【二】道行
荒々しく板戸が開かれた。
雨と風の音が同時に入ってくる。
近くに響く雷の音。閃光。
男の影が二つ、大股に踏み込んできた。
少年ががばっと身体を起こす。
下になっていた少女も身体を浮かせて慌てて前をかき合わせた。
「――こ・の・餓鬼ぃ!」
男のむき出しの腕が少年の首をわし掴む。そのまま引きはがすように持ち上げ、薄い板の壁に力いっぱい叩きつけた。壁があっさりと破れ、少年は雨の中に放り出された。
男が大股で近づき、少年のあらわになった腹を蹴り上げた。くぐもったうめき声を上げて、雨が打ち付ける土の上を転がった。たちまち泥まみれになる。
「お兄ちゃん!」
少女が叫ぶ。
もう一人の男が少女の胸ぐらを掴んだ。
「お前も来い!」
「いやあ! お兄ちゃん!」
男が少女の頬を張った。悲鳴が響く。少女が倒れ込む。
「おふみい!」
腕で上体を支えて起き上がろうとした少年の顔を男が蹴った。水溜りの中に落ちた顔を男が踏みつけた。何度も、何度も。
胸ぐらを掴んで立たされ、殴られ、蹴られた。首を前から掴まれ、地面に頭を何度も叩きつけられた。
意識が遠ざかる。
少年は朦朧としながら、薄く目を開けた。
暗い。
壁の隙間から外の光が漏れてくる。手を動かそうとした。動かない。背中で縛られている。足もだ。
体中がじんじんと重く痺れていた。
何人に、何回殴られたか、もう覚えていない。
男たちがかわるがわる納屋に入って来ては少年を殴り、蹴って行った。
すでに声も出ない。
痛みすら、もう感じていなかった。
殴られるたび、鈍い響きが体の中でするだけだ。
――何日経ったのだろう。
ぼんやりと思う。
夜も昼もなく、殴られ、蹴られ続け、考える力はもう無かった。
がたつく音を立てて扉が開く。二人の何者かの影がぼんやりと黒く目に映る。
一人が入って来て、少年の腹を蹴った。
力なくうめく。
「よし、まだ生きていやがんな。後は面倒だからいいべ」
もう一人があはあはと笑った。
扉が閉まる。
向こう側の話し声が、少年の耳に届く。
「小吉の従兄弟が口入屋に伝手があるつうから頼んだだ」
「おう、売れたっぺか」
「年季奉公つう態だが、実際は米一俵と引き換えだ」
「いい値だべな」
「アマっ娘一匹だ、そんなもんだっぺや」
笑い声を遠くで聞きながら、気を失った。
再び闇の中で目を開いた。
どれ程かもわからない時間が過ぎていた。
彼女は、もういない。
もういない。
少年の身体の奥底で、何かが燃え上がった。
目を見開く。動かないはずの身体を突き動かす何かがあった。
身体を捩る。膝をかがめ、背中の腕を回す。縄が尻を擦り、肌が傷んだが少年は歯を食いしばって耐えた。
身体の前へ腕が抜けた。
手首を口元へ。縄に歯を立てる。荒縄が水気と血を吸って重くなっている。
噛む。噛みしめる。藁がわずかずつ千切れていく。
必死に噛んだ。顎が痛む。歯が痛む。
舌が血を感じた。
それでも休まない。必死に口を動かす。永遠に続くかのような時間が過ぎていく。
切れた。
自由になった手で足元の縄を解き、よろめきながらそっと納屋の扉を開いた。
目だけをのぞかせ、次いで顔を出して周囲を窺う。
誰もいない。
男たちは野良にいる時間だ。
身体を引きずるようにして歩き出した。
裏山に向かう。緑の陰に身を隠すために。
心に誓った。
二度と、この地へは戻るまい。
※
大和田の宿は晴れていた。
幅五間程の道の両脇に、旅籠や煮売り屋などの店が並んでいる。行き交う人の足取りは皆軽く、忙し気だ。
夕方の気配が近い。
鳥追い笠をかぶった女の足が少し早くなった。
緋ちりめんの長袋に入った三味線が、女の動きに合わせて背中で小刻みに揺れる。
女の眼が三間程先から反対向きに歩いてくる商人風の若い男を捉えた。足が小走りになる。
商人の隣を荷物を積んだ大八車がゆっくりと追い越す。
女が大八車を避ける、顔が横を向いていた。商人に軽くぶつかる。
「おっと」商人が少しよろける。
「おや、御免なさいよ」
女が小腰をかがめて脇をすり抜けようとした。
「おおっと待った」
商人の斜め後ろにいた男が女の腕を掴んで胸元に持ち上げた。
――しまった! 連れか! 見損なった……。
「痛ててッ」女の顔が歪む。
掴まれた手から女の袖口に入りそこねた財布が地面に落ちた。
