50話
明朝、様々な調味料の香りが厨房に充満していた。アニエスの買い込んだ食材の大半は、その日の内に与一たちの胃袋へと消えていった。しかし、料理に使われず、居候の餌として扱われている干し肉の詰め込まれた木箱は未だ健在である。厨房の長机の上にはパンと干し肉が並べられており、以前よりかはちょっぴりマシな食事にありつけている。そんな、ひもじい思いをしながら机に突っ伏している姿の与一がいた。
「……塩気が欲しいんだよなぁ。ジャンクな食べ物が食いたい!」
がば、と。勢いよく起き上がり、ひとり寂しく嘆く。
ここ数日の間、まともな食事と言われたらルフィナのお金で食べていたお昼と、昨今に食べた──アルベルトが久しく腕を振るってくれた夕食しかない。それ以外の食事をしようにも、張り切っていたアニエスのおかげで資金は底を尽き、変わりに得たものは数日分──もしくは、何週間分の干し肉の山であった。
セシルが安いと言っても、買い込む量が量だけに必要となってくるお金はかなりの額であったのだろう。
珍しく働いたにも関わらず、自分の取り分がいつの間にか消えていたことに対して、与一はげんなり、と。落ち込むことしかできなかった。取り分があれば、三日間は(今より)豪華な食事をしていたのかもしれない。だが、彼の目の前にあるのは、ただの干し肉だ。ジャーキーなどの味付けのされたそれとは異なり、塩気のない、ただただ乾燥させただけに過ぎない肉である。
「塩気……塩……海水! そうだ、海水を乾燥させて塩分のみを抽出すれば……ッ!」
ばん、と。力強く机を叩きつけ、立ち上がる。
厨房を後にして宿を出ようとする与一の表情は、どこか清々しいものであり、それと同時に今にも駆け出しそうなほどそわそわとした足取りであった。
ヤンサの港の傍には、小さな浜辺がある。時折、住民であろう人たちが散歩がてらに訪れるだけであり、海水浴や日光浴といった行為は見かけない。日の出から昼間にかけて暖かくなっていくヤンサの浜辺で、泳いだり、遊んだりするのが普通だと考えていた与一であったが、眼前に広がるは寂しくも誰もいない浜辺であった。
「沖縄とかだったら絶対に観光スポットなのにな……」
海水は日光を反射しながらも透けており、沖縄のそれと見比べても大差がない。
「朝だからなのかもしれないな。さて、大自然に感謝してお塩をちょうだいしま──」
海水を掬おうと、手を伸ばす。すると、ちゃぽん、と。不自然な音が聞こえ、何事かと海から目を離して音のした方向を見る。そこには、常識では考えられないような光景──海面から謎の凹凸が形成されていた。
中央から周辺へと円を描くように波が走り、理解が追い付かずに硬直している与一の元へと近づいてくる。
「……へ?」
やがて、与一の足元付近にまで到達した不自然な凹凸は、まるでなにもなかったかのように消えていった。
「今のは、一体……」
「ん、水の精霊」
「うわぁあああああああああッ!!!!!」
突然、後ろから話しかけられた与一。驚いた拍子に海水へと足を踏み入れてしまい、びちゃ、と。靴の中が濡れていく感触に不快感を覚えながら、声の主をちらりと見やる。
「なにしてるの、先生」
「せ、セシルか……驚かせないでくれ、心臓に悪い」
胸を押さえ、大きく息をつく与一。
きょとん、と。首を傾げるセシルを前に、与一は濡れてしまった靴を脱ぎ、浜辺へと腰を掛けて傍に靴を置いた。
「まさか、セシルに見つかるとはな……はは、何をしようとしてたかなんて聞かないでくれよ?」
「ん、海水を乾燥させようとしてた?」
見つかっただけならず、なにをしようとしていたのかまで当てられてしまった。これ以上は墓穴を掘るだけだ。と、両手を上げて降参する与一。
「塩を手に入れようと思ってな……アルベルトさんの調味料から、くすねるわけにはいかないし。仕方がなく、だ」
見苦しい言い訳である。が、その辺は、日本人だと言えよう。
前に、海外の人間が財布を落として、日本人がどう行動するかの検証をしたことがあったそうな。その時、9割以上の日本人が交番に届ける、もしくは本人を呼び止めて渡してくれる。と、いう結果がでているほどだ。
勝手に人のものに手を出さない。それが、生を得た環境で学んだ常識だと言えよう。
「水の精霊を怒らせるところだった」
与一の隣に、ちょこん、と。腰を下ろすセシルが、海を見ながら呟いた。
海岸に人気がないことを不思議に思っていた与一は納得した。水の精霊とは、ヤンサの住民にとって大切な存在であり、海とはすなわち水の精霊たちの根源。それを、乾燥させようものならなにかしらの反撃を食らってもおかしくない場面であった可能性がある。
つぅ、と。冷や汗が頬を伝う。
「ち、ちなみに、塩とかの入手方法って……」
「海水に手を出さなければ大丈夫。精霊を怒らせてしまうから、基本的に塩の入手は岩塩から」
どうりで塩気がないわけだ。自身が働かないことに対しての当てつけで塩気のない食べ物ばかりを食べさせられているわけではなかった。と、与一は胸を撫で下ろした。
「精霊との結びつきが強いんだな」
「精霊がいるから生活ができる」
「なるほどなぁ。いろいろと、知っておかなきゃいけないことが多そうだ……」
こちらの世界の常識を覚えようにも、まずは文字から学ばなければならない。前に、セシルが文字を教えてくれるといっていたことを思いだし、文字を覚えてから世界についての本を読んでおこう。と、肝に銘じた。
落ち着いたからか、与一は胸ポケットからタバコを取り出して火をつける。
「ふぅ……そういえば、こんな時間に会うなんて珍しいな」
「ん、手伝いにきた」
「そういえば、そんな話してたな。んじゃ、今から宿に戻って調合するか」
嬉しそうに頷くセシルを横目に、与一は濡れてしまった靴下を脱ぎ、靴を持ち上げ、裸足のまま宿へと戻っていった。




