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だから嫌だったのだ。
こんなことだろうと思っていた。奴が帰省していて、何も起こらないはずがない。紡は自分の部屋にばら撒かれていたアレらを見て、やっとそれを思い出した。
しかし一度大翔たちを家にあげた以上、もう後には引けない。とりあえずこの部屋からいったん遠ざけ、アレらを片したのち、もう一度招くしかあるまい。問題はどのようにしてそう導くか。
「俺たちは別に気にしねぇぞ、なぁ?」
「うん、むしろそっちのが落ち着くかも」
大翔と硲下はそう言ってくれるが、事はそう単純なものではないのだ。あんなものを見られたら、間違いなく誤解されるだろう。そしてその誤解は尋常ならざる嫌悪感を二人に与えてしまうことだろう。きっともう自分はバスケ部にはいられない。
――では、どうする?
もう今の時点ですでに、何らかの不信感は与えてしまっているはずだ。いや、そんなこと言ってる場合ではないのかもしれないが。今自分の背中のすぐ後ろにあるこの扉が自分にとっての最終防衛線。絶対に死守せねばならない最後の砦。現状ここの通過を阻止するのが最優先事項である。
「いや……これは、もう、そういうんじゃなくて――」
できるだけ何気なく言うよう努めた。しかし、その矢先である。
背中を預けていた防衛線が揺らぐ。最後の砦が、呆気なく手ごたえを失っていく。
そのときになって、紡は、ようやっと気づいた。
先ほど隣室に放り込んだ厄介なアイツは、その部屋の窓から一度外に出て、庭を伝い、紡の部屋に窓から再び侵入したのだと。そしてまた最悪なことに、アイツは内側から扉を引いたのだ。
防衛線もクソもない。バカげたほどに古典的な手法だ。先ほどの肘打ちを、仮にも女性であるという理由で手加減した自分を呪った。
そしてあとはもう、ただ祈るばかりである。
――飛永先輩、硲下先輩、どうか僕を嫌いにならないでください……
半裸の男と男が絡みあう表紙の薄い本の海と、そのただ中で不敵に笑う忌々しき姉。
そこに転がり込んでいく自分の姿は、お二人の目にいったいどう映ったことだろうか。
「申し遅れました。わたくし紡の姉をやらさせていただいている雪菜というものです」
紡の部屋の中央で正座して、紡の姉である雪菜は大翔と硲下に向かって深々と頭を下げた。
長い黒髪を一束に結わえ、肩から胸元へと流しているその容貌はまさに清楚の一言に尽きるが、その実態はこの者と自分との血のつながりを本気で疑いたくなるレベルである。当然、悪い意味で。
「先ほどはお見苦しいものをお見せしてまって、大変申し訳ありません。まさか来客があるとは聞いていなかったもので……あ、ちなみにさきほど片したBL本の数々、ものの全てわたくし自身の私物でありますので、その点はご安心ください。この愚弟は至ってノーマルであります。つまらんことに」
「つまらんは余計でしょ、姉さん」
珍しく紡は怒りを表にさらけ出していた。
「はぁ、ではさっきのは雪菜さんのご趣味で?」
やや困惑気味に、大翔は苦笑いで尋ねる。こんなこと毛ほども興味ないに違いないのに、あえて少しだけ触れてくれるのは、それほど気にしてないですよという優しい意思表示だろう。
だというのに、我がバカ姉はいったい何を勘違いしたのか、
「ま、まさか興味がおありで⁉」
「そんなわけないでしょ! いい加減にしてよ姉さん!」
紡が怒鳴ると、あう、と雪菜は怯んだ。
「まあ、趣味は人それぞれですから。しかしまたなんだって紡の部屋にあんなものをばら撒いていたんです?」
大翔が改めて尋ねる。当然の疑問だろう。しかしその答えを聞くまでもなく理解できてしまうのが紡には悔しかった。
雪菜もまた、当たり前のようにこう答えた。
「そりゃもう、目覚めさせるためですよ」
「……はい?」
大翔と硲下は顔を見合わせている。紡は恥じ入るように頬を染めた。
「いやね、姉のわたくしが言うのもなんですが、紡くんはかなり可愛いと思うんですよ。それこそ、少なからぬ男たちに色目を向けられるくらいに。こんなおいしい家庭環境を無下にできるわけがないでしょう?」
