2-21
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しかしいつまでも項垂れている暇はなかった。可愛い後輩たちのここまでの頑張りを無下にはできない。大翔は彪流のつけていたエプロンをそのまま借りて、身に着ける。
それから取り出した携帯で新谷加寿美に電話をかける。
ややあって返ってきたのは、彼女の疲れ切った声だった。
『なに?』
「あー悪いんだけど、今から調理室に来て、晩飯作んの手伝ってくんねぇか? 今日の当番の一年生組が全滅してんだよ」
『えー……はぁ……まあ、うん……』
渋々快諾と言った感じで加寿美はそう零すが、乗り気でないのは明らかだ。当然だろう。みんな練習ですでに疲れ切っている。加寿美とてその例外ではない。
大翔は携帯を肩と頬の間に挟み、すでに調理を始めながら会話をしている。鍋でカレー用の野菜をいためながら、
「悪い、この通りだ。お前が来てくれなかったら、雫に包丁持たせることになっちまう」
と、そう言った瞬間だった。加寿美の声のトーンが一気に変わる。
『え、雫もいるの⁉』
「ん? ああ、そうだけど」
『ばかアンタそれを先に言いなさいよ! 最優先事項じゃないっ! 今すぐ行くから待ってて!』
「ん、じゃあ頼――」
大翔が言い終わるよりも、電話を切られるのが早かった。
かくして大翔は加寿美とともに夕飯の準備を進めていたのだが――
そんな大翔のことを恨めし気に見つめ続ける目があった。
「えっと……なんでしょう?」
「『なんでしょう?』じゃないよ!」
プンスカ! と怒りの声をあげるのは、先ほどから調理場で何をするでもなく立ち尽くしている雫だ。力尽きた一年生たちを介抱した後、次なる指示を受けるために大翔の傍で待機していたのだろう。
「くわちゃんには電話で呼び出してまでお願いするのに、私には何もお願いしてくれないんだね!」
「え、ええ~?」
そこかよ――、と大翔は少し疲れの籠った息をはく。
確かにさっきからこれ見よがしにエプロンの着脱を繰り返していたり、念入りに手洗いをしていたり、「う、ううん」と大仰に咳払いをしていたりしたのだが、どうやらそれは「早く指示をくれ」というアピールだったらしい。
だったら素直にそう言えばいいものを。無駄にかわいいとこを見せつけてきやがる。
「じゃあ――」
と、雫に指示を出そうと調理場を振り返る大翔だったが、
「…………え、ええと……」
カレーの煮込み番 ← うっかり焦がされるかも……
サラダ用の野菜の切り分け ← 包丁で指斬るかも……
使用済みの調理器の洗いもの ← お皿割って怪我するかも……
各種食器の配膳 ← その辺で転んで怪我するかも……
「…………う、ううむ……」
どれを任せてもリスクを伴いそうだった。ふざけているわけではない。大真面目である。雫が自宅で割った皿の枚数は、雫が調理場で何らかの作業を行った回数に匹敵する。
まさにハイリスクローリターン。ドブに金をぶちまけるがごとき愚かな選択。
で、あるのだが、「うっ⁉」
大翔のその心中の葛藤を察したのか、怒りを通り越して目を潤ませ始める雫。そんな目に見上げられ、大翔は狼狽ぶりを隠せない。
――せ、せめて魚料理なら捌くのを任せられるんだけど……
魚を捌くときだけは別人のような包丁さばきを見せる雫だ。しかしそれ以外の作業となると危なっかしくて任せられない。かと言って雫を『役立たず扱い』はできない。これは一体どうしたものだろうか。
「……ええと……あ~……」
どうすることもできなかった。
「ひろちゃんのバカ! もう知らない!」
「ええっ⁉」
とうとう痺れを切らした雫は、可愛らしく肩を怒らして大翔のもとを離れ、加寿美の元へ向かって行く。そしてそれに気づいた加寿美は、
「どうしたの雫?」
「わたしに手伝えることない?」
「うーん、そうね……」
ぐつぐつと煮込んでいるカレーをおたまでかき混ぜながら黙考すること数秒。加寿美は雫に指示を出した。
「私はカレーの火を見てるから、雫はその私のことを見てて」
意味わかんねーっ! と大翔は心の中で叫んだ。ようは『お前はなんもせんでいい』という戦力外通告に他ならない。しかしその絶妙な言い回しが功を奏したのだろう。
「りょーかい!」
と雫は笑顔で承服する。
「いい? 気を抜いちゃだめよ。一心に、愛でるように見つめるの」
「……はい」
言われるままに、雫は真剣な眼差しで加寿美を見つめ続ける。
先に根を上げたのは加寿美の方だった。
「う、うん。ごめんもういいや。このままだとどきどきが止まんなくて死にそう」
あながち冗談でもなさそうに、顔を真っ赤にした加寿美が答える。
「えー」
「その代わり、みんなを呼んできて。もうカレーできそうだから」
「イエス、マム!」
雫は嬉々とした表情で敬礼し、部員のみんなを呼びに向かった。その背中を大翔は何となしに見送りながら、
「自分から指示出しといて、何一人欲情してんだよ」
「よよよよよよよ欲情言うなっ! そんなんじゃないわよ!」
大翔がぼそっと零した加寿美へのツッコミに、加寿美は動揺しまくりの状態で、説得力皆無の抗議をしてきた。