【五】剣戟
街並みの黒い瓦屋根が晩春の陽光を照り返している。
狩野屋は街の中心からややはずれた位置に店を構えていた。
数人の客が出入りしている。地方としては大きめの店構えだ。
「あれだ」
太りじしの柵二が先に看板を見つけた。
「ごめんくださいやし」
腰を屈めた弓造が、大暖簾の外で客を送り出したばかりの下足番に声をかける。
「手代の利吉さんはおいででやすか」
きしんだ音を立てて裏木戸が開き、紺色の前掛けをしたまだ若い男の顔が覗いた。
弓造が頭を下げる。
「……どちら様で?」怪訝な表情だ。
「あっしは太田のお仙さんから、佐倉に行くなら、ということで使いを頼まれた弓造と申しやす」
「え! お仙の?」驚いた顔になる。「お仙――お仙は元気ですか!?」
弓造がへえ、それはもう、と言いながら愛想笑いをした。
「つきましては、お仙さんと関わりのある大事な人がですね、利吉さんに直接お渡ししたいものがある、ということで別の場所におられるんでございやすよ」
少し不審気だ。
「関わりの方……どうしてその方が直接お見えにならないので?」
弓造が少し顔を寄せる。
「女子さんで、しかも乳飲み子を連れてらっしゃってるんですよ」
利吉の顔が蒼ざめた。
「ど、どちらへ伺えば。い、一応店にも言っておかないとなりませんので」
「へい、寺崎の鎮守様まで、とおっしゃっていただければよろしいかと」
雑木林の間の道を抜け、弓造、利吉、柵二の順で歩いていく。
小道に逸れ、竹林に囲まれた緩い上り坂を上がって行くと、開けた場所に出た。竹林が切れ、再び雑木林が眼前に広がる。
奥にある小さな社が目に入った。
弓造が利吉の方を向いて社を指さした。
「あちらの裏側で」
利吉が小走りになり、弓造を置いて社を目指した。
弓造と柵二が立ち止まる。
社の陰に利吉の姿が消えると、うっ、と言うくぐもった声が聞こえた。
柵二がにやりと笑う。
社の背後から残史郎がゆっくりと姿を現した。
抜いた刀をびゅん、と一振りすると鞘に納めた。澄んだ音が春の林に吸い込まれる。
弓造と柵二が近づいた。残史郎が顎をしゃくる。
「森の中に放り込んでおけ」
へい、と二人が腰を屈める。
「――これであとはここで待っていれば向こうから足を運んでくれるという寸法だ」
残史郎が反対側に歩き出す。
「先生、どちらへ?」弓造が振り向いた。
「連中が来るにはまだ時間がある。茶屋で饅頭を食ってくる」
弓造と柵二が顔を見合わせる。残史郎は振り向かない。
「血を見ると甘いものが食いたくなる性分でな」
※
「――出かけた?」
小八郎の眉が寄った。
「へえ……もう半刻以上になりますんで、手前もちょっと気になってはいるのですが、何分店が手一杯なもので」
対応に出た番頭らしき髪の薄い男が弱ったように言った。
小八郎はちらと与一を抱いた文十の顔を見た。
「気になりやすね」
番頭に向き直る。
「寺崎の鎮守様ってえのはどちらですかね」
※
丘を越えると眼下に瓦屋根が並ぶ風景が広がる。
「へえ、大きな街なんだね」
お文が声を上げる。
「堀田十万石。成田街道の要衝だ。人口も多い。――佐倉は初めてなのか?」
まあね、とお文が言った。
「割と狭いとこウロウロしてた人生だからね。佐々木さんは水戸の人の割にあちこち詳しいね」
「国学、と言ってもわからんか」少し笑った。「日本の国内のことをあれこれ調べるのも仕事のうちでな。それにかつて僧籍だったこともあって、近在の事情には多少通じているのさ」
お文が驚いた顔になった。
「そーせき、って僧――お坊さんだったの? お侍さんって、お坊さんになったりまたお侍になったりできるもんなの?」
「まあな。そんなにころころは変われんよ」はっはっはと笑った。
桑染の着流し姿の浪人が二人の脇をすれ違った。
佐々木の鼻がぴくっと動く。
笑い顔が凍り付いた。
かすかな血の匂い。
数歩進んでから立ち止まる。目だけが横を向いた。お文がつんのめる様に止まった。
