晒爪
ほのやかに。
月光が、刃金を照らす。
新茨が大剣の切先を、背負った空へ流す――八双の構/八の方向に八の相を現す機迅の太刀取り。
豊禍が腕を差し出し――誘う。
「爪牙の交わりは刹那を紡ぐもの……如何かな騎士殿、学生なら宿題を優先すべきだ」
「――だが」
呟きだけが、立生の聴覚に残った。
新茨はいない。
「付き合って欲しいそうだ」
いる。
豊禍の眼前に。
大剣の制空圏を以て。
斬撃が豊禍に殺到する。
一閃――瞬と刹那の狭間を駆ける、左袈裟。
ただ空を切る。
見切っている。
豊禍は切先寸前の間合いに下がり――
「――!」
――直角に跳ね退く。
右肩の肉が裂けている。
いまも、裂かれている。
爪が、裂いているのだ。
宙にいる。
反転した立生が、爪を豊禍の肩に抉り込んでいる。
見切っていたのである。
切り込んだ新茨の後ろから立生が疾走――新茨の右肩で跳躍、豊禍へ貫手を疾らせる。
果たして、後の先を取らんとした豊禍の右肩は抉られ、跳び退く勢いが傷口をより広げている。
だが、浅い。
豊禍の右腕が、立生の前腕に――絡みつく。
腕の構造的にあり得ない挙動――出来るのだ、この男にも。
立生が心臓をずらしたように。
関節と筋繊維と骨格を少しずつ変形させる事が。
集中する事も無く、容易く出来る――おそらく、心臓を移動させる事も。
だが、知っている。
知っているから、新茨は動ける――精神を崩さぬ。
剣の切先を後ろに流し――車の構/疾走/踏込。
疾走力と地の抗力を斬線に注ぎ一閃――左逆袈裟。
あまりにも分かりやすい一手――豊禍は右腕を――立生ごと――振り下ろ――
「――ッグぁア!」
――せない。
立生が豊禍の背に張り付いている――肩口を百八十度傾斜させて。
右肩の関節を外し、左の爪を豊禍の肩に埋めている。
一拍だけの停止。
だが十分。
「ほう――!」
豊禍が唸る。
後ろに跳び――
「ァ――」
立生が牙を剥き=喰らい付き、
「ォ――」
豊禍が牙を剥き=笑い、
「殺ッ――」
新茨が吼える。
――水切りが如く地面を転がり、
「疾ッ――!」
「赫ァ――!」
豊禍/立生――宙へ跳ね/相弾き/地に堕ちる――叩きつけ合う。
「どうした」
斜め一文字――血を流しながら、豊禍が立ち上がる。
斬られている。裂かれた肉から、断たれた骨の断面が覗いている。だが、内臓には届いていない。
傷口が逆回しの様に塞がっていく。
「隻腕の犬相手に」
振り向きざまに、右腕を背後へ流し――
「何を手こずっている」
「――!」
――左逆袈裟。
斬閃が交わる。
爪/大剣――左逆袈裟/左袈裟。
遊びの無い一閃。
弾かれ、手を離れた大剣の樋――流れる血が、零れ、宙に散る。
新茨の身捌きが崩れ、
「もういいだろう」
無拍子――貫手。
豊禍の爪が左胸に、
「終わりだ白騎士」
ほんの刹那、
「『捉えた』」
新茨が呟く。
微かに震える――豊禍の肉体が。
「『見えた』」
新茨が身を傾げ――左胸装甲が引き裂かれ、肉が削がれ/砕けた骨が零れ――跳び退る。
「『縛れ』」
そして、嗤う。
「――!」
豊禍の眼が見開かれる。
ほんの一刹那――全身の筋肉が凝る。
違う。
血が、その流れが、凝る。
「流し込んだか、血を、俺に――小娘!」
くぐもった叫びを、牙の間から漏らし――
「新茨」
――血を、溢す。
「あいつの名だ」
豊禍の背――その右肩甲骨の下。
立生の右手が、埋まっている。
貫手。
