2-10
合宿当日の朝は忙しなかった。
午前六時二分。
天野宅二階、雫の自室にて。
大翔は、眠り姫を目の前にしておろおろと戸惑っていた。
「おい、いい加減に起きろ雫。電車に乗り遅れるぞ!」
「いえいえぇ~、私が落としたのは普通の斧ですよぉ~?」
「正直者なのは感心するけど、今は寝ぼけてる場合じゃねぇんだってばっ!」
合宿当日である今日は、午前六時半までに徳島駅前に集合しなければならないのだが、もはや時間的にはそのデッドラインに踵がはみ出ている状態だ。
低血圧一家である天野家の正統血統である雫が朝に死ぬほど弱いのはすでに分かっていたことだったが、すっかり油断していた。
昨夜の寝る少し前に「明日はちゃんと自分で起きるから。キャプテンとしての自覚をしっかりもたなきゃだもんね」とほんわかした表情の中にも凛々しさを滲ませながら言われては、それを素直に信じてみたくもなってしまう。
よって大翔は朝食を作りながら、雫が自分で起きてくるのをぎりぎりまで待つことにしたのだが、いつまでたっても起きてこない。
だからこうして雫の部屋に恐れながらも踏み込んで、大翔自ら起こしにやってきたわけだが、それでも起きてくれない。いくら声をかけても、それは雫の夢の中で全く別の言葉に変換されて、彼女をさらなる夢中の幻想世界へといざなう。
「え、そんな、金の斧とか、困ります! いや、別に遠慮とかじゃなくて……その、少し重いっていうか……」
雫は目を瞑ったまま、身振りを交えて何かを拒んでいる。ビデオにでも撮って永久保存しておきたいくらい可愛い光景だが、今はそんな余裕がない。
「そんなのどうでもいいから、頼むから起きてくれよ! ほらほら、さっさと起きないとほっぺにチューしちゃうゾ❤」
「だからいらないって言ってるじゃないですか!」
「全力で拒否された⁉」
それから肩を揺すっても、ほっぺたを軽く引っ張っても全然起きてくれない。もう少し手荒なことをすれば起きてくれそうだがさすがにそれは気がひけるし、代わりに雫の両親である巌人さんか恵さんにやって貰おうにも、その二人だって絶賛爆睡中である。
というか巌人さんも明朝から漁に出る予定があったような気もするのだけれど、……まあいいや。さすがにそっちまでは面倒見きれない。
そしてとうとう途方に暮れた大翔は、
「……こうなったら、」
おもむろにポケットから携帯電話を取り出した。
それから、新谷加寿美の番号を呼び出し、電話をかける。すると、
『おはよ、何か用?』
恐らくクソ真面目に早起きしたのだろう加寿美の声は、早朝のものとは思えないほどしっかりとしていた。さすが、いざというときに頼りになる奴だ。大翔はかいつまんで今の事情を加寿美に話す。
しばらくあって、電話の向こうから深いため息が聞こえてきた。
『確かにあの子、熟睡してるときは何やっても起きないのよね……』
雫と付き合いの深い加寿美も、この苦労のほどは理解しているらしい。電話なので顔は見えないが、恐らく眉間に皺を寄せて考え込んでいるのだろう、『う~ん』と、声にならない声を漏らし続けている。
『鼻つまんでみたらどう? 苦しくなって起きるんじゃないの?』
「さっきやったけど……途中で信じられないくらい苦しそうな顔されて、怖くなってやめた」
『そ、そう。じゃあ、くすぐってみるとか?』
「……それ俺がやったらセクハラじゃね?」
『そんなこと言ってる場合じゃないでしょ⁉ もう六時十分よ⁉ あんたたちすぐにでも家出ないと遅刻するわよ!』
「あーあーはいはいそうですね! おっしゃる通りです!」
大翔は意を決して、行動に移ることにする。しかしさすがに眠りこけている無防備な異性の体に素手で触れるのもどうかと思うので、近くにあった太いマジックを手にとった。
「あの、ちなみに加寿美さんは雫の弱点とかはご存じで?」
大翔は未だ通話中の電話に語りかける。
すると加寿美はまたしばらく黙考した後、
『アンタ、しばらくの間、雫と気まずい感じになるのは我慢できる?』
「へ?」
言ってる意味がよくわからず、大翔は尋ね返す。すると加寿美は少し苛立った様子で問い重ねてくる。
『多少雫とアレな感じになることも覚悟で、私に雫の弱点を聞いてんのかって聞いてんの!』
「あーはいはいそうですね! もう時間もかなりヤバいのでなりふり構ってられないと思ってます!」
何故か無意識に敬語になってしまった。
加寿美の質問の意図はよくわからなかったが、電車の時間がすぐそこまで迫っているのは確か。そして男女両キャプテンが遅刻とあっては、合宿に対するチーム全体のモチベーションが下落することは想像に難くない。
「覚悟はできてる! 知ってるなら教えてくれ!」
『……背中』
加寿美はポツリと、そう言った。
「背中だな⁉ よしわかった!」
『ちょっと待って! それを実行する前に確認!』
「は?」
『私が雫の弱点を教えたことは雫には内緒ね。これは全部アンタが一人でやったこと!』
「え、なんだよそれ、」
『いいから約束! 私は雫とアレな感じになるのやだもん! じゃあまた後でね、健闘を祈ってるわ!』
それだけ言って、加寿美は一方的に電話を切った。
加寿美の言葉は嫌なフラグびんびんではあったが、このまま雫を起こすことができないままでいるほうがきっと悲劇的な結末を招くはずだ。
ちょうど今、雫は寝返りをうつ形で、無防備な背中を大翔の方に向けていた。掛け布団は腰までしかかかってないので今は特に障害にはなり得ない。
そして大翔は通話の切れた携帯をポケットにしまい、マジックを利き手に持ち変えて、雫に向かって一歩、また一歩と近づいていく。
手や額、こめかみからは大量の汗が吹き出し始めていた。その原因は暑さや焦りのせいでもあるだろうが、恐らくその大半はこの背徳的な行動に対する罪悪感と――――ある種の興奮。
今の自分の姿を第三者視点で見たならば、恐らく言い知れぬ自己嫌悪に陥ることだろう。顔面を汗だらけにして、鼻息を荒げて、幼気な少女に歩み寄っている一人の男。そんなものを見てしまった日には、二度と女性という生命体に自分の方からは近づいていけない気がする。
――違う、違うんだ。俺はやりたくてやってるわけじゃない。こうする以外に方法はないんだ!
大翔は自分にそう言い聞かせ、深呼吸を一つ、キャップをつけたままのマジックの先端を雫の背中に押し当てる。
そして、さらに二呼吸。最後に大きく吸って、
――許せ、雫!
「っつあああ!」
裂帛の気合籠る雄叫びと共に、大翔は右手を真一文字に切り結ぶ。
(訳:雫の背中を這わすようにして、マジックを上から下へと優しく移動させた)
効果は絶大だった。
雫は、大翔の全身が総毛立つような、ともすればナニもそれに準じてしまいそうなほどの途方もなく官能的な声をあげ、覚醒した。
自らのはしたない悲鳴に自覚がある様子の雫は、顔を真っ赤にし、泣きそうな目で大翔の方を見上げている。一方で大翔の方は頭の中を真っ白にして、ただその場に棒立ちしているだけだった。
――多少雫とアレな感じになることも覚悟で、私に雫の弱点を聞いてんのかって聞いてんの!
加寿美の尋ねてきたその言葉の意味が、今になってようやくわかった気がした。