超長編小説 読む人を選ぶのか 読む人を育てるのか
情報のインプットではない読書の話です。
世界各国に長編小説や巨大短編集がある。自分はあまり長編は読んでいない。三国志演義もアラビアンナイトも源氏物語も全部は読んでいない。ロシアの文豪が書いた大長編とか手に取ることもない。
内容がどうこうではない。登場人物や背景や事件を覚えきれないから。何日か間を置くとすっかり忘れる。
なろうにも長編や超長編小説が数多くある。適度に間を置いて読み直すと新鮮に感じるほどに忘れている。
大学の専門課程で自分の才能がないことを自覚したのもこの記憶力のなさ。ゼミ程度では教師だけでなく学生も何も見ないで課題と証明を黒板に書き続けるのが当たり前の人々ばかりだった。用語の定義を聞かれてあたふたしていた自分には無理だと思った。
そんな自分が、投稿回数が一千回を超える作品やPDF変換したら一万ページを超える作品を読むことができる様になってきた。記憶力が良くなったとは思わないので、脳に焼き付いたのかも知れない。頭ではなく体が覚えたともいう。
長編が読める様な人ではなかったのだから、育てられたという表現が合うと思う。
きっと文の長さ以外にもそういう現象があるのかも知れない。
素振り千回と読書百遍は通じるのかが課題
(追記)話題の対話型人工知能利用の記事を読むと、若年層では一般に長編に限らず断片だけでわかったつもりになれるものを好み、精読しないと理解できないものは敬遠するみたいですね。書く場合も断片で。内容の正しい理解に興味は無く、他人と話が合わないのも気にしない。外向けの「仕事をしているフリ」を重視する。長編や長文は厳しいみたい。【2023.4.26】