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しばらくの間、大翔と紡の間に会話はなかった。ぽつりぽつりと降り続く雨をボーっと眺めながら、ただ並んで座っていた。
そんな中、大翔は独り言のようにそっと語り始めた。
「俺はさ、紡がうちの高校に来て、うちのバスケ部に入ってくれたとき、すごく嬉しかったんだ」
紡はハッとして、大翔の方を見た。彼は雨に濡れる道路をどこともなく見つめているだけである。
「もしかして、飛永先輩、覚えてるんですか? あのとき――僕に声をかけてくれたときのこと」
大翔は首だけ動かして、こちらに顔を向ける。
きょとんとした、予想外の言葉に驚いたような顔だった。
「あれ、紡も覚えてんの? てっきり忘れられてんのかと」
「そんなわけないです! だってあれがきっかけで僕はバスケを続けられたし、風高に来たんですよ? あのとき先輩が声かけてくれなかったら……ほんと、どうなってたか」
そう言ったきり、紡は俯いてしまった。
バツが悪い、と言ったところだろうか。大翔がずっと自分のことを気にかけてくれていたことはとても嬉しい。でも、あのころの自分のことを、大翔が覚えていることを知ってしまった今、隣にいることを、どこか居心地悪く感じてしまう。
そんな紡に、大翔は言葉を選ぶように慎重に続けた。
「……なんつーか、あのチームと紡を見てて、なんかすごく嫌な感じがしたんだ。だから声をかけた。俺には、そういう何気ない言葉に救われたことがあったから。この選手にはこのままで終わって欲しくないって、本気で思った。
次の年の中総体も見に行ってたんだ。後輩の試合を見にな。でもそのときトーナメント表から十村中学の名前が無くなってたのを見たとき、すごくショックだった。あの選手は、本当にあのまま辞めちまったんだなって、すごくモヤモヤした。
でも、ほんとは違ったんだよな?」
大翔は紡の頭にぽんと手を乗せた。
「半年くらい前、新入生が入って来て、バスケ入部希望の子が何人か来たとき、お前のことを見つけた。最初はまさか……って思ったけど、プレーを見て確信した。あのときの選手だって。しかも、シュートやドリブルの精度はかなり上がってた。ああ、あれからすげぇ努力したんだなって、すぐにわかった。それが嬉しくてすぐに声をかけようとしたんだけど、お前は全然覚えてなさそうだったから、やっぱり止めた。まあ俺だけわかってりゃいいかなって」
紡は俯いたまま、静かに泣いていた。大翔の一言一言が沁み渡るように胸をうつ。
なんか、もう、ここまで筒抜けならいっそのこと清々しかった。この人は、自分のことを誰よりもわかってくれている。それに対する喜びの方が大きい。
「僕ががんばれたのは……先輩が励ましてくれたからです」
「そりゃ嬉しいよ。でも、頑張ったのはお前自身だ」
紡は赤くなった目で上目づかいに大翔を見上げる。
差向かった大翔の顔も、なぜか泣く寸前のような顔で――
「よく頑張ったな」
自分の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
「風高に入って……成長したところ……先輩に見て貰いたくって……」
「うん」
「一人で上手くなっても……全然楽しくなかった……そんな中先輩の言葉だけが糧だったんです……」
「そうか」
「風高の人たちとバスケしてるとき……もう、全然、信じられないくらい楽しくて……あのとき、頑張って良かったって……本気で思えて……だから飛永先輩にもずっとお礼を言いたいと思ってて……でも先輩は、もう覚えて、ないんだろうなって……そう思ったら、ずっと、言うに言えなくて……」
「そっか、悪かったな」
紡は溢れる涙をごしごしと拭った。もう一度大翔の目をしっかりと見る。
「飛永先輩、あのとき声をかけてくれて、本当にありがとうございました」
「うん、どういたしまして」
大翔は笑顔で答えてくれた。自分の中でわだかまっていた何かが一気に飛んで行ったような気がする。やっとお礼が言えた。そのことで心が晴れ渡るような思いだった。
「僕、風高に入って、本当に良かったです」
尊敬できる先輩に、努力し合える同輩たち。こんなにいいメンバーに恵まれるチームは、そうないだろう。
ここで、自分も頑張りたい。心底からそう思えるのだ。
「そっか。……お?」
笑顔で頷いたかと思うと、大翔は空に目を向けた。
「雨、上がったな」
「そうですね」
眩しいほどの太陽の光、それらが照らし出す街並みは地表の水滴をきらきらと反射して、別物ような景色へと様変わりさせる。
「飛永先輩」
「ん?」
バスの停留所から顔を出す大翔に向かって声をかけると、大翔はこちらも見ずに生返事した。でもこれは言っておかなくてはならない。
「このこと、他の人たちには内緒ですからね」
「へ? なんで?」
「なんでって……そりゃなんか恥ずかしいじゃないですか。これは、二人だけの秘密ってことで……ね?」
紡は上目づかいで尋ねる。というか紡が座って、大翔が立っているから必然そうなってしまう。しかし、
「ば……」
何ゆえか、大翔の顔は赤かった。
「あれ、どうしたんです? 顔が赤いですよ?」
紡が尋ねると、大翔は怒ったように人差し指を突きつけてくる。
「お前絶対わざとやってるだろ! お前自分が可愛いの分かっててそういうことやってるんだろ!」
「ええ⁉」
「うるうるした可愛い目で上目づかいにさぁ! しかも『二人だけの秘密』って! 可愛すぎるだろうが!」
「ぼ、僕はそんなつもりないです!」
「お前ほんとそういうの自重しろよな! 俺の雫への思いを霞ませないでくれ!」
「し、しず……天野先輩は関係ないじゃないですか。先輩は、こんなときでも天野先輩のことばっかりですね!」
「だからそういうのも言っとくけどあれだからな! 殺し文句だからな! お前が女の子なら俺下手したら落ちてるからな!」
「な、何言ってるんですか! 僕は男ですよ⁉」
「だから理性ではそうだとわかっててもさぁ――」
その瞬間、二人は「ハァハァ」という荒い呼吸の音を聞いた。
するのは停留所の裏からだ。
いったん外へ出て、恐る恐る裏へ回ると、そこには、
「うげ……」
「姉さん⁉」
顔を真っ赤にした雪菜が立っていた。
そしてなぜか、硲下もいる。
「ほらほら、私たちのことは気にせず、続けてください! 理性ではわかってても――なんですか⁉」
「いい加減にしてよ! もとはと言えば姉さんのせいで!」
恥ずかしいやら悔しいやらで、紡は雪菜を罵り続けた。
晴れ渡る空のもと、眩しいばかりの光景がそこにはあった。
*
姉弟ゲンカが勃発するなか、大翔は硲下に尋ねる。
「お前らいつからいたの?」
傘をくるくる回して水滴を飛ばす硲下は、こちらに顔を向けた。
「紡の『このこと、他の人たちには内緒ですからね』から」
「ある意味絶妙なタイミングだな……」
「内緒の内容、気になる」
対して興味もなさそうに、硲下は尋ねてくる。
「悪いけど、それは言えねぇな」
大翔はわーわー騒いでいる早坂姉弟を見つめている。
あの言葉が支えになった。紡からそう聞いたとき、本当にあのとき声をかけてよかったと思った。どんな努力も必ず報われる、とは言わないが、それでも努力しなければその先に展望はない。
これから先、紡は多少の困難があったとしても、その先の展望を見据えて努力することができるだろう。その大切さを、今回のことでよく知ったはずだから。
いつだって、未来を切り開くのは、自分自身だ。