2-3
新谷食堂の入口のドアに取りつけられていたベルが、開扉とともに涼やかな音を鳴らした。
お客さんがきたと思ったのか、加寿美はすぐさま営業スマイルを作り上げて綺麗な姿勢で立ち上がったが、それが一瞬にして渋面へと変貌する。
そして吐き捨てるように、
「なんだ、アンタか」
「可愛い弟に向かってなんてこと言うんだよ!」
入ってきたのは新谷加寿美の弟、新谷彪流だった。風見鶏高校一年生で、バスケ部の後輩だ。少しクール目な加寿美とは違って、うちのチームの元気印のような奴である。
「大翔先輩、雫先輩、お疲れッス! テスト勉強順調ッスか?」
そしてさっそく彪流が眩しい笑顔で尋ねてきた。
今の心理状態と相まって、その笑顔を無性に殴りたくなった。大翔はクリスマスイブの聖夜にイチャついているカップルを見るような心底憎々しげな鋭いまなざしを向け、続いて吐き捨てるように、
「バカなこと聞いてんじゃねぇ。お前は俺たちをなめてんのか。やべぇに決まってんだろ」
「ええ⁉ 大丈夫なんスか!」
彪流は大げさなリアクションを取る。そんな彪流に向けて、雫もまた胡乱な視線をゆらりともたげ、
「私たちをそんじょそこらのバカと一緒にしないで欲しいな。そんなことしたら、普通のおバカさんたちに失礼だよ?」
「あの天使のような雫先輩の目が完全に据わっているっ!」
そんな風に一人てんてこまいしている後輩を捨て置いて、大翔は机に突っ伏した。彪流はうちのムードメーカー的存在だが、こういうときはそこはかとなくうっとうしい。ここはとりあえず放置プレイを決め込んで、自分はひと眠りして頭をすっきりさせることにした。
しかしそのとき、テーブルの下で何かがもぞもぞと動いていることに気づいた。
大翔は少し椅子を引き、その下を覗き込む。
童女と目が合った。
「のあっほうわあああ!」
心臓が飛び出そうなほどびっくりした。危うく椅子ごとひっくり返りそうになったが、ぎりぎり踏みとどまった――のかと思ったが、すぐ後ろの壁にぶち当たって跳ね返ってきただけのようだ。
「びっくりした。びっくりした」
疲れも彼方にふっとんだ様子の大翔は肩で息をしながら、再びテーブルの下を覗き込む。
そこにいたのは、加寿美と彪流のさらに年の離れた妹、幼稚園児の新谷彩羽だった。
彼女はだぶだぶの割烹着を着ていて、その袖から伸びた小さな手には黄色のクレヨンが握られている。そして彼女の目の前には可愛らしい小作りのテーブルがあり、そこに広げられたノートには「あやは」「かずみおねえちやん」「たけるおにいちやん」「しずくおねえちやん」「ひろと」などと書かれている。
どうして自分だけ呼び捨てなのか不思議だが、それはまあひとまず置いておくとして、どうやら彩羽もお勉強をしているらしい。割烹着は多分ノリで着ただけだ。
「えらいなぁ。お勉強してるのか?」
大翔が尋ねると、彩羽は笑顔でこくんと頷く。
――ああ、癒されるなぁ、この感じ。
と、不意に隣から「ふわぁぁ……」と言う声が聞こえてきた。
見てみると、そこにはあっという間に生気を取り戻した雫の姿があった。雫はおもむろに体を折ってテーブルの下にのそのそと潜り込み、
「お勉強してるの? わぁ! 『しずくおねえちやん』だって! ああ、可愛いなぁ! でもなんで割烹着着てるの? 面白いなぁ、可愛いなぁ~ はぁあ……」
そんな感じで、雫は目をうるうるさせながら彩羽を愛で倒していた。
それを見ながら、雫はきっといいお母さんになるんだろうなぁ、と思った。そして叶うならばその隣にはいいお父さんとして自分の姿があったらいいなぁ――なんつって。あはは、いやそりゃさすがにちょっと気が早いか、あはは。
「大翔先輩、さっきから何ニヤニヤしてんスか?」
