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【一】邂逅

 秋の柔らかい陽光が破れた板屋根から差し込んで、干し草の山をまだらに照らしている。


 その光が浅葱色の袖から伸びた少女の白い腕を照らす。

 少女の細い指先が黄ばんだ糸を操るのを、少年は間近でじっと見つめていた。

「お兄ちゃん、ほら、川」

 少女が少年の顔を見つめながら指の間に渡された糸を少年に差し出す。

「お兄ちゃんの番」

 陽光の中で少女が微笑む。

 少年は目を少し細めるとゆっくりと両手を出し、糸ではなく、少女の両手を取った。

 澄んだ瞳をじっと見つめる。

「お兄ちゃん」

 微笑が消える。

 濡れた唇がかすかにわなないた。

 少年の真剣な表情がゆっくりと少女の顔に近づいていく。

「――俺たちは、双子だ。元々は、一人だったのに、二人になった」

 少女も真剣な表情になる。

「お互いの気持ちは、お互いが知ってる。だって俺たちは、ひとつだから」

 少女が少年の顔を見ながら頷いた。

「でも、この村では兄妹が通じてはいけないのよ」

 少女の唇が少し震えながら、言葉を発した。少年が頷く。

「それでも、俺たちは、お互いが、どうしたいか――知ってる」

 自分に言い聞かせるように言葉を切った。


 少し間があった。

 少年から目をはずさずに、頷いた。


 少年がゆっくりと顔を近づける。

 少女が目を閉じる。

 唇がかすかに触れ合い、やがてしっかりと重なり合う。


 ひとつに重なった二人の頭がたゆたうように揺らぐ。

 少女の白い腕が少年の首に巻き付く。

 糸が少女の手を離れて、草の上にはらりと落ちた。



 重なった影が、干し草の山に倒れ込んだ。



 ※



 分かれ道に差し掛かった。


 文十はふ、と立ち止まる。

 三度笠の縁を押し上げ、空を仰ぎ見た。

 杉木立の上、煌々と照る満月が中空にあった。そのせいで、山の中にもかかわらず道は昼のように明るい。路上に落ちた影が道を指し示すように縞模様を描いている。


 右は藻原寺、左は宮谷みやざくへ抜ける道に通じているはずだ。少し迷った。

 ――思ったより手間を食った、と文十は思った。

 いくら低いながらも山道とはいえ、四里で二刻強(約四時間半)は普段の文十なら考えられない遅さだ。


 原因は昨年秋に関東全域を直撃した台風による被害のせいだった。

 事に上総・下総・安房の被害は甚大で、多数の倒木や倒竹により地域の交通網は寸断され、暴風と豪雨により多くの家屋が倒壊した。


 交通の要所となる主だった街道筋には藩の手が入るため復旧は早いが、こうした裏道や間道は近隣の居住者数が多くないことから、復旧が後手に回ることが少なくなかった。

 近隣住民の主力は田畑に倒れ込んだ巨木や雑材、広範囲にわたって河川や集落排水に流れ込んだ塵の除去や家屋の復旧に割かれ、山間部の道の整備まで手が回らないためだった。

 年を越し、半年近く経ってもなおこうした場所の復旧ははかどっていない。


 おかげで文十は倒れている竹を避け、倒木を回り込み、時に迂回せざるを得なかったのである。


 宮谷へ向かえば回り道、藻原寺へ抜けるにもまだ一刻|(約二時間)はかかる。

 橘樹たちばな神社の上社と下社があるため人家は多少多いが、無宿の渡世人が寝泊まりできるような場所はかえって少なくなる。

 文十は記憶を手繰った。

 ――たしかこのあたりに絵馬堂があったはず。


 宮谷側に少し歩いた。道が下りになる。

 しばらく行くと場所が開け、奥に参道がある道を入る。

 木立が途切れ、広くなった場所にぽつんと小さな絵馬堂があった。

 年季が入って暗く変色した銅葺きの屋根が月光を反射して光っている。


 いくつもの絵馬が掛かった細い格子の扉を開けると、絵馬どうしがぶつかってからからと小さな音を立てた。

 文十は中の暗がりにもぐり込み、そっと扉を閉めた。

 きしむ板張りの床に道中合羽を敷き、振り分け荷物を並べた上に外した三度笠を重ねて枕にする。 

 長脇差ながどすを抱いて横になり、合羽を背中から巻くように重ねた。



 暫くまどろんだような気がした。


 闇の中でかっと眼を開く。獣の眠りだった。

 永い間に身に着いた習性だ。寝惚けるということはない。

 たとえ熟睡していたとしても、目覚めて反射的に動けるようになれない者には死あるのみだ。

 それが無宿人の人生だった。


 遠くから、複数の人間が走ってくるかすかな気配がする。


 音をたてずに素早く身体を起こして合羽を羽織り、長脇差ながどすを胸に持ったまま堂の扉に顔を近づけた。 

 足音はやがてはっきりと聞こえるようになり、絵馬堂の前の広場に紺色の服の男が走り込んできた。着物を端折って、紺色の股引を穿いている。

