2-5
結局。
新谷母のはからいで、大翔と雫は今夜新谷宅に泊めて貰うことになった。
夜食まで用意して貰って、シャワーまで貸して貰って、大変恐縮だった大翔と雫はテスト終了後には新谷食堂で何日か働かせて貰うことにした。
大翔は料理ができるし、雫はああ見えて料理以外の家事全般は完璧だ。彼女の神懸かった清掃力に掛かれば、この古ぼけた食堂も見違えることだろう。
そして肝心の勉強の方だが、何とか形にはなった。多少ヤマ外れの問題が出たとしても、食い下がるぐらいのことはできそうだ。少なくとも、赤点をとるようなことはないと思う。
あとは明日の試験に備えて、しっかりと休眠しておくだけだ。
大翔は加寿美の弟である彪流の部屋、雫は加寿美の部屋でそれぞれ寝ることになった。
今大翔がいる彪流の部屋はこじんまりとしたもので、物で埋め尽くされていた。散らかった漫画や雑誌、そしてその中にはセクシー女優が表紙のいわゆるそういうものも含まれていて、大翔はたじろいだ。
大翔の部屋は、雫がいつ入って来ても大丈夫なように、その類いのものは自分以外には絶対に見つけられないような場所に隠してある。――にもかかわらず、雫の母親である恵さんに、その手の秘密書籍類をもれなく発見されて、しかもその全てをご丁寧に机の上に並べられていたのを見たときにはさすがに血の気が引いた。それ以降しばらくの間、恵さんの頼みごとを断れなくなったのは当然の成り行きである。
「あ、見たかったら別にいいッスよ。遠慮せず」
そのエロ本をうっかり凝視してしまっていた大翔を見て、彪流が変な気を回してきた。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。大翔は少し顔を赤くして、
「あ、アホか。別にそういうんじゃねぇよ」
「でも自分の家じゃ落ち着いて読めないんじゃないッスか? 隣の部屋に雫先輩がいるんだし」
大翔は従妹である天野雫の家、天野宅に居候している。そしてその天野宅の二階にある隣接した二部屋がそれぞれ大翔と雫の部屋としてあてがわれている。だからまあ彪流の言っていることもあながち的外れではないのだが、
「いや、今だっているじゃん……」
今いる彪流の部屋のすぐ隣には加寿美の部屋がある。そこには、雫もいるはずなのである。
「あ、そっか」と彪流は笑い、「はは、それにしても大変スね。好きな人と同じ家で暮らすってのも一見幸せそうだけど、ぶっちゃけ疲れるでしょ?」
「ああ、毎日が舞台上だよ。おならもゲップも好き勝手にできない。トイレとかお風呂も気ぃ遣うし、自分の部屋でさえ、パンツ一丁じゃいられない。雫の奴、ノックもなしで平気で俺の部屋に踏み込んでくるからな」
本当に自室ですら気は休まらないのだ。大事な受験を間近に控えた受験生のような心情である。ときおり母ちゃんがジュース片手に勉強サボってないか見に来るあの感じ。
「あの人は悪気がないのが余計やっかいスね。てかうちの姉ちゃんだって、そんなとこ気を遣ったりはしないッスよ。むしろ向こうが下着姿で踏み込んでくるッス」
彪流はうんざりした様子でそう話すが、大翔には聞き捨てならなかった。
「え、マジで⁉ 今日もそのノリで踏み込んでくるかな⁉」
「いやさすがにないでしょ。てか、大翔先輩うちの姉ちゃんの下着見たいんスか? それは意外っス」
「んまあ、特別興味があるわけじゃないけど、ただなら別に見てやってもいいかなと」
「中々のクズ発言ッスね。その言葉姉ちゃんに聞かせてみたいッス――――つーわけで」
と、彪流は突然右手で自分の鼻をつまみながら、もう片方の手――後ろ手に隠していた左手を差し出す。
その手には、筒状の小さな端末が握られていた。
「ボ~イ~ス~レ~コ~~ダ~~」彪流は得意げな猫型ロボット声でそう言った。「さきほどの大翔先輩のクズ発言はしっかりと録音させて貰いました」
「うほ⁉」
「あとは言わなくてもわかるっスよね。これを姉ちゃんに提出されたくなかったら、俺の言うことを三十個だけ何でも聞いてください」
