【六】残照
遠くで誰かが走り去る足音が聞こえた。
小八郎が振り向く。
「見届け役か。――追っても無駄かな」
文十は無言だ。どこか、遥かな遠くを見ている。
「まあ、追手を出してもすぐには来れまいよ。ずらかる時間はかせげる」
「追われているのか」
佐々木が鞘袋の紐を結びながら言った。
事情をかいつまんで話した。
「それは難儀だったな。それじゃあ利吉とやらは――」
小八郎が横を向いた。
「その辺の藪の中じゃねえですかね」
そうか、と言って佐々木が口を結んだ。
「で、お主たち。その子をどうするか、宛てはあるのか」
小八郎が皮肉そうに口を曲げた。
「あったらこんな苦労はしてやせんよ」
そうだな、と言って佐々木が微笑した。
「よかったらその子、与一か。俺が預かろうか」小八郎が驚いたように顔を見る。
「お武家さん、宛てがあるのかい」
「佐倉の寺には知り合いもいる。いくつかに声をかければ引き取ってくれる先もあるだろう」
佐々木が手を出した。
「そいつは助かる。おめえもいいよな」
文十が小さく頷いた。小八郎が与一を佐々木の腕に委ねた。
「やれやれ、やっと身軽になったぜ。まだ追われる身だしな」小八郎が肩を回した。
「――なんにせよ『名張の小八郎』の名前は捨てたほうがいいんじゃねえですかね」
文十が初めて口を開いた。横に動いた小八郎の眼が燿った。
「知ってたのかい」
三度笠がわずかに動く。
「足の運びが素人じゃねえことは最初から察しておりやしたよ。立ち回りを見て江戸の触書にあったのを思い出したんで。盗賊・野衾の一味、でしたかね」
「物覚えがいいんだな」
半眼になってにやりと笑う。
「人の噂では義賊だとか聞きやしたぜ。阿漕な大店を狙って蔵を破っては貧乏長屋に小判を撒いて回るとか。――道理で道中の金に困ってねえはずで」
小八郎があさっての方を向いた。
「法目の仁兵衛は西で国に入った抜け荷の品を、舟で北へ送るための中継ぎをしていやがんのさ。そもそもあの賭場にいたのも耳に入る話を聞くためでね。手を汚さねえでその金を吸い上げて貯め込んでる野郎がいるわけよ。盆にちょっかい出す気はなかったんだが、連中がけちな真似をしやがるんでついやっちまったおかげでこのザマさ」
「当たりは付いているんでござんすね」
「まあな」口を曲げた。
佐々木を見やる。残史郎の腕から風車を抜き、骸の袖口で血糊を拭きとった。
「そうだな――与一坊の名をもじって弥七、とでも名乗るか」
手の中でくるくると風車を弄んだ。
「いいんじゃねえですかね」文十が小八郎――弥七の手元を見つめた。
「風車の弥七、だな」佐々木がかすかに笑う。
「それじゃ、あっしはこれで」
文十が合羽を翻し、二人に背を向けた。
よう、と弥七が声をかける。
足を止めた。
「おめえとの道中、なかなか面白かったぜ。この子もいつか思い出すことがあるかもしれねえな」
文十が横顔を向けた。佐々木はふと、誰かに似ている、と思ったが誰だか思い出せなかった。
視線が遥かな遠くを見つめていた。夕陽が男の顔を紅く染めた。
「その子にとっちゃ、あっしもおめえさんも、吹いていく風や暮れていく夕陽のようなもんでござんすよ。思い出すことなんざありやせんぜ。――御免なすって」
背を向けて歩き出した。後ろ姿がみるみるうちに遠くなる。
「ちっ。――最後まで食えねえ野郎だぜ」弥七が片眉を上げた。
「難儀な生き方だな、渡世人というのも」
もぞもぞと動く与一を腕の中で揺らしながら佐々木がつぶやいた。
「お武家さんにゃあ、わかりゃあしませんよ」
「お主にはわかるのか」
「なんとなく、ですがね。どこまでも独り、なんですよ、あ奴は」
そんなものかな、と言って緑の中に消えた背中の方を見やった。
「ときに弥七とやら、お主、行く宛てがないのなら水戸へ来んか」
弥七がちらっと佐々木の顔を見る。
「こんな盗賊くずれの風来坊、何に使うんで」