まるで一足す一は二ですよね? というくらいに確信に満ちた尋ね方だった。彼女は自分の趣味嗜好が偏っているという自覚がない。
「だからまあ、こんなことは日常茶飯事でありまして、どうにか紡くんに確変を起こしてやろうと常日頃から企んでいるわけです。……で、今日のこの状況でありますよ」
雪菜は不意に目を遠くして、どこか恍惚とした表情を浮かべ始める。
「不意に訪問してきたあなた方を見て、これは、と思いました。いえ最初はそれこそあらかじめばら撒いておいたアレらをすぐに片さなくてはと思ったんですが、やはりこんなおいしいシチュエーションはそうないわけですよ」
「僕らが来たのが、おいしいんですか?」
よくぞ聞いてくれた、と雪菜は目を輝かせる。
「その辺の女の子なんかより圧倒的に可愛い後輩の部屋に行って、そこで大量のBL本を目撃したとき、果たしてその先輩たちはいったいどんな反応を示すのか! それを一秒で十二パターン妄想し、気が付いたら実行に移していた次第であります」
うげ、と大翔は明らかに体を五センチほど引いた。代わりに雪菜は十センチほど身を乗り出す。
「紡くんを独りでに目覚めさせるのは困難、ならば外堀から埋めてしまおうというわけです! で、どうでしたか実際のところ? 少しどきっとしましたか? 紡くんが急に可愛く見えてきませんでしたか⁉」
「なんてこと聞くんだよ! ほんといい加減にしてよ!」
紡は恥ずかしいやら悔しいやらで顔を真っ赤にしていた。
「さっきの……BL本? それらは抜きしても、確かに紡がすっごく可愛く見えるときはありますね」
「きゃあああああああああ――――――――――――――っ!」
「姉さんうるさいっ! 先輩も答えなくていいですってば~!」
もう耐えられない。そう思った紡は雪菜の腕を引っ付かんで部屋の外へと押し出し、扉を乱暴にしめた。そしてその扉に向かって涙交じりに小さく呟く。
「もう……もう、もう! 姉さんのバカ!」
するとその背中に向かって、大翔と硲下が言葉をかけてくる。
「面白れぇ姉さんだな。見た目おしとやかそうなのに」
「……俺は少し目が怖かった」
普段は表情の起伏に乏しい硲下だが、確かに雪菜が声をあげるたびに体をびくびくさせていた。あんなのに話を合わせられる大翔の方がすごいのだ。
あまつさえ、冗談とは言え、自分のことを――かわいいだなんて。
「と、ともかくあの人のことは忘れてください、できれば部員のみんなにも黙っていてほしいです」
「忘れろったって、あそこまで衝撃的だとなぁ。まあ紡がそういうなら部員の奴らには黙っとくけど。硲下もな」
「うん。でも忘れるのは本当にむり」
「はぁ、ですよね……」
紡はため息をつく。しかしそこでなぜか大翔はフッと笑みを浮かべた。
「でもさっきの紡は新鮮だったよな」
大翔が言うと、硲下も青い顔を少し和らげて続く。
「うん。あんなに怒ってる紡は初めてみた」
言われ、我を忘れて立腹していた自分を恥じる。姉につられて自分も醜態をさらしていたことに気づいたのだ。
「す、すいません。姉さんには常々ああいうことをされてるもので、ついムキになっちゃうんです」
「なんで謝るんだよ。いい意味で新鮮だったって言ってんだ。俺はさっきみたいにムキになってる紡も好きだぞ」
「す……」
今度はまた別の理由で紡は顔を赤くした。というか先ほどから、ずっと赤いままだ。しかしその朱が明らかにこれまでより一層深まる。
「飛永先輩…………好きとか、可愛いとか、そんな軽々しく言わないでほしいです」
「あ、わり。気持ち悪かった?」
「ああいや、そういうんじゃ! ただ、うちにはそういう言葉に敏感な姉がいるもので……」
言いながら紡は背後のドアをもう一度開ける。その向こうでは膝立ちした雪菜が集音する形で耳に手を当てていた。恐らくドアの前で耳を澄ませていたのだろう。だがやがて扉が開かれたことに気づき、ややばつが悪そうに、
「失礼。呼ばれた気がしたもので」
「気のせいだよ」
ぱたり。紡は一言そう言って扉をそっと閉じた。
そしてどっと疲れが押し寄せる。
「まあ、大したものは何もないですけど、ゆっくりしていってください」