37話
屋根に打ち付ける雫の音を聞き、与一は目を覚ました。
ぶおぉ、と。時折強い風が吹き抜けており、途切れることを知らない雨の音がひっきりなしに耳へと響く。窓へと叩きつけられるコツコツという音に苛立ちを覚えながら、むくりと上半身を起こして眠そうに目を擦り、大きなあくびをひとつする。
「朝から最悪な気分だ……」
嫌なことを思い出したかのように顔をしかめる。生前、命を失った日によく似ており、嫌でも複雑な気持ちになってしまったのである。
未だ見慣れない天井に、新鮮さを感じながらベットから出る。セシルを助け出した次の日に、なぜかアルベルトから物置部屋を追い出されて二階の部屋を貸してもらうことになった。最初は、なにかを企んでいるのかと勘ぐった与一だったが、ここ数日の間は特になにもなく。むしろ、普通の好意だったのではないのかと、申し訳なく感じ始めてすらいた。
部屋の中を改めて見渡す。贅沢な家具に、軽く12畳近くある広々とした部屋。東京で借りるとしたら、月々8万以上は軽くするだろう。と、思えるほどの部屋なのだ。
「そういえば、こっちのお金って数え方すら知らないな……」
無一文の居候の名は伊達ではない。こちらの世界のお金という概念に対して、与一は未だに触れたことすらないのだ。自身のポーションがかなりの額になるのはわかっているのだが、それを売るとなると付いて回ってくるのは商人とのやりとりだ。金銭感覚以前に、お金の数え方からどれほどの価値があるのか。と、学ぶ以前に稼いでいない与一にはほぼ無関係の話なのだ。
「まぁ、いっか。いつかわかるだろ」
いつになるかはわからないが、必ず学ぶ機会が来るはずだ。今は深く考えなくてもいいだろう。と、与一は部屋を出て厨房へと足を向けた。
いつも厨房に漂う匂いと、違う匂いのする朝食。この時間、アルベルトは買い出しなどで出払っているので、長机の上に作り置きされているものを毎朝ひとりで食べているのだ。
魚を煮込んだスープはこちらでの家庭料理の類のようで、必ず食卓にでてくると言っても過言ではない料理だそうだ。だが、目の前にはない。
アルベルトは日替わりで適当に料理をつくる。その日、昨日の余りもので朝食と呼ぶには少々贅沢なものを調理するのだ。例えば、小麦粉をまぶした白身魚を油の敷かれたフライパンの上で炒めたお洒落なものから、地方から仕入れた野菜を、茹でた貝などを盛り付けた色鮮やかな野菜の盛り合わせなど。だが、目の前にはない。
「あれ? 食事ってこんなに質素だっけ……」
ふと、振り返って思ったことを口に出す与一。
部屋の中に漂う匂いは、調味料を存分に使った食欲をそそるようなスパイシーな匂いだ。だが、与一の目の前に置かれているのは、パンに干した魚を挟んだだけのサンドイッチと呼ぶには程遠い料理(?)。
「考えても仕方がないか……わーい、今日は干した魚が挟まれてるー」
正直、塩気や濃い味付けが恋しい。そう思いながらも、与一は置かれていたそれらを無言のまま頬張った。
「さて、と。今日は雨だしな……なにしよう」
特に何かをするわけでもなく一日を過ごす。それが、ここ数日間の与一の行動だった。
時々、セシルやアニエスが冒険者ギルドに行こうと誘ってくるのだが、相も変わらず草むしりの依頼しかないので、基本的に依頼を受ける前に宿へと戻ってきてしまう。ただ、変化があったとすれば受付嬢が変わってから、自分自身が『調合師』としての本来の扱いを受けていることくらいだろう。
生きるために働くのが普通だった世界とは違い、こちらでは仕事をしなくてもそれなりに生活ができる。居候ではあるが、時折アルベルトが怪我した際に治療をしているので、それが一応仕事として認識されているからなのだが。
「はぁ、寝るか……」
夢中になってあれやこれやとやっていた調合は、ただの食い扶持のための最低限しなければならない仕事程度になってしまっている。社畜から一転、居候の全く働かない生活に入り浸ってから、働く意欲がないどころか、毎日暇つぶしになにをしようかと悩む日々だ。
階段を上りながら、与一は今の生活についていろいろと考えていた。部屋に戻り、ベットへと身を投げる。うつ伏せの状態から寝転がり、天井を眺める。暇とは、思っていた以上に苦痛なのだと、改めて実感する。
「仕事、ねぇ……」
いくら考えても溜め息しかこぼれない。これ以上は考えても無駄だろう。と、考えるのをやめて寝る与一であった。
あれから、どれくらい寝ていたのだろうか。与一が目を覚ました頃には雨は上がっており、あちらこちらに散っている大きな雲の隙間から、日光が幻想的な斜線を描いて空を飾っていた。
起き上がり、部屋を出ようとする。そこで、
「す、すいません……!」
扉を開けた時に、通ろうとしていたであろう少女と目があった。
ぶつかりそうになった拍子に、ふわりと揺れる髪から鼻をくすぐる優しい香水の匂いが漂い、与一の思考を鈍らせた。
鏡のように、今にも自分が映し出されそうなほど綺麗な銀色の長髪。落ち着いた雰囲気を感じさせる青藍の瞳に、少し痩せ気味ではあるが、透き通るような白い肌が彼女の美貌を可憐に感じさせ、華奢な印象を受ける。その身に纏うは、汚れやシワの一切ない純白のワンピース。清楚感溢れるその恰好に、どことなく高貴な風格を感じる──そんな少女が、髪を耳に掛けながらちょっぴり上目遣いでこちらを窺っていた。
ふたりの間に沈黙が流れる。
「「……誰?」」
口を揃えて発した言葉に、両者は困惑の色を隠せなかった。




