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かくして二日目も終わり、続いて三日目もつつがなく練習終了を迎える。
これで合宿の前半を消化したことになるわけだ。明日に控える中休みの後、再び地獄に相まみえることになるわけだが、とりあえず今はその先は考えないでおきたい。
明日は久しぶりの練習休みだ。束の間の安息だ。この喜びをしばしの間噛みしめたく思う。
しかしその中休みを前に、こんなことがあった。
「というわけで今夜の終電でいったん家に帰ります本当にありがとうございました」
血の気の失せた、この世の終わりを見てきたような顔で新谷加寿美が呟く。
その手には合宿用の荷物。そして隣には弟の彪流の姿まである。彼の方も加寿美ほどではないものの、かなり残念そうな表情をしていた。
「すいません、うちの母ちゃんが体調崩しちゃったみたいで。明日は俺たちが店に出なきゃならないんス。彩羽の世話も必要ですし」
彼らは『新谷食堂』を切り盛りする肝っ玉母ちゃんの娘と息子だ。そして年の離れた妹――彩羽の姉と兄でもある。その二人が母から合宿所からの一時帰還を懇願されたらしい。
「いや、そりゃ仕方ないことだし、気にすることはねぇけど……新谷、お前大丈夫かよ。顔色が尋常じゃねぇぞ」
大翔は心配そうに尋ねる。
しかし反応のない加寿美を見かね、今度は彪流に尋ねた。
「おばさん、そんなに悪いのか?」
「いや、ただの風邪ッスよ。大したことはないかと」
「え、でも、新谷の顔色、ただならぬ雰囲気なんだけど」
もしかしたら他人には容易に口にできないレベルの事態なのかと思ったが、彼女の顔色が尋常でない理由は、尋常でないほどバカらしい理由だった。
「楽しみにしてたのよ……」
不意に紡がれる加寿美の言葉。
大翔はいぶかしげな顔で、
「は?」
「楽しみにしてたのっ!」
まったく意味がわからない。
呆然とする大翔をよそに、加寿美は一息に言った。
「辛く苦しい合宿を頑張って、その一寸の安息のとき。昼間は海で遊んで、バーベキューなんかもしたりして、夜は海辺で花火。バカ騒ぎあり、一方でしっとりと物寂しい雰囲気もあったりさ。でもそういう一つ一つが思い出になるんでしょ。なのに……こんな仕打ちって!」
「まあ、気持ちはわからんでもないけどよ……」
加寿美は悲壮感たっぷりに両手で顔を覆ってしまったが、大翔はいまいち乗り切れない。
「水着姿の雫とキャッキャ、キャッキャしたかったっ!」
「まあ落ち着けよ」
まあ、その点については激しい同情を禁じ得ない。明日自分は、水着姿の雫を拝めるのだ。
そんなときである。
「くわちゃんっ!」
天使降臨だ。
雫登場である。
そして彼女の手にあるのは――、一抱えほどの花火。
「花火買ってきた! 今からみんなでやろ!」
雫のそんな誘いに、加寿美は顔を上げたが、しかしすぐに首を振る。
「でも、もう終電が――」
「やってけば?」
言ったのは彪流だった。
加寿美は振り返り、呆けたような顔で、「へ?」
すると彪流は力なくため息をつき、こう続ける。
「俺だけ先に帰るよ。仕込みもちゃんとやっとくし。姉ちゃんは明日の朝一の電車で帰ってきてくれりゃ、それでいい」
「……なんで」
「いや、なんでって言われても……」
彪流はしばし答えあぐねる。後頭部を理由もなく掻き、しかし迷ったあげくに彼はこう答えた。
「姉ちゃんにとっては多分最後の夏合宿だろ。だったら少しでも楽しめって。俺は来年もあるだろうし」
「彪流……」
うるうるとした目で加寿美は弟を見上げる。すると彪流は照れた様子で、
「朝にはちゃんと帰ってこいよな。姉ちゃんじゃないと出せないメニューあんだから」
「うん、わかってる。ありがとね彪流」
「いいよ別に。一昨日に俺も迷惑かけたし」
合宿一日目、食事当番だったにもかかわらず調理中にぶっ倒れてしまった彪流たちに代わって、腕を振るったのは加寿美だった。
大翔も多少力添えはしたが、『新谷食堂』で鍛え上げられたあの神懸った腕前がなければどうにもならなかった。
「じゃあ俺はそろそろ行くよ。大翔先輩、明後日にはちゃんと帰ってきますんで。雫先輩、姉ちゃんのことよろしくッス」
「おう。気をつけてな」
「おばさんと彩羽ちゃんによろしくね~」
合宿所を去っていく彪流の後ろ姿を大翔と雫は手を振って見送る。その隣で「やったぁ」と呟きつつ、小さくガッツポーズをとる加寿美はなんだか幼い子供のようで可愛かった。
ところがだ。
「じゃあ私みんな呼んでくるね」そう言って駆け出す雫を、なぜか加寿美はとろけた顔で呼び止めた。
「ううんいいのいいの私は雫さえ一緒にいてくれればそれでいいのあと今夜は絶対寝かさないからね残り三日分の英気をたっぷり補充させてもらうんだからウヒヒヒヒ~」
「く、くわちゃん⁉ なんか目がおかしいよ⁉ なんか怖い! やだぁ~!」
「まずは水着に着替えよっか! え、夜の海は危険だって? ううん大丈夫海に行く必要なんてないもの、私は慣れない水着姿に恥じらう雫が見られればそれで――あうっ⁉」
加寿美が言葉を詰まらせたのは、大翔が彼女の頭をスリッパで叩いたからだ。
「嬉しすぎて舞い上がってんのはわかるけど、落ち着け。キャラ変わってる。雫がもうガチでびびってる」
刺激を受けて我に返った加寿美は、かあぁっと顔を真っ赤に染めた。
「ご……ごめん……私ったらまた……」
一転心底恥ずかしそうに体を縮こまらせる加寿美はもう見ていられないほどだった。
「雫、もう大丈夫だ。みんな呼んできてやれ。あと男どもも声かけてきてやってくれるか?」
「う、うん、わかった!」
駆け出していく雫。残された大翔と加寿美はなんか気まずい雰囲気だった。
何かフォローすべきだろうか。しかしいったいどうすればいいというのか。そんなことをもんもんと考えていた矢先。
「きゃああ⁉」
不意に聞こえた雫の悲鳴に、大翔と加寿美は尋常ならざるスピードで彼女のもとに駆け付けた。果たして現場は、男子用のシャワールーム前だ。
「雫大丈夫⁉」
「どうした!」
目をくるくる回している雫を加寿美が抱きかかえる。雫は「おしり……お、男の子のおしり……」と意味不明なことを呟いている。
しかし顔を上げてやっとわかった。なぜかそのシャワールームは扉が開いている。
そしてその扉の向こうでは、全裸状態の白峰がお尻をこちらに向けて仁王立ちしていた。
大翔と加寿美の心は一つになった。
「白峰てめぇ、雫になんて汚いものを……」
「死ぬ準備はできてるのよね?」
静かに戦意を燃やす二人を前に、慌てているのは白峰一人だ。
「ま、待て! 言っておくがいきなり開けたのは天野の方だぞ⁉ これで俺が責められるのはあまりにも理不尽……があああああああああああ!」
理不尽は百も承知。
しかしどうあっても雫を悪者にできない大翔と加寿美は心を鬼にして白峰に成敗を与えるしか道は残っていなかった。