33話
与一の言葉に、老人はぴたりと止まった。冷や汗を額に垂らし、まるで何かを悟ったかのように。
「……は、はて。調合師なぞに言わねばならないこととはなんじゃ?」
繰り返しだ。だが、先ほどと違い声音が震えている。
最後の最後まで『悪役』を全うするつもりのようだ。すると、少し間を置いてから与一が再び口を開いた。
「ジジィ、あんたみたいな名の知れた人が、なんでこんなことしているかなんて俺にはわからない。正直、興味もないし、深く聞くつもりもない」
「……そうか。ならば、ひと思いに頼む。わしには……今の生き様は合わなかったようじゃ」
老人の手に握られていた弓が、力なく屋根へと落ちていく。カランカラン、と。音を立てながら屋根を転がる獲物を眺めながら、彼はフードを外す。そこには、70歳後半くらいであろうひとりの老人の姿があった。
「ひと思いにやれって、自分のケツを俺に拭かせるつもりなのか?」
「………………」
「老い先短いくせに、死に急ぐ理由なんてないだろ」
老人は黙り込んでしまった。彼自身が、なんでこんな仕事をしているかなんて謎だ。理由があるとすれば、なにかしらの弱みを握られたか、なにかに釣られて利用されているだけだろう。が、今の与一にはどうでもよかった。ただ一言、謝罪の言葉が欲しいのだ。ごめんなさい、と。
「……もういい。俺はあの子を返してもらうためにここに来たんだ。ジジィに説教垂れるために来たわけじゃないんでね」
呆れた口調で、与一は老人に背を向ける。既に戦意を喪失しているとは言え、彼とは先ほどまで命の駆け引きをしていたのだ。それを、『もういい』の一言で済ませ、立ち去るという信じがたい行動に、老人は再び目を大きく見開いた。
「小僧、あの娘は……下の造船場の中じゃ」
一瞬足を止めた与一ではあったが、これ以上何も言う気になれなかったのだろう。目を向けそうになるが、すぐさま屋根から飛び降りた。
与一がいなくなったことを確認した老人は、ゆっくりと膝から座り込んだ。
「わしは、どうすればよかったんじゃ……」
ぼそりぼそり、と。今まで自分を振り返りながら、老人は黒い海に映る月へと嘆いた────
先ほどの一件で、与一は怒りの向ける先を失って苛立っていた。
謝罪の一言が欲しかった。ただ、それだけだったのに。あそこまで力なく語られたら、こちらが一方的にどうこうする気など起きなくなるものだ。それに、老人の顔はやけにやつれていた。仕事に対するストレスからなのだろうか、それとも、カルミアと同じで1、2日の命だからと人生に絶望していたからなのだろうか。
今となってはわからない彼の思考、人柄、人生。そのすべてを理解するには、彼と過ごす時間と世界は違いすぎたのかもしれない。
「ったく、平和ボケしてるなぁ……俺」
改めて、ちらりと屋根の方を見ながら、与一は呟いた。
「与一ぃいいいい──ッ!!!」
後方から、よく知った男の叫び声が聞こえる。敵陣のど真ん中だというのに、真っ先に人の名前を大声で呼ぶ。そんな、いつもと変わらない雰囲気の彼に、与一はただただ溜め息をこぼすことしかできなかった。
「大丈夫かい! 与一君」
「あぁ、この通りぴんぴんしてるぞ」
「おめぇ、遠見の弓師と一戦交えたのか……?」
与一の右腕に付着している、乾ききった血痕を見ながら、アルベルトは眉を寄せながら問いかけた。だが、彼はそれを鼻であしらうと、造船場の扉へと足を向ける。
「あのジジィなら、もう大丈夫だ。それより、この中にセシルが捕らわれてるって話だ」
「確かに、屋根の上に誰かいるみたいだけど……なにかしてくる気配はないね」
「し、信じられねぇぞ……調合師なんだろ? おめぇ」
「あー! もういいから! そういう話はあとでいいだろ」
半信半疑に与一に話掛けるふたり。だが、目先の問題がまだ解決していないと、与一は先を急ぎたそうに目の前の大きな扉へと手をかけ、横へと引く。ズゴゴ、と。重たい扉が少しずつ開かれていく。一気に開けなかったところを見ると、与一は既に丸薬の効果が切れているようだった。