 闇に紛れることに慣れている服だ。直感的に思った。

 男を追ってきた五人の着流しの男たちが、絵馬堂を背にした紺色の男を取り囲むように散開する。

 ぜいぜいと五人の男たちの息が上がっているのが聞こえる。紺色の男の呼吸は乱れていない。

「や、野郎、ようやく追い詰めたぜ。法目の仁兵衛の鉄火場でゴタを起こすたあいい度胸だ。す、簀巻きにして鰯の餌にしてやるぜ」

 五人のうちの一人が息を乱しながらまくし立てた。他の四人が次々と懐から匕首を抜く。

 紺色の男がぺっと唾を吐いた。

「やかましいや、粉引き賽なんぞ使いやがる田舎やくざの分際で鉄火場が聞いてあきれらあ。上等だ、やれるもんならやってみやがれ」

 落ち着いた声で啖呵を切った。場数を踏んでいる、と文十は思った。

 背後からの襲撃を塞ぐ立ち位置といい、浮足立っている五人とは格が違うのがわかる。


 五人の側は追い詰めた気でいるようだが、立ち回りやすい場所に誘い込まれたのは明らかだった。


 野郎ッ、と叫びながら二人が匕首を構えて左右から突っ込んでくる。わずかに先走った左側の男の右をすり抜けざま、腹に膝をめり込ませた。

 ぐほっと声を上げた男が体勢を崩す前に右の男の首筋に手刀を叩きこむ。

 おらあっ、とわめきながら別の男が匕首を左右に振り回す。紺色の男が子供をいなすように小さな動きでそれを躱した。右にするりとよけながら左足を滑らせる。出足を払われた男の鼻っ柱に紺色の男の拳が入った。顔をのけ反らせて匕首が吹っ飛んだ。

 戦意を失いかけた残り二人の片方の腕を掴むと往復ビンタをくれた。男が匕首を前に向けたまま絵馬堂の陰によろけていく。


「きゃあっ!」

「うわあっ」


 ――女の声? 

 男の叫びと交差する。

 文十の眼が横に走った。倒れ込む音。赤ん坊の泣きだす声が同時にした。

「わ、わ、さ、刺しちま、この、この女が急に」男が裏返った声を出した。

 紺色の男の顔が反射的に絵馬堂の陰へ向く。残った一人の男が匕首を腰だめにして重心を前へ移した。


 ぱん、と絵馬堂の扉が開き、振りかぶった文十の右手から光がはしった。

「ぐわっ!」

 男がのけぞる。匕首の男の右目に細い棒のようなものが突き刺さっていた。


 ――いけねえ、やっちまった。

 文十は舌打ちした。


「仲間がいるぞ!」

 一人が叫んで二三歩後ずさると四人とも総崩れになった。

「ひ、引け!」 

 おたおたしながら逃げた一人の後を追うように四人とも逃げ出した。


 紺色の男が絵馬堂の張り出した床に立った文十の顔を見上げた。文十は石像のように無表情だ。

「助かった、と言いたいとこだが挨拶は後だ」


 男が絵馬堂の陰に回る。下を見る。緋色の布にくるまれた赤ん坊が泣いていた。

 女が横向きに倒れていた。腹の下に血だまりができている。

「おい! しっかりしなせえ」

 肩を抱き起した。

 顔は整っていたが血の気を失っている。「こども」とかすかに口が動いた。手が動いて男の袖口を掴んで握りしめた。


「子供……与一を、佐倉の狩野屋……手代の、利吉さんに、とど、けて、お、願い、しま」


 全身の力が抜けた。手が袖を離れる。

「おい!」男が肩を揺すった。ぐらりと揺れた頭に挿さった玉かんざしが月明かりに光った。粗末な野良着と合わない、場違いな品だった。

 文十が傍に寄る。足元を見やった。

 絵馬が落ちている。膝をついて拾い上げ、裏返した。男がのぞき込む。

 薄い墨で書かれた文字が見えた。


『りきちさま おしたいもうしそろ おせん』


 利吉様、お慕い申し候。お仙。


「この女、なんだってこんな時刻(とき)にこんなところにいたんでえ、……ってあんたに言ってもわかりゃあしねえか」

 女をゆっくりと横たえ、両手を合わせた。


「今夜は、満月でさ」

 文十が口を開いた。地の底をうごめくような低い声だった。男が文十の顔を見た。

「満月だと、何なんだ」

「月の満ちた夜に絵馬を納めるとがんがかなう。そんな言い伝えのある村がある、と耳にしたことがありやすよ」

 男は怪訝な顔になった。

「あんた、渡世人のようだが――近在の出かい」

「まあ、そんなもんで。――上総無宿の文十と申しやす」

「上総無宿が上総でなにしてるんでえ」

 文十は答えない。塑像のような顔だ。

「おめえさんは」ぼそっと言った。

「俺は、な――」咳払いした。「――小八郎ってもんだ」

「だいぶ喧嘩慣れしてらっしゃるようで」

 小八郎がちらっとあさっての方を向いた。

「まあ――昔からやんちゃでね」

 文十は反応しない。絵馬を持って立ち上がると堂の扉を開け、金釘のひとつに絵馬の紐を結びつけた。


 この女にどんな人生があったというのか。

 ちらりと思ったが、所詮文十には関わりのないことだった。

 

