2-19
「うう~」
雫は手洗い場のシンクの淵に両手を置き、その場にしゃがみこんで項垂れていた。
恥ずかしくてたまらない。穴があったらそこに入って、これでもかってくらいに厳重にふたをしてもらって、しばらくの間は野原に咲く一輪の花のようにそっとしておいてほしい。
そんなアホみたいな願いを胸の中で唱えながら、雫ははぁ、と重いため息を吐く。そしてゆっくりと立ち上がる。鏡の向こうにいる自分の姿をどこか遠い目で見つめる。
そもそもの始まりは今朝の出来事だ。寝過ごし路線真っただ中だった自分をどうにか起こそうとして大翔が行った最終手段――「背中攻め」。
その結果出てしまったのが、あの声だった。
うんもう端的に言ってしまおう、あのえっちな声だ。
自分でもすぐには自分が出したと気付かなかったくらいに無防備ではしたなかった声。寝起き直後だった自分にはそこに制御をかけることができなかった。
で、この雰囲気というわけである。これで大翔の方が何も気にかけてなければ少しは救われるのだが、とんでもない。
意識しまくりである。本日何十回目が合ったことか。
まさか大翔が普段から自分をこんなに頻繁に見ているわけはないだろうし、間違いなく今朝のことを意識しているのだった。
そして今思えばだが、つい最近、同じようなことがあった。
期末テストの前日、加寿美の家に泊まっていた時のことだ。あのテスト当日の朝も危うく寝過ごしかけたのだが、加寿美が苦心の上に生み出した「背中攻め」で雫は何とか起きることができた。
そしてその時にも例のごとくえっちな声が出てしまったのだが、そのときは気にせずに済んだのだ。相手が同性だったから。(加寿美の方はなぜか、それ以来しばらくカチコチになっていたが)
そこでピンときた。天啓とでも言うべきひらめきだった。
「ひろちゃんは……同性?」
これしかないと思った。
「ひろちゃんは、女の子?」
こういうときは思い込みが肝心だ。いかに自分自身を騙せるかだ。
「そうだ……ひろちゃんは女の子みたいに料理が上手だし、甘いものが好きだし、わりと泣き虫だし、むしろ男らしさを感じたことなんて皆無だし! かっこいいというよりどう考えても可愛い系だし!」
実際そんなことはない。大翔をかっこいいと思ったことなんか何度だってあるし、その度に大翔を男の子なんだなと思ってもきた。その男らしさに救われたことだってある。
だが今この瞬間だけは飛永ひろこちゃんだ。わたしの可愛い可愛い従妹ちゃんだ。
「ひろちゃんは女の子! よし、これでいこう!」
そこでちょうど五十秒がたった。雫は慌ててトイレの外へと向かう。
出くわしたのは、しくしくと泣いている大翔だった。
「あれ、なんで泣いてるの?」
「……うん、大丈夫だから、何も聞こえてないから。俺全然平気だから」
「はぁ、そう?」
大翔が泣いている理由は微塵もわからないが、一方で自分は意識の持ちようで――大翔を女の子と思うことで――驚くほどあっさりと大翔のことが気にならなくなった。
こういうときは自分の単純さに感謝する。なんでさっきまで大翔のことなんか意識していたのだろうと正気を疑ってしまうレベルである。
ともかくだ。
「ひろちゃん、トイレ掃除だよ。今は誰もいないはずだから、一緒にぱぱっとやっちゃおう。まずは女子トイレからね」
「え⁉ 女子トイレ⁉」
「うん、ひろちゃんなら平気でしょ?」
何故ならひろちゃんは女の子だから。何の問題もないはずである。
「……ソウダネ」
そう返したときの大翔の目がまた潤み始めていたのは、目にゴミが入ったからだとか、多分そんな感じなのだと思う。