爪が背筋を断ち、肋骨を砕き、肺腑を千切り気道を裂いている。
立生に格闘の経験は無い。喧嘩の経験も無い。急所の知識も無い。
全くの素人。
己の魔性と爪から湧いた一撃――その感触が、雷が如く筋肉を撃つ。
「いい名前だ、な」
だが、足りない。
「いいクラスメイトだろう?」
そのまま右腕をうずめ、豊禍の内側を引っ掻き回す。
「いい学校生活を送れなんだ身としては――」
心臓を探す。
「いい加減黙れ」
探して、潰す。
「いい闘いだったが残念だ」
右手が締め付けられる――背筋の収縮が腕を絞り上げる。
骨が軋む。肉が潰れる。
構わない。
心臓さえ――
「いい加減に時間切れだ」
――見つけた、目の前に。
心臓が宙空で脈打っている。
蛸か烏賊の脚の様に延びた肉が、心臓を持ち上げ、呑み込み、一本の触手に収束する。
どこか数学的な律動を脈打ち、波打つ筋肉を直に見せつける、腕四本を束ねたが如き図太い一条。
まさしく触手であった。
みちみち筋繊維を鳴らしながら、触手が地面に垂れ――瞬転跳ね上がる。
鞭の挙動――根元から無限に加速を続ける一撃。
見切る事は出来る。
だが。
腕が抜けない。
逃げられない。
あまりにも重く、太い打撃。
受ければ後は無い。
立生の奥で、恐怖が無限に加速――
掻き立てられる。
豊禍の柔らかい内腑を抉った愉悦。
豊禍の骨を砕いた爽快。
豊禍の分厚い背筋を貫いた驚愕。
そして。
豊禍の左腕を切り裂いた、歓喜。
切り裂き――『喰らった』――その法悦。
そうだ。
豊禍の左腕を『喰らった』のだ。
もう一度。
違う。
もっと。
――肉が、血が、沸く。
己の奥から左腕へ衝撃が駆け――更なる衝撃を掻き立て――腕そのものの認識が失せ――
吼――!
――衝撃=左腕を疾らせる。
重く、太い肉が――宙に躍る。
血を、迸らせて。
重く、太い肉を断ち切って――なお足りぬと血の珠を切る鋭利が、そこにある。
荒く尖らせた、分厚い刃が如き、獣性の奔騰――人狼の、爪。
豊禍の爪。
そして、腕。
今は、立生の左腕。
「借りるぞ」
喉の奥から、遠雷の様な響きが漏れる。
笑い。
嘲笑ではない、全き歓喜。
「やってくれるなぁ」
豊禍もまた笑う。全き歓喜。
右腕の束縛が消える。
立生の歓喜が一気に消える。
何故喜んでいる。
何故自由にする。
疑念が過る。
恐怖が滲む。
思考する事なく、飛び退く。
追いかけてこない。
だというのに。
豊禍の体躯の分厚さ、重さを感じる。
組み合っていた時よりなお、物理的な感触を沸かせられる。
「名乗れ」
「辻、立生」
勝手に、答えている。
「いいぜ立生、お前にくれてやる」
豊禍の左腕――傷口から、血が噴き出る。
噴き出る血を切り裂き――石が共食いする様な異音――生硬い乳白色。
乳白色に絡みつく、うっとりする様な桃色。
骨と、肉。
血と骨と肉――珊瑚の様な螺旋を描き、灰色が覆う。
左腕。
再生できたのだ。
初めから。
「つまらん戦いをするなら返してもらう」
「……アンタなら普通に抜き取れただろ」
恐怖の中に、怒りが混じり始める。
この数分間に、何の意味があった。
「返せと言えば返さない、やると言えば持って帰ってくれ……我儘すぎるぞ」
豊禍が肩をすくめ、牙を見せつける――笑う。
立生も思わず笑う。
笑ってしまう。
「持って帰ってもらうさ、連合にでも頼んでな」
牙の奥に熱が灯り――
「見ているんだろう――お前らいい加減に手伝え!」
――吼える、一際強く。