「てめ! それを用意して誘導させてたな⁉ てか三十って多いな⁉ 桁一つおかしいだろ!」
「嫌なら別にいいんスよ~。姉ちゃんにフルボッコされる大翔先輩見るのも楽しいし~」
彪流は、ニシシと不敵に笑った。
それを見て不貞腐れた大翔は「勝手にしろぃ」と彪流に背を向けて、家から持って来ていた音楽プレーヤーを取り出すと、その音量を最大にして、イヤホンを耳に突っ込んだ。そして近くにあった彪流のエロ本を適当に手に取り、やけくそ気味にページをめくり始める。
そんな折、
「ごめんくわちゃん、貸してくれるって言ってたパジャマがどこにあるのかわかんな――」
下着の上からバスタオル一枚を体に纏わせただけの、無防備極まりない雫が、彪流たちのいる部屋に踏み込んできた。
風呂上り直後なのか、艶のあるショートカットの黒髪、白い首筋、肩からは白い湯気が立ち上っている。さらにほこほこに上気した雫の赤い頬が、羞恥の相乗効果でさらに真っ赤に染まり上がる。
数秒の沈黙の後。
「ごめんなさいっ! 間違えましたぁ!」雫はそう叫んで、隣の加寿美の部屋へと駆けこんで行った。
あまりに突然のサービスタイムに、彪流は口をあわあわとさせていた。それから隣の大翔の方に目を向ける。
大翔は、イヤホンから流れてくる音楽を口ずさみながら、エロ本を嗜んでいた。
彪流はまたも言葉を失う。
やがて大翔は何やら嬉しげに、イヤホンの片側だけを耳から外し、そのエロ本を彪流に向かって差し出しながら、
「おい彪流、この娘どことなく雫に似てねぇか? 目とか、口元とか」
「アンタ暢気に何言ってんスか⁉ 今の見てなかったんスか⁉」
「へ? 今のって……何が?」
「バカだ……バカがここにいる」
「なんだとぉ⁉ お前いくらなんでも俺のことバカにし過ぎじゃねぇか⁉」
「うるさい! バカはバカッスよ! もはやバカにできないレベルで!」彪流がそう言い放った直後。
ドスドスドス、という力強い足音が数回聞こえたかと思うと、一息に彪流の部屋のドアが開け放たれる。
そこには血を求めて修羅の巷を練り歩く歴戦の鬼武者顔をした加寿美の姿があった。
「あ~ん~た~た~ちぃ~」
しゅうううううと熱いブレスを漏らしながら、彼女は大翔たちの方へ一歩一歩近づいてくる。
「違う、違うんだって姉ちゃん!」彪流は青い顔をしながらそう訴えているが、大翔はなんだなんだという顔で新谷姉弟の顔を交互に見交わしているだけだ。
加寿美はとりあえず彪流を手刀と腹パンで沈めると、今度はゆらりと大翔の方に鋭い視線を向けた。事情はよくわからないが、彼女がとんでもなく怒っているということだけはさすがに大翔にも理解できた様子で、
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! 俺は何もしてないぞ⁉ お前がなんで怒ってるのか俺には全くわからな――」
ハッ、とそこで天啓が舞い降りる。
――まさかさっきの下り……全部聞かれてたのか?
大翔はぞっとする。確かにこの部屋と加寿美たちがいたのであろう彼女の部屋は、壁一つを隔るだけの距離だ。さきほどの彪流との会話が、ボイスレコーダーを介するまでもなく、加寿美の耳に届いていたとしても何ら不思議はない。
そんなことを考えている間にも、加寿美の作り上げた右の拳が万力のようにぎちぎちと締めつけられていく。今にも神の鉄槌のごとく振り下ろされそうだ。
――ここは素直に謝っておくべきか……いや、ここはそれよりも……
大翔は決意を固め、真顔で加寿美を見上げた。
――男として、女の子に恥をかかせたままにはできない!
自らの胸に手を添えて、真摯に語りかけていく。
「いいか、よく聞け新谷。さっきのは弟の手前だったから遠慮してああ言っただけだ。俺はお前の下着姿なら、金を払ってでも見たいと思ってる!」
「なっ……」
鬼武者は一瞬だけ素に戻って頬を染めた後、直ちに飛永大翔の殲滅に着手した。