佐々木がふっと笑う。
「役に立ちそうな者は大歓迎だ。きっとうちのご老公が気に入られると思うぞ」
「ご老公? 水戸の? ――まさか、黄門様だとか言わねえでしょうね」
「そのまさかだ」
弥七がははっと笑った。
「冗談はよしてくれ。畏れ多いにも程があらあ」
「気にするような方ではない。会ってみて損はないぞ」
「――そう言えば、助けてもらっておいて、まだお名前も聞いておりやせんでしたね」
「佐々木だ。佐々木助三郎宗淳。水戸へ来たら俺に呼ばれた、と言ってくれれば話が通るようにしておく」
それはともかく、と言ってじろりと弥七を見た
「江戸表のことは俺の知ったことではない。が、抜け荷の北回しとやらの話、もし真なら聞き流すわけにはいかんな。ちょっと詳しく――」
弥七が地を蹴った。
木の幹でひと跳ねすると瞬く間に二間も高い梢の上にいた。
巨大な鴉のように屈んで佐々木を見下ろす。
「悪いが、そいつは勘弁してもらうぜ。佐々木助三郎さんとやら、水戸の件は考えておきやすよ。――与一坊のこと、頼みましたぜ」
枝から跳ね上がると、あっという間に緑の中に姿を消した。
呆気にとられたまま、佐々木は上を向いていた。
※
赤ん坊を連れて現れた佐々木を見て、お文は目を丸くした。
「えらく待たせたと思ったら、どこでそんなもん拵えてきたのやら」
まあ、いろいろあってな、と言って佐々木は茶屋の床几に腰をおろした。
ひとわたり説明した。
「それじゃあ、その二人が赤ん坊をわざわざ佐倉まで? 何の義理もないのに?」
「そういうことになるな」
言ってから佐々木ははたと気づいた。お文の顔をしげしげと見る。
「な、なんだい」肩を狭くする。
「そういえば片方の渡世人、お前さんに顔が似ていたな。――そっくりだ」
お文の顔がすっと蒼ざめた。
「――うそ」
「俺が嘘をついてどうする。雰囲気は全然違うが、顔は同じに見えるな」
お文が道の方を見やった。
「その人、名前は――まさか、ぶ」
「あ、名前か。そういえば訊きそびれたな」
お文がぱっと立ち上がって、店の外へ出た。
道の彼方に目をやる。
あそこへ行くには、この道しかない。
通ったんだ、あたしの知らないうちに。
もしも、この道で待っていたら。
待っていたら。
お文の頬を涙が一筋伝った。
――お兄ちゃん。
与一を抱いた佐々木が傍に立った。
お文の顔を見つめてから、同じように道の彼方を見た。
――道理を外れた双子の最期なんてもなあ、所詮こんなもんなんでござんすかね。
男の呟いた言葉を思い出した。
「追ってみるか?」佐々木が訊く。
お文の口が少し開いた。顔は動かない。
追いたい。追いかけたい。
でも。
お文は小さく首を振って、袖で涙を拭った。
「ううん。たぶん、勘違いだよ。あたしの」
そうか、と言って佐々木は黙った。
「その子、少し抱かせて」
出されたお文の手に与一を渡す。
あのひとに、抱かれていた子。
ゆらゆらと腕の中で揺らす。
小さな声で唄い出す。
ねんねん、ぼうやも、ねんねんよ。
きのうも、あしたも、繰り返し。
痛くて、泣いたも、もう昨日。
子守唄が春風に散る。日が暮れていく。
道の向こうに目をやった。
思いが届くかのように。
文十はふと足を止め、道の真ん中で振り返った。
誰かに呼び止められたように。
周囲から押し包むような緑の壁。誰の姿も道にはない。
再び来た道に背を向け、歩き出す。
孤影は低い山の緑に徐々に見えなくなっていき、やがて溶けるように、消えた。
※
記録によればこの年、法目の仁兵衛は博徒との諍いにより客死した、とある。
また別の記録には同年、成田の商家・大杉屋に盗賊ありて金子千両を奪わるが、見分に際し御禁制の品取扱いのかどが露見、主大杉屋喜左衛門は家財闕所の上処払いとなった、とある。
身代を失った喜左衛門は自害したという。
文十なる渡世人にいかなる関わりがあったかは、定かでない。
(了)