32話
大地を月明かりが優しく包み込む、少し肌寒さを感じさせる風が季節の変わり目を告げる。
ヤンサの港手前の通りに位置する、アルベルトの宿。その入口の扉に背中を預け、タバコを吹かす与一の姿があった。
息を吐くと同時に風に流されていく紫煙を見ながら、彼は改めて月を見上げる。
「ふぅ……上手くいく保障なんてない。もしもの時は、身体が馬鹿になろうが助けてやるからな──セシル!」
短い叫び声は、波の音と共に海へと消えていった。
しばらく月を眺めていた与一だが、ふと黒い点のようなものに気づく。それは、少しずつであるがまるで近づいてきているかのよう──
「まさかッ!?」
咄嗟に地へと身を投げる。すると、背後でダンっと木製のものが割れたような乾いた音が鳴り響く。起き上がった彼が目にしたのは、衝撃を逃がすかのように激しく揺れる矢が、扉に刺さっている光景だった。
「……はは、まじかよ」
引きつった表情のまま、与一は起き上がる。
「与一君! 今の音は!?」
扉の向こうからカミーユの声が聞こえた。
「どうやら、時間みたいだ」
「……そうか、くれぐれも無茶だけはしないでくれ、せめて私たちが追い付くまでは……!」
「あぁ、わかってるさ。んじゃ、ちょっと行ってくるわ」
吸い殻入れにタバコを放り込み、深呼吸をひとつ。そして、与一は港の道へと足を向けた。
月明かりのおかげで道は見えている。だが、不気味な雰囲気に包まれたそこは、まるで肝試しでもしているように落ち着かない。波打つ音だけが聞こえ、ただただ何もない道を歩いていく。
恐怖、不安、緊張、様々なものが全身に伝わる。が、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。この先になにがあろうと、行かなければ始まらない。解決することもできない。
「……………っ!」
同時に、怒りも湧き上がってくる。
──関係のない少女を人質とする、その横暴さが
「なにより気に入らねぇ……!」
全身が力む。大きく息を吸っても収まる気配がない程の怒り。
一歩、また一歩と進むにつれ、与一の歩幅は徐々に大きく、大きくなっていく。
道を進む事、数分。初めて見たときはなんの建物か検討すらつかなかった場所。まさか、ここが悪党の住まう場所だとは思いたくなかった。男が楽しそうに語っていたその横顔が、ふと、脳裏に浮かんだからだ。
「まさか、本当にひとりで来るとはのう……」
頭上から声を掛けられ、与一はゆっくりと見上げた。
そこには、ローブを身に纏い、フードを深く被った人影がひとつ。その手に握るは大きな弓──間違いない、彼が遠見の弓師だ。
「なぁ、ジジィ。俺に言わなきゃいけないことがあるだろ?」
「ほほう、開口早々ジジィ呼ばわりとは……それで、わしが調合師なぞに言わねばならないこととはなんじゃ?」
「身に覚えがないような口ぶりはよせよ」
胸ポケットからタバコを取り出し、火をつける与一。
なにか仕掛けてくると警戒したのか、老人は矢を構え、弓を引いた。
「はて、なんのことやら──ッ!」
言い終える前に矢を放つ老人。だが、与一は予想していたと言いたげな表情で、それを躱して見せる。
内心冷や冷やしているのだが、それを悟られないように笑って見せる。ここで時間を稼がねばならないのだ。あとからくるふたりの為にも、ここで捕まるわけにはいかない。
「ふむ、少々侮っていたかもしれんな……じゃが、次は外さぬ!」
「侮る? 俺が調合師だからか?」
タバコを放り捨て、射線を逸れるように駆け出す与一。その途中、射てくるであろうタイミングでわざと止まる。刹那、足元に矢が刺さり、彼はしてやったりと言いたそうに、にやりと笑って見せた。
「小癪な真似を──ッ!」
相当頭に来たのか、老人は声を荒げ、続け様に矢を手に取る。
「一か八か、とことん喰らいついてやる!」
一粒の丸薬を取り出し、口へと放り込むと同時に与一は駆け出した。
「二度は同じ手には掛からぬぞ!」
近づいてくる与一目掛け、矢を構える。
狙いを定め、矢を放とうとした瞬間──彼の姿が、その場から消えた。
「ど、どこじゃ!?」
視界から消えた与一を探そうと、老人は屋根の端から下を窺う。そして、すぐそこまで跳躍してきた与一と目が合う。
「──ッな!?」
屋根までの高さは、2階建ての一軒家ほどある。それを人ひとりの脚力で飛び越えることなど不可能に近い。
驚いた老人は、腰を抜かしそうになった。だが、これも経験の差だろうか。すぐさま体勢を整え、屋根へと降り立った与一へと矢を構える。
「何者だ、小僧……ッ!」
ぐぐ、と。弓を引き、老人は問いかける。
すると、与一はにぃっと深みのある笑みを浮かべて答えた。
「はは、調合師にそんなこと聞くのか?」
着地の為に屈んだ与一が、むくりと起き上がりながら背後にいる老人へと答える。それと同時に、右手が自分の意思と関係なく跳ね上がり、鮮血が頬へと飛び散った。老人の放った矢が、与一の右腕へと刺さったのだ。だが、彼は痛みに悲鳴を上げる訳でもなく、無言のまま『それ』を脇目も振らずに抜く。
目の前で起こっている信じがたい光景に、老人はフードで見え隠れしている目を大きく見開いた。
「ふぉふぉふぉ。この矢は、わし特製でのう。抜いた者は骨を砕かれ、肉を更に裂くものじゃ」
「あぁ、それがどうした」
「痛みに声を出さないのは褒めてやろう。ほれ、小僧。自分の腕を見てみるがいい。その命、あとどれほど持つかのう」
楽しそうに話す老人を無視して、与一は振り返る。
「なに勝ち誇ったかのようにしてるんだ? 俺は調合師だってさっきも言ったよな?」
「ぬぅ? 気でも狂ったのか? 先ほどの脚力には驚かされたが、お主はどうみても生身の人間。その傷がどれほどの血を流すかわかっておるのか?」
「傷? 血? そんなもん、とっくに塞がってるし、止まってるぞ。どこに目をつけてるんだ? 遠くは見えるが……近くは見えないってか? はは、ジジィの特権じゃないか」
まるで老人を煽るかのように、言葉を並べる与一。彼のいう事に怒りと疑問を抱いたのか、老人はその腕を睨みつけ、屋根へと垂れる血が既に止まっていることを確認し、驚愕した。
「ば、化け物めが!」
恐れおののきながら、背中の矢筒へと手を伸ばす。そして、残りの矢が一本であることに気が付くと、老人は一瞬背後へと目線を逸らした。
矢を握り、矢筒から引き抜こうとする。が、
「……なぁ、ジジィ。俺に言わなきゃいけないことがあるだろ?」
「────ッ!?」
それよりも早く駆け出した与一は老人へと肉薄し、低い声で囁いた。