「このアマ、なめた真似してくれるじゃねえか」
もう一人の人相の悪い男が凄んだ。
――しかも二人連れとか。ドジ踏んだ……。
「旦那、こいつはあっしらがシメておきやすんでお先にどうぞ」悪相が商人の方を向いて言った。
「まあ、おだやかに頼むよ」
商人は落ちた財布を拾い上げると歩き去った。
「ちきしょう! 何しやがんでえ」
路地裏に連れ込まれた女が張り倒され、地面に腰を着く。
声を張り上げた女にもう一発張り手をくれた。板囲いの中に放されていた鶏がばたばたと暴れ、二三人の住民が遠巻きに眺めていた。
「今後つまんねえ了見起こさねえようにお仕置きしてやらあ」
男の一人が倒れた女に馬乗りになった。また一発。女が悲鳴を上げた。もう一発。
乱れた裾からこぼれた太腿が陽光に白く光る。
男が目をぎらつかせて裾に手を入れた。
「やめろッ! ちきしょうッ!」
手で防ごうとする女をもう一発はたいた。叫んだ女の顔が地面をこする。
「その辺にしておいたらどうだ」
澄んだ低い声が響く。
なにい、と吠えながら二人が振り向いた。
路地の入口に旅装束の武士が立っている。
小豆色の羽織に鼠の着物、藍色の袴に手甲脚絆、錦の鞘袋を二本腰に落としていた。
悪相が凄むように睨んだ。
「このアマぁ巾着切りだ、カタギじゃねえ。二本差しだからって四の五の言われる筋合いはねえぜ」
武士はどこ吹く風だ。
「やりすぎじゃないのかと言っているんだが」
悪相がなにおう、と凄んで武士の胸ぐらを取ろうとしたが武士の動きの方が早い。腕を掴んで捻りあげた。
「いててて、な、何しやがる」
女から離れたもう一人に向かって悪相を突き飛ばした。
二人が絡まって、積み上げられた桶の山に倒れ込んだ。うわあっと声が出る。見物人が散った。
「くそう、覚えてやがれ」
男たちがよろばいながら起き上がり、吐き捨てるように言うと走って逃げ出した。
武士は無表情にそれを見やると、女に近づいて腰をかがめた。
「大丈夫か」
女はぷいっと横を向いた。
「ほっといておくれよ」
武士が女の足元を見る。膝を擦りむいて血がにじんでいた。
「まあ、そうも行くまいよ」
懐から手拭いを取り出すと、手早く女の膝に巻いて軽く縛った。女は無言だが、なんとなく悔しそうな顔になった。
「立てるか?」手を差し出す。
女が無視して手を着いて立ち上がろうとする。
「へいき――あうッ」
よろけた。武士が肩を支える。地面に尻を落とした。
「足をくじいたな。――その身なりからしてこのあたりの者じゃなさそうだな。近くの旅籠まで連れてってやろう」
「いいよ――別に」女が横を向く。
武士の目が半分になった。
「その足では動けんぞ。ここで夜明かしするつもりか?」
女の唇がすぼまった。
「お侍さん、変わってるね、こんな女助けるなんて」
武士の背中におぶさった女がぼそりと言う。
「そうかな。俺は特に気にせんが。俺は佐々木だ、佐々木宗淳。お前さん、名は?」
「お文」
「どこから来たんだ」
「舟橋」
「なんでここまで来たんだ」
少し間があった。佐々木はお文を背負ったまま歩みを止めない。
「まあ、いろいろあってね」
声があさっての方を向いた。
一件の旅籠の暖簾をくぐった。
ちらっと壁側に目をやる。年季の入った長押に三枚の講札が掛かっている。小さいがしっかりした宿と見た。
黒光りする小上がりの上にゆっくりと女を降ろす。つ、と言ってお文が顔を歪めた。
お着きなせえやし、と声がして紺色の前掛けを締めた主と思しい初老の男が床に膝を着いた。
「行きがかりの者だが足をくじいたらしくてな、すまんが面倒を見てくれんか。金は払う」
佐々木が主に言うとお文がきっと顔を睨んだ。
「ちょいと、あたしゃ物乞いじゃないよ」
佐々木の眉が動いた。似たようなもんだろう、と思ったが言わなかった。
「ふむ。まあ、そうなんだが。――そう言われても困ったな」
顎に手をやった。
「お武家様もお泊りになっていかれたら。じき七つ半になりやすよ」
ふむ、と考えた。
「そうだなあ……。少し早いが、まあ慌てる旅でもないからそれも良いか」
そうなされませ、と言って主がお文ににじり寄った。
「どれちょっと足を見せてくだせえ。――おお、腫れてきてますな。これは痛うございましょう」
