逢魔
夕暮れの空はこれほど熱かったか。
黄昏刻の空はこれほど燃えていたか。
見下ろす立生、見上げる新茨。
交わる二人の眼差しが、空の色に熱を幻視させる。
「お前は一人だ」
ねっとりとした響きが、新茨の唇から漏れる。
「そうだ」
頬を震わせ、
「しかしな」
唇を歪ませ、
「わかるだろ」
歯を軋らせ、
「月が出る」
立ち上がる。
「そういう時間だ」
両肩を抱き、全身を震わせながら、引き込む。
爛々と輝く立生の瞳に――
「みんなそう言ってる」
――映り込む、間近に。
無拍子の跳躍と共に、新茨が迫る。
近い。
近すぎる。
鉄杖の距離ではない。
唇の距離。
否。
「喰ってみろ」
牙の距離。
立生が笑う――唇の歪みが極点に達する。
牙を剥き、
「や……めろ!」
屋根を滑り、縁に足をかけ跳躍――地面へ。
転がりながら、放り投げる。
引っ掴み、もぎ取った、舗装材を。
重量はある。
だが。
速度が無い。
狙いも無い。
見切りは容易い。
新茨は滑るように。
屋根を一歩二歩三歩、疾り、
「咆ッ!」
屋根の縁から跳躍――地面へ。
鋭角的軌道に速力を込め、着地――地の抗力と捻じり合わせ、鉄杖に流し込む。
導かれる逆袈裟が、舗装を砕き、捲り上げる。
「……!」
頬に、微かな風。
視線を巡らせ――校舎の壁、三階の位置にいる。
パイプと窓の縁に爪先をかけ、壁に掌を押し当てている。
体術か筋力か――地を転がされながらも、三階の高さまで跳躍し、張り付いている。
だが。
その脇腹。
ワイシャツが、赤黒い。
肋骨が、肉から露わになっている。
常ならぬ跳躍を相手にしてなお、新茨の鉄杖は肉を逃さなかった。
だが、浅い。
内臓を傷つけてはいない。
「勘弁してくれ……」
息が出来ない。
意識が淀む。
痛みに馴れていない。
馴れぬ再生は、痛い。
立生は戦いに、馴れていない。
どころではない。
初めてである。
喘ぎ、掌が壁から離れ……
「あ」
……落ちなかった。
「一人で眠れ」
新茨は、右目から零れる血を拭う。
舐める。
その手に鉄杖は無い。
「ぁ……」
立生が手を伸ばす先に、ある。
立生を、校舎の壁に、縫い止めている。
左胸を貫いて。
「……一人に拘る女だな」
笑い、喘ぎながら、立生は鉄杖をさする。
「一人、か」
呟き、
「かもしれんな」
瞼を伏せ……
「一人ではないさ」
呼吸が、止まる。
そこに、いた。
おそらく、数秒前から。だが、二人ともに気付かなかった。
「力を持つのは、お前ひとりではない」
男が一人。
一人だけ。
「つがいを探す雌犬共ではない」
見て、いない。
新茨を。
価値を認めていない。
「俺だ」
力を、認めていない。
「俺達だ」
認める訳にはいかない。
「であれば貴様もだな」
「これはこれは白騎士殿」
男が、新茨へ向き直る。
左足を右足の後ろに回し、左手を背に、右手を横に長し、九〇度に一礼。
「使命、せいがでますなぁ」
九十度のまま、首を上げる。
笑っている。
笑いを、貼り付けている。
新茨が肩を、腰を落とす。
右半身を下げる。
左掌を男へ向け、
「一人増えただけだ」
疾跳ぶ、蹴る。
数間の間合いを断つ、鮮明な弧を――
「白騎士殿」
――止める。
男の左手が。
右足を掴んでいる。
「君らがやれ使命だなんだと」
嵐の左足が跳ね――
「妄想を」
跳躍力を膝に流し――
「ひけらかし」
男が左手を離し、右掌を眼前に翳し――
「暴れる」
――受け止め/膝を抜き=右半身を後ろに流し――
「実に楽しい」
――勢いのまま、嵐の身が宙に流す。
投げる。
「観るのは実に楽しいが」
宙空、新茨は身をよじり、一転――着地。
「今日は遠慮していただけるかな」
身を起こし、新茨の口元が一文字に引き結ばれる。
「妄、想、だと」
ゆっくりと、搾り出される。
「妄想だよ」
背を九十度から戻し、肩をすくめる。
一撃を捌くには無理な姿勢であった。
にもかかわらず息の乱れる様子は無い。
「黒騎士たちの方がまだ真っ当な精神性を持っていたぞ」
「深淵に与する者共の言葉に、我らの意志は揺らがぬ」
「皆そういう」
男が眉を顰める。
「思考停止だ」
新茨が眉を逆立て――
「黙れ」
「貴様が黙れ」
音は無い。
風も無い。
だが前に、いる。
男。
無拍子に跳ね上がった左手、貫手。
速度だけではない。
気が、重く乗っている。
掠れば、顔面が砕かれる。
瞼を閉じる事さえ間に合わぬ。
ただ、
何も、無かった。
「――」
意識が、まだある。
新茨の眼前。
その左腕は、無い。
醜く、潰れた断面だけがある。
「ほう……」
笑みが、あった。
男が、牙を剥いている。
本当の笑み。
その視線の先。
「なん、で……」
新茨が振り向く。
そこにいる。
「クラスメイトだからな」
辻立生、その姿。
月光に縁どられた、その姿。
鋭く、優しく、猛り立つ、自然界の曲線を、殺戮的に紡ぎ上げた、輪郭。
人は太古、それを大いなる神と奉じた。
やがて、あるものは敵対者として駆逐され、あるものは恭順し、血を薄れさせた。
文明社会に追いやられた自然界の化身。
大いなる神、そう呼ばれた獣、その姿を借りた人。
人狼。
それが辻立生の魔性である。