 絵馬堂の中へ入ると荷物と三度笠を手にして降り立ち、荷物を肩に掛けた。

「それじゃ、あっしはこれで」小さく頭を下げた。

「おいおい、ちょっと待ちねえ。――どうするんでえ、これ」

 懐手をして、地面で小さく泣いている赤ん坊へ顎をしゃくった。

 歩きかけた文十が立ち止まる。わずかに顔を向けた。

「頼まれたのは、おめえさんだ。あっしには関わりはねえんで」

 立ち上がった小八郎の眼が険しくなった。

「それはねえだろう。俺だって刺したのは俺じゃねえんだから関わりがねえことに変わりはねえぜ」

「三下どもをここへ誘い込んだのはおめえさんでしょう。あっしが追われてるわけじゃござんせんぜ」

「同じことだろうがよ。おめえがどう思おうと、連中はおめえを俺の仲間だと思ってるぜ。おめえが一人やっつけちまったのを忘れやしねえだろ」

「だったら尚更おめえさんと一緒にいるわけにはいきやせんぜ」


 にらみ合った。

 眉を寄せた小八郎と対照的に、文十は感情が死んだように無表情だ。


 ふん、と小八郎が鼻を鳴らした。

「じゃあ勝手にすりゃあいいだろう。俺も勝手にさせてもらうぜ」


 背を向けた。反対側の方向へ歩き出す。

 文十も背を向け、歩き出した。


 この女のように、明日屍になっているのは自分かもしれないのだ。

 他人ひと様の生き死ににいちいち関わっている余裕は、文十にはなかった。


 赤ん坊の泣き声が大きくなったような気がした。

 周囲の低い山々から、呼応するように野犬の遠吠えが聞こえてくる。


 小八郎が周囲に目を遣る。ちっと舌打ちした。


 無表情のまま、文十が立ち止まった。小八郎も。

 同時に振り向く。


 遠目ににらみ合ったまま、ゆっくりと歩み寄る。

 ぶつかったままの視線が絡み合い、下に降りて行く。


 赤ん坊が泣いている。

 

「このままじゃ、人目を引くな」

「人の前に犬の耳を引きやすね」


 小八郎の口がへの字に曲がった。

 渋々赤ん坊を抱き上げる。


「おめえの方が地の理に詳しそうだ。どっちへ行く」

 文十は無表情のままだ。

「おめえさんが元来た道を戻れば連中の縄張内しまうちだ。遠回りになるが南から海側へ向かうしかねえでしょう」

 小八郎が怪訝な表情になる。

「山越えの道はねえのかい」

「なくはねえですが、人里もありやせんぜ。赤ん坊が腹を減らしたらどうするんですかい」

 むう、と唸った。

「人里か。赤子連れの男と渡世人――目立つこと請け合いだな」

「噂になるのが早いか、抜けるのが早いかの勝負になりやすね」

 小八郎が口を曲げた。

「――あんまり分のいい勝負じゃねえな。おめえ、ツキはいい方かい」

「明日の生き死にはお天道さんに任せておりやすんで、気にしたこたあござんせん」

 言葉を切って、物憂げに月夜を見上げた。

「とりあえずはまだ死んじゃおりやせんからね。それだけでもめっけもんだと思っておりやすよ」


 小八郎は聞くんじゃなかった、という顔になった。





「――仲間?」

 仁兵衛のげじげじ眉が片方ずり上がった。猪首がきしむ音をたてるように動く。

 甚吾は背筋にうっすら汗をかいた。この顔をした時の仁兵衛に下手なことを言えば、耳をダンビラでそぎ落される恐れがあった。

「へえ。六が片目をやられやした。串みてえな細い手裏剣でさ。手甲脚絆が見えたんで渡世人じゃねえかと」

 ふむ、と言って細い目がじろりと動き、灯が揺らめく火皿を見つめた。

「手裏剣――渡世人……どこかで聞いたような気がするが。――面倒が増えたな」

「手勢をまとめやすか」

 待て、と言って顎に手を当ててしばらく考えていた。

「野郎が賭場の件を触れ回るとする」

「評判が落ちやすね」

「たかが流れもんの言うことだ。大して困らねえ。だが」

「お支配様の耳に入るかも、でやすか」

 太い首が頷く。

「万が一――大杉屋さんとの絡みを嗅ぎ付けられたら、まずい。――非常にまずい」

 甚吾がごくりと唾を飲んだ。

「このまま逃がすわけにはいきやせんね」

 そうだ、と言って甚吾を見た。


「元の場所にはもうおるめえ。政が刺しちまったってえ女の身元を洗え。奴の行き先がわかるかもしれねえ」
















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