赤くなった足首に節くれた指先でわずかに触れるとお文が顔をしかめた。
「この宿に伝わる一夜膏という膏薬がごぜえます。よく効きますんでお試しになられませ」
「足を痛める客は多いのか」佐々木が訊く。
「結構おられますな。一の宿がここなんで無理をされて来るお客様もおられて。後は参詣からの帰り道ですなあ、足に疲れの出るお客様も多ございます」
手を叩いて家人を呼んだ。
「昔から足を痛めるお客様を扱ってきた関わりで、ここだけでなく膏薬だの薬湯だのが伝わる宿は結構ございますよ。まあ、よくあることでございますんでお任せくださいませ」
風呂に入ってから、膏薬を張ってもらった。
一夜で快癒するので一夜膏と言うのだという。
「――夫婦でもないのに相部屋ねえ」
畳にぺたりと座ったままお文がぼやいた。
「往来の客が多いので混雑すると見越したのだろう。別に俺は構わんが。――なにか差しさわりがあるのか」
窓辺に肘を着いた佐々木が言う。
お文は別に、と言って横を向いた。
風呂上がりの横顔を眺めた。年増のような斜っぱな態度が板についているが、よく見るとまだあどけなさが隅の方に残っている。
惚れた男がいるな、となんとなく思ったが口にはしなかった。
何かを諦めたような顔だ。
「佐々木さんはどちらへ?」ぽつりとお文が言った。
やけに素直な口調だったので少し驚いた。
「俺は水戸の家中なんでな、江戸の小石川で用を済ませ、佐倉の全勝寺に寄ってから水戸へ帰るつもりだ。お前さんはどこへ行くんだ?」
お文は天井を向いた。
「別に。――アテのない旅ですよ。とりあえずここから西以外のとこへ向かうつもり」
「江戸は嫌いなのか」
少し黙った。
「十四の時、奉公へ出されたの。半分売り飛ばされたようなもんなんだけど。あんまり戻りたくはないわね」
「どうやって店から出たんだ。明けたのか?」首を振った。
「三年務めたとこで店が火事で焼けちゃったんで、いい機会だから逃げちゃった。それからは宿無し」
「よく無事だったな」
皮肉そうな笑みを浮かべた。
「運がいいのか悪いのか、客に粗相したせいで折檻されたのさ。蔵に入れられてたおかげで助かったの」
「なるほど、そりゃ皮肉だ。それから流れ者か。よく鳥追いなんかになれたな」
「店のお内儀が芸事が好きな人でさ、三味線習ってたのが役に立ってね。後はご覧になった通り、あんまり褒められた生き方はしてこなかったけどね」
佐々木はふむ、とだけ言った。女ひとり。楽に生きてきたわけではないことは、その顔が物語っていた。
「まあ、夜鷹にならなかったのが奇跡かな。なんとなく流れてきたけど、生きてるだけでもめっけもんだと思わないと罰が当たる身分だよね」
自虐的な表情になる。
佐々木は少しの間、その顔を見つめた。
「――誰かを探しているのか」
わずかにぎょっとした顔で振り返った。感情を経験で抑え込んだような顔だ。
「なんでそう思うの」少し責めるような響きがあった。佐々木は顔を見ないようにした。
「なんとなくそんな気がしてな」
会話が途切れた。
半分開いた窓から、夕暮れ時のわずかな喧噪が流れ込んでくる。
遠い人々の声。
世間の中にいながら、世間と距離のある感覚。佐々木はそんな時間が好きだった。
あるいは、そんな自分を自覚するのが好きであるがゆえに、独りでいるのかも知れなかった。
「助けてもらったのに、お礼してないね」
お文がわずかに投げやりな口調で言った。
「お金はないけど、別のものならあるよ」
佐々木の顔を見て、指先で自分の襟元を軽く引っ張った。落とした手拭いを拾うような顔だった。佐々木はちらっと目をやっただけだ。
「俺は鼻が敏感なんだ。膏薬の匂いが気になってそんな気分にはならんよ。それに怪我してる女に手を出すほど不自由はしておらんしな」
お文がふっと笑った。少し悲し気な笑みだ。
いつからか、そんな微笑み方しかできなくなったのかも知れなかった。
「佐々木さん、独り身?」
ああ、と答えた。
「許嫁とかいないの? いいお歳なのに」からかうような口調ではなかった。
「いない。見合いをしろとしょっちゅううるさい爺ならいるが、俺はぶらぶらしてる方が性に合ってるのでな」
ふうん、と言って少し黙った。なぜかほっとした顔に見える。
――想い人はどんな男なのだろう。
なんとなく気になった佐々木だった。