(こ奴、人を斬ってきたな)
浪人の背中から放たれるわずかな殺気を感じとっていた。
(まだ、斬る気だ。……辻斬りか? いずれにせよ、こ奴を放っておくわけにはいかんな)
「どしたの?」
お文がきょとんとした顔で覗きこんだ。慌てて我に返る。
「あ、いや。えーと……。すまんが、ちょっと寄り道をしたくなった。付いてきてくれんか」
「え? ああ、まあ、いいよ」
女連れの方が気取られない。二人は距離を取って浪人と同じ方向へ歩き出した。
陽が傾き始めていた。
視界に捉えられるかどうかまで距離を開けた。
腕の程度は知れなかったが、警戒するに越したことはない。
佐々木は黙って歩いた。
お文はそんな佐々木の変化を感じ取ったのか。黙って横を歩いていた。
半刻弱程が過ぎた。
浪人が脇道に逸れるのが見える。地形からして上り坂と見た。
佐々木が立ち止まる。
「たびたびで済まんが、来た道を戻ってさっきの場所から少し先に茶屋があるはずだから、そこまで行って待っていてくれんか」
えー、と口を開けかけたお文だったが、佐々木の気配に渋々頷いて、元来た道を戻り始めた。
しばらくの間、その背中を見送ってから道へ向き直った。
一里ほどを行って戻ったせいで少々疲れた。
板葺き屋根の茶屋が見える。手拭いのような看板が風に揺れていた。
(まあ、お侍のことだ。いろいろあるんだろうね。――お団子でも食べるか)
葦簀の張られた入り口を入り、奥の床几に腰かけて入り口に背を向けた。
その背後を、与一を抱いた小八郎と文十が足早に通り過ぎて行った。
「この上みてえだな」
小八郎が脇道の上を見上げた。歩き出す。文十が後に続いた。
道を登り切って広い場所に出る。
中ほどまで来たところで、文十がすすっと小八郎の前に出た。
「――どうやら、お出迎えがいらっしゃるようですぜ」
低く、息を吐くようにつぶやいた。
社の脇から二人の浪人がふらりと現れた。
同じ色の着物。同じ髪型。そして、同じ顔。
ゆっくりと二人に近づいてくる。
「なるほど、子連れだ。文十とやらはお前か」
文十は無表情だ。
「仁兵衛の差し金かい。侍まで雇うとはよっぽど後ろ暗えところがあるってこったな」
小八郎が睨んだ。与一の寝間着に挿した風車を抜いて懐に仕舞った。
「双子の人斬り兄弟。聞いたことがありやすね。おめえさんがたのことなんでしょうね」
文十は構えない。
二人が同時に、まったく同じ動作、同じ呼吸で刀を抜いた。白刃が木漏れ日を照り返す。
「ちょっと待った」
浪人の背後から声がした。森の中から佐々木が現れる。鞘袋の紐を解いた。柄が覗く。
「迂闊だな残。――尾けられたか」京之助が目だけ動かした。残史郎が口の端を曲げた。
「いや、街はずれから付いてきていた。片付けるならまとめてやった方が手間がかからんと思ってな」
やはり気づかれていたか。
佐々木が鯉口を切った。
「御城下での抜刀はご法度だが、そんなことが通じる輩じゃなさそうだな」
残史郎がにやりと笑った。
「抜かなければお主が死ぬまでのことだ。もっとも、抜いても結果は変わらんが」
「それは――どうかな」
佐々木が横へ奔った。
兄弟が縦に移動し、背中合わせになる。左右対称に下段の構え。映し鏡のようだ。
文十が横に跳ぶ。射線から佐々木を外し、振りかぶった右手から二条の光が走る。
鋭い金属音がして、手裏剣が弾かれた。
残史郎が踏み込んで下から斬り上げる。合羽を翻してそれを弾くと文十も長脇差を抜いた。
佐々木が柄に手を掛け、間合いを測るようにじりじりと京之助に近づいた。
下段に構えた京之助がつっと前に出る。佐々木が柄を握った瞬間、京之助と残史郎がくるりと入れ替わった。
「なにっ!?」
残史郎が上から斬りおろす。佐々木の抜刀が速い。刃がぶつかって火花が散る。
佐々木の剣が水平に走る。残史郎が逆手で受ける、と同時に入れ替わった京之助が下から斬り上げてきた。とっさに跳び下がる。