「バババババカ野郎! べ、別に未来の雫との温かな家庭なんか想像してねぇよ!」
「そうスか。よくわかんないけど、それでも一つわかりました。大翔先輩ってやっぱりバカなんスね」
「なんだとぉ⁉」
そんな風に後輩にバカにされいきり立っている大翔をよそに、雫は彩羽を抱きしめながら、加寿美に向かって口を開いた。
「いいなぁ。私も妹か弟が欲しいなぁ。ねぇくわちゃん、彩羽ちゃんウチにちょうだい?」
くわちゃん、と言うのは加寿美のあだ名である。その当のくわちゃんは厨房で忙しなく手を動かしながら、
「だーめ。彩羽はぜったい渡さないよ。彪流ならいつでも持ってっていいけどね」
そう言われた雫は、「え……」と困ったような顔になった。
それからしばらくおろおろした後、雫は大翔の方に向き直り、たどたどしく尋ねてくる。
「え、ええと……彪流くんかぁ……ど、どうしよっか、ひろちゃん?」
「雫。いらないときはちゃんといらないって言わないとダメだろ。ほんとに来ちゃったらどうするつもりだよ」
「……そっか、そうだね」
雫は真剣味溢れる表情で頷くと、なぜか泣きそうになってる彪流の方を見て、
「ごめんね。私が欲しいのは妹だから」
「いやいやいや。さっき『妹か弟が』って言ってたの聞いてましたから。いやいいんスよ、別にいらないならいらないで。変に優しくされるとなんか泣きそうになるんでやめてください……」
邪気がないだけに、雫の言葉は結構彪流に響いたようだった。
「ああ、ごめんね! ただあれだよ、彪流くんのことは好きだよ。ああ好きっていうのは別に変な意味じゃなくてね! あくまで好きか嫌いかで言えば好きってくらいのレベルで」
「ぐっ……」
「ただね、さすがに家にいられるとあれかなって感じでね。いや別にいやじゃないんだよ? でもなんか違うかなって。ちょっと……めんどくさそうかなって」
「ごお……」
雫が言葉を重ねるたびに、彪流が崩れ落ちていく。さすがに見かねた大翔は雫の口の前に腕を伸ばし、
「雫、その辺にしてさしあげろ。いくら勉強に疲れてるからって、後輩をストレス発散に使うのはよくない」
「ええ⁉ 私ぜんぜんそんなつもりないよ!」
そんな本気で驚いている様子の雫の手から、彩羽が離れていく。そしてとことこと歩いて行く先は彪流のもとだ。
「たけるおにいちゃんは、あげない」
「……彩羽」
目をさらに潤ませる彪流は、その場にしゃがみこんで彩羽と目線を合わせ、慈しむようにその頭を撫でた。すると彩羽は彪流にしがみつくようにする。まるで、彪流をどこにも行かせまいとするかのように。
「かずみおねえちゃんのばか。勝手におにいちゃんをあげちゃだめ」
その言葉に、加寿美は動かしていた手を止めて、エプロンで手を拭きながら彩羽のもとへと駆けていく。
「そうね。ごめんね。お姉ちゃんが悪かったわ」
言いつつ、彩羽のことを抱きしめる。そしてそれら三人をさらにまとめて抱きしめる腕があった。それはいつの間にやら二階から降りて来ていた加寿美たちのお母さまの腕だ。
「大丈夫よ、彩羽。私たちはいつまでも一緒。母さんがこの家族を守ってみせるもの」
「お母さん……」「母ちゃん……」感極まった様子の加寿美と彪流は抱きしめられるがままだった。そして静かに目頭を押さえる。四人を目には見えない暖色のベールが包む。
しかし大翔と雫はどこか遠い目をしていた。
「え、なにこれ?」
「私完全に悪役って感じだね……」
ふざけてる風でもなく、しかしあまりにもストレートに過ぎる家族愛の体現を目の前に、大翔たちは一体どうしていいやら、困ったような顔を見合わせるばかりだ。
「まあ、とりあえず……」
「うん……そうだね……」
それからしばらくの間、力ない二つの拍手が新谷食堂の中で木霊した。