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そのときだった。
「いいこと言うじゃん」
「げ、聞いてたのかよ」
不意に囁いてきたのは加寿美だった。
「人間我慢強く頑張れば、どこかに光るものが……か。月並みだけど、あんたが言うと重みあるわね」
加寿美は手元のボールに視線を落とし、何やら物憂げな表情を見せる。耳の少し前の辺りを一筋の汗が伝っていた。
「死ぬほど努力しまくって、未だ半人前だけどな」
「得点よりスティールの方が多くて当たり前なんて、あんたくらいのもんよねぇ」
「チームへの貢献の仕方なんて人それぞれだ」
「もちろんそうよ。だけど私は――思うのよ」
加寿美は一つドリブルをつく。瞬間、なぜかそのボールの弾む音だけが、大翔の聴覚の一切を支配する感覚がした。
館内のざわめきが遠ざかる。
「その半人前ディフェンス馬鹿が本来の攻撃力を取り戻したら? ほんの何かのきっかけで、あんたの実力の半分を封じ込めている箍を外すことができたら? あんた多分、とんでもない選手になるわよ」
加寿美に言われ、はっとする。
なぜか考えたこともなかった。
攻撃時に条件反射的に体が硬直してしまうあの感覚。あれが無くなれば、自分はいったいどんな選手になるのだろう。
攻撃時にと一口に言っても、あらゆるオフェンスのシチュエーションで、体の硬直――イップスが起こるわけではない。例えばノーマーク時(相手ディフェンダーがいない状態)やフリースロー(シュートモーションに入った後の被ファールの際に与えられるシュートチャンス)のときには起こらない。
しかし目の前にディフェンダーがいる際の、それを抜きに行ってのシュートや、すぐ後ろからディフェンダーに追われているときなどにはどうしても動きがブレる。思い通りに体が動かなくなる。それが今の自分だ。
もはやそれは受け入れていた。それが自分なのだと。
確かにその点は大きな束縛になっているが、それでも自分はディフェンスという残り一かけらに大きな可能性を見出し、努力を積み重ね、ようやっと光るものを手にしたのだ。
そして今、その束縛から解放されるとしたら。
やや遠回りではあったが、それでも県下トップクラスの選手たちにも恐れられるほどのディフェンス力を手にした自分が、本来の力を取り戻したとしたら――
想像の及びもつかない。夢物語じみていた。
そうあり得ない話でもなかったはずなのに。
「なんで急に、そんな話を?」
大翔は加寿美に尋ねる。
「別に深い意味はないわよ。ふとそう思っただけ。忘れてもらっていいわ」
彼女は一つ汗をぬぐい、歩みを進めていく。運動時には常に一房にまとめて後頭部にピンで留められている色素の薄い髪が、頼りなげに揺れている。
そんな中、加寿美はもう一度だけ振り返り、
「でもそんな風に思ってる人、結構多いんじゃないかしら。いつかの飛永大翔の覚醒の瞬間を見てみたい、なんてね」
意味ありげに言うその瞬間だけは、不敵な笑顔だった。
「くわちゃん、次わたしたちの番だよ。早く早くーっ」そして彼女に遠くから声をかける雫。
「はいはい、今行くってば、ほんとしょうがないわね~❤」
雫に名を呼ばれて一転でれでれ顔になった加寿美を見て、大翔は何かの夢を見ていたような気分になった。
――ま、今考えてもしょうがないか。
とりあえずは加寿美の言葉通り、忘れさせてもらうことにした。
そう決めたとき、「ん?」
自分のすぐそばで立ち尽くす大文字を発見した。「ディフェンスの立ち位置? 利き手側を意識? ……ふ、複雑すぎていったいなにが何やら……」頭に脂汗を浮かべながらぶつぶつと呟いていた。
大翔はフッと息をつき、大文字のそばに歩み寄る。
「わからないなら教えてやるよ。ディフェンスの構えとってみろ」
「あ、はいッス!」
とりあえず今は、自分のやるべきことをやろう。