3人は中へと足を踏み入れ、眼前に広がる光景に息を飲んだ。大きな建物なだけあって、中は広く、奥まで吹き抜けた天井。両端にはいくつもの木箱が積み上げられており、ところどころにいくつもの松明が設置されている。その中央には、製造過程なのだろうか。船底と骨組みなどが露わになっているものがひとつ佇んでいた。
船好きであるアルベルトには少々刺激が強すぎたようで、目を輝かせながら近づいていく。が、
「おやおや、あの老いぼれは与えられた仕事もまともにできないのだろうか」
コツコツ、と。まるで革靴か何かで踵を擦る音が響き渡り、音のする方向にはひとつの人影と、それに続くかのように、ぞろぞろと柄の悪い連中がこちらへと歩いてきた。
「調合師と……その取り巻きか。こんな連中にやられるとは、私の目が狂っていたとしか言えないな……」
声の主は、与一とよく似たスーツのような、いかにもな立場が高いですと言いたげな黒ずくめの服装だ。短めの銀髪に、細長いデザインの眼鏡。プライドでも高いのだろうか、どことなく上から目線であることに与一は眉をぴくりと動かした。それと同時に、カミーユは彼に見覚えがあるのか、その顔を凝視していた。
「……なぁ、あのジジィはなんであんたみたいな、いかにもな三下の元で働いてたんだ?」
「っは! 調合師風情が、この私に口を聞くな。貴様のような生産職は、言われるがままに仕事をすればよかったものを……」
与一の質問に対し、調合師だから、生産職だからと言われ、3人の間に怒りにも似た何かが込み上げてくる。
「はぁ、もう少し優秀な人材を選別すべきであったな」
松明という原始的な光源のため、その顔全体をはっきりと認識することはできない。だが、影に埋もれてゲスな表情をしているという事は与一でも理解することができた。相手が何者で、何が目的なのかはわからない。しかし、ここで彼らからセシルを返してもらうためなら、今すぐにでも殴りかかりそうなアルベルトを横目に、与一は対話でどうにかできないかと試みる。
「少女を返してもらいたいんだ。俺たちは、その為にここに来た」
「……あの小汚い娘か。そこの、あの娘を連れてこい」
割と素直だ。そう感じたのは、その一瞬だけだった。
ジャラリジャラリ、と。鉄みたいな何かが擦れる音共に連れて来られたのは、ぼさぼさの髪に、目の下に大きなくまのある虚ろな瞳をした、手足を拘束された状態で無気力に引きずられるセシルだった。
目の前に連れて来られた少女を前に、与一は力む身体を抑えながら男を睨み、アルベルトは怒りに肩を震えさせ、カミーユは目を細めて口元を押さえた。
「ははは、どうしたのだ? 調合師。この娘を返してほしいのだろう?」
男の前に、まるで捨てられたかのように転がるセシル。その腹部を、男は踏みつけてにぃっと歯を見せて笑って見せた──それが、与一の横で怒りに震える大男の沸点を超える行為と知らずに。
「すまねぇ……与一、俺はぁ限界みてぇだッ!」
刹那、アルベルトが地を蹴った。
低い姿勢から、大きな歩幅で男目掛けて駆け出す。
「な、なんだ貴様! やれ、この大男を止めるのだ!」
腕を横に振るい、後ろにいた男たちに命令する。だが、そんなことをしている間にも接近したアルベルトが、全体重を乗せ、飛び上がるような体当たりを男へとお見舞いする。
「ぐへぁッ!?」
男の身体が宙を舞い、少し離れたところに背中から落下して何度か跳ねた。
アルベルトを囲うかのように男たちが集まり始める。しかし、彼は脇目も振らずにセシルを持ち上げ、その身を与一目掛けて投げた。
「ちょ、投げるなんて聞いてないぞ!」
男が吹っ飛ばされる様を見て、愉快痛快とすっきりした表情をしていた与一の元へ、投げられた少女の身体が直撃する。が、受け止めた与一はバランスを崩しながらも、囲まれているアルベルトへと目線を送った。
「セシルちゃんを安全なところまで連れていけ! ここは、俺とカミーユが引き受ける──ッ!」
「まったく、ほんと昔から変わらないね。さぁ、早く行くんだ与一君──!」
カミーユに背中を押され、仲間を置いて逃げるという罪悪感に飲まれそうになる与一。だが、ここで振り返るとかえって邪魔になってしまう。与一は『必ず、戻るからな』とだけ呟くと、セシルを抱き上げて走り出した。




