵」は女官「紅藍」として後宮で活動している。暁笙は、「紅藍」が紫水の部下であることを知っている。
なにも「葵」であることを知る必要はない。
暁笙は何か言いたげな、でも何も言うことが思いつかない、といった表情で葵を見つめる。
こうして真正面から顔を見るのは初めてだ。横顔からだけでは気付かなかったが、目鼻立ちも整っているし、均整の取れた体格をしている。
丹華が居れば、キャッキャッとはしゃぎそうだ。葵は思わず破顔する。
「お前、、」
暁笙が口を開きかけた時、向かい側の廊下から騒がしい音がする。
暁笙が振り返ると共に、廊下の角から姿を現した官吏たちは、慌てた様子で暁笙に走り寄る。
「暁笙医官!すぐに来てくれ。緊急事態だ」
葵がその要件を聞く間もなく、暁笙は半ば強引に連れ去られる。状況は全く読めないが、慌てているのは見て取れる。よほどの案件のようだ。
(重症の患者だろうか)
葵は暁笙が連れ去られた方向をチラチラ気にしつつ、宿舎へと足を向ける。
すると、庭を舞っていた美しい、黒地に白の斑点模様の蝶が目に入る。蝶を見て思い出すことと言えば。
(蝶天閣の皆は元気かなあ)
あれから椿峰からの連絡も待っているが、なかなか来ない。「葵」という最上級妓女がさっさと消えてしまったことから、女主を含め、禿の教育を急いでいるのかもしれない。
そんなことを考えていると、足を貧乏ゆすりしながら柱に寄りかかっている紫水を見つける。
何やら忙しない様子だ。
(これはまたもや厄介な案件か?)
桃林妃の件については、まだ調べ始めたところだ。そうすぐに見つかることはないだろう。
そう考えると、また別の案件かもしれない。
(そろそろ頭がこんがらがりそうなんだけどね)
葵は関わりたくないな、と思いつつ、紫水に近づく。
紫水と視線が交わる。葵は拱手をする。
視線を上げると、待ってました、と言わんばかりの表情をする。
(ああ、やっぱり)
葵は厄介なことに首を突っ込んでしまう自分の性を少しだけ責めたくなった。
「どうされました?」
葵は低い声で尋ねる。東宮は少しだけ険しい顔つきで口を開く。
「やはりお前を俺付きの侍女にしようと思う」
「はい?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまう。軽く咳ばらいをして、営業微笑を浮かべる。
「どういう意味でしょう?」
葵のあまりの作り笑いに、東宮は少し引きつった顔をする。
「あまりにも調べて欲しいことが多すぎる。それぞれの妃の宮に回ってもらわねばならなくなったし。後宮の宦官長の侍女という立場も考えたが、今は少し…」
そう言って東宮は言葉を濁す。今の宦官長は、確かに色んな意味で避けた方がいい気がする。
「わざわざそんなことをおっしゃるということは、またどこかのお妃様の調子が悪いのですね?それを早急に解決せよ、との命ということでお間違いないでしょうか?」
葵はなんだか悔しいような気分になって、東宮の考えを東宮よりも先に述べる。一方の東宮はというと、葵の言うことが図星だったのか、面食らったような表情をしている。
「ああ、その通りだ。調子が悪い、というわけではないが、なにやら不穏だと騒いでいるようでな。俺の侍女に物知りで変わったやつがいる、ということにしていれば、差し支えはないだろう。妃の方にも話は既に通してある」
当人がいないところで勝手に決めるな!と叫びたいところだが、この男に命ぜられれば、どんなことでも断ることは許されない。そういう立場の人間に、葵は仕えているのだ。
「承知いたしました。で、どちらのお妃様の宮に?」
東宮の周囲が何やら騒がしくなってきている。近くにいる、普段落ち着きを忘れない政征でさえも、そわそわと周りを異常に気にしている。
(刑部の官の一件があったからか?)
東宮の身の回りの警備は、より一層強化されている。既に元服した皇族男子は帝をおいて、この男以外にはいないからだ。
葵は周囲の空気感から、早めに話を切り上げるべきだと悟った。
「お前に行ってもらいたい宮はだな…」
東宮は一息つくと、真っ直ぐに葵を見つめて答えた。
「右丞相の娘、李春妃だ。」