(なんだ?――この太刀筋は)
「抜刀術か。少しは出来るようだな」京之助が黄ばんだ歯を見せた。「鬼哭の剣、見事躱して見せるか」
「邪剣・鬼哭流? とうに滅びたと聞いていたがな」
「そう。俺たちが、最後の伝承者よ」
残史郎が文十に上から斬り降ろす。合羽を閃かせて躱しながら長脇差を水平に薙いだ。逆手で躱される。
身を返して死角から手裏剣を放つ。再び弾かれた。不意打ちの技は構えた剣客には通じない。ちっと舌打ちした。
小八郎が与一を抱いているので、無防備に曝すわけにはいかない。合羽を翻らせて前に出る。陰から長脇差を突き出す。右に弾かれたと同時にまた二人が入れ替わる。速い。
京之助が下から文十を、残史郎が上から佐々木を斬りつける。文十がかろうじて躱す。佐々木が剣で受ける。
所詮文十の剣は野良犬剣法だ。構えも流れもない。剣の達人に通じるはずもなかった。文十にできるのは目晦ましだけだ。
斬り上げた京之助の切っ先が三度笠を割る。合羽を跳ね上げて右、入れ替わった残史郎の篭手が文十の肩をかすった。穿痛が走る。
「つっ!」
利き腕だ。まずい。
「替われ!」
小八郎が横に並ぶと、文十に与一を押し付けた。慌てて左手で抱く。
「下がれ!」
文十が跳び下がる。小八郎が懐から何かを掴むと地面に叩きつけた。
ばあん、と音がして煙が視界に広がった。
「むうっ!」残史郎と京之助が同時に散る。煙の中から何かが閃いた。残史郎がかろうじて弾く。二発、三発。弾いた金属が欅の幹に突き刺さる。
十字手裏剣だ。
「応!」
京之助が水平に薙ぐ。小八郎が二回背後にとんぼを切って躱した。降り立った時にはすでに匕首を抜いている。
残史郎がくっくっく、と笑った。
「ただの遊び人かと思えば伊賀者とか。少しは遊ばせてくれるのう兄者」
「全くだ。いい暇つぶしよ」
京之助が下段に構えた。
来る。
下から踏み込み。匕首が弾く。佐々木が左へ動いて抜刀する。残史郎が逆手で受けると同時にまた京之助が上から。残史郎は小八郎に斬り降ろす。くるっと回って躱す。
速い。二人が三人いるかのような速さだ。
(影分身――お目にかかるのは初めてだぜ)
小八郎が側転、降り立ちざまに手裏剣。残史郎が弾く。
「無駄だ」
手裏剣が尽きた。匕首を逆手に構えたままじりじりと下がる。
文十は与一を地面に置いて、手拭いで素早く肩口を縛る。与一を抱き上げて小八郎の背後へ回る。
奴らは速い。同時に動きを止めるしか勝機はない。
どうすれば。
文十の眼が左右に動く。佐々木も動きを止めた。
小八郎の懐に目が行く。
あれだ。気づくか。
右肩を見る。血が滲んでいる。利き腕の勝負は一度きりだ。――賭けるしかない。
「小八郎! 風車!」
叫んで、与一を思い切り空中へ放り投げた。
残史郎と京之助の眼が一瞬上を向く。
咄嗟に小八郎が懐に手。放たれた風車が残史郎の二の腕に突き刺さった。
「ぬ!」
からからと風車が回る。
小八郎が与一を受け止める前に文十が奔る。残史郎が刀を返す前に長脇差が脇腹を抉った。
「がっ!」
すり抜けざま、長脇差を後ろに突きだす。合羽ごと残史郎が芋刺しになった。
「ぐはッ!」
動きが止まる。
「残!」京之助の目が泳ぐ。
佐々木が踏み込む。
「隙ありっ!」
抜刀する。京之助の動きが一瞬遅れた。すれ違いざま右脇腹から斜め上に斬り上げる。
「ぐぬッ!」一瞬固まった。が、素早く振り向いて刀を持ち上げる。くるりと回った佐々木の剣が京之助の顔を断ち割った。
時間が止まった。
「抜刀術・水月」
佐々木が息を吐く。文十が長脇差を引っこ抜いた。
残史郎と京之助が同時に、ゆっくりと頽れる。
文十が長脇差を下げたまま立ち尽くす。
「――道理を外れた双子の最期なんてもなあ、所詮こんなもんなんでござんすかね」
誰に言うともなく言った。与一を抱いた小八郎が文十の顔を見る。
自分に言い聞かせているようにも見えた。