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天野雫が無事退院を果たしてから一か月が経とうとしていた。そしてめでたく始動した新風見鶏高校バスケットボール部も、初めは先輩たちがいなくなってしまった雰囲気に戸惑いながらも、今は生き生きと練習に取り組んでいた。
そして今、まさにその練習中である。
雫たち女子バスケ部総勢12人は風見鶏高校すぐの場所にある裏山の、風高の運動部からは別名『地獄峠』と呼ばれているコースを走っていた。山の中を蛇行しながら、一団の足音が熱気をかき分けてアスファルト道を進んでいく。
頭上にはぎらぎらと輝いている太陽があった。
夏休みを間近に控えたここ数日は一気に暑くなった。今雫の後ろに続いてる部員たちはもれなく汗だらだらで、着ている練習着も吸い取る水分量の限界を越えつつある。
でもそのくせ、もう来週にまで迫っている期末テストのことを考えると、背中の辺りが冷たくなってくるから不思議だ。――ああ、もう、ほんとどうしよう。
そんなことを考えながらも、雫は休むことなく後ろに目をやっていた。遅れてる子はいないか、辛そうな子はいないか、休憩は十分過ぎるほどに挟んでいるつもりだけど、そんなものの感じ方は当然ながら人それぞれだ。
特にうちのチームは真面目な子たちばかりだから、自分が強引に突き進めばそれに追いつこうと、無理をしてくる。それを上手くコントロールするのはキャプテンである自分の仕事だ。
「雫大丈夫? 苦しくない?」
と、不意に隣を走っていた副キャプテンの新谷加寿美が声をかけてきた。後ろでに縛られたポニーテールが走りにあわせて大きく左右に揺れ、汗の粒を弾いている。
でも彼女の表情は未だどこか涼し気だった。まだまだ余力があるようだ。
「もうへいきだってば。手術もちゃんとしたんだから」
「そう? 何かあったら今度はちゃんと言ってよ? もうあんなのはヤだからね」
「うん、ありがと」
そう返すと、加寿美は笑った。
あれ以来加寿美はすっかり心配性だ。
雫が苦しそうにしていると、血相変えて飛んでくる。でもそれだけ、あのときの自分は並でない心配をかけてしまっていたということだろう。
「しっかし暑いわね、せっかくの屋内スポーツなのに外で走るなんて、わたしたちドM?」
「ちょ、ちょっとくわちゃん、そういうことさらっと言わないで!」
「あは、雫かお真っ赤! かわいい!」
「んもうっ!」
雫が頬を膨らますと、加寿美は嬉しそうにほっぺたを突いてきた。
そんな折、
「顔下げたら余計きついぞー! しっかり前向いて走れ!」
男子バスケ部新キャプテン飛永大翔の威勢のいい声が、背後、このなだらかに上向いている山道の下方向から飛んできた。さらにその後ろには、へとへとな様子の男子部員たちが続いている。
「女子に遅れとってどうすんだ。全員たるんでるぞー」
大翔がそう続けると、男子部員たちは、
「……いや、俺たちこれ二本目だし……」「大翔先輩のその元気が信じらねぇっス……」「化けモンだ……一体どんなスタミナしてんだよ」
「愚痴を言う元気があるならまだいける!」
「無茶言わないでくれ……」「終わった先にご褒美でもあればなぁ……」
すると、大翔はしばらく思案に頭を巡らして、「じゃあ、頂上までの競争で俺に勝てた奴には一人一本アイスをおごってや――」
それが言い終わる寸分前に、雫たちの真横を一陣の風が吹き抜けた。
直接的に言えば、大翔を除く男子部員全員が見違えるような頼もしい走りっぷりで山道を駆け上がって行った。一人残された大翔はその一団に怒鳴りつける。
「全員元気有り余ってんじゃねぇかっ!」
するとそれに触発されるように、女子部員たちもラストスパートをかけた。雫も加寿美も、他のみんなも、ご褒美のアイス求めて、一斉に走り出す。
「やったーアイスだーっ」「飛永先輩太っ腹!」「ハーゲンダッツもいいのかな?」「アイスはアイスだよね」「男に二言はないはずですよ?」
「え、ちょ……」
顔を青くした大翔を見て、雫はほくそ笑む。
まだまだ前任の木ノ葉之平元キャプテンに比べたら頼りないところもあるけれど、それでもみんなに好かれている。
そしてそれは、努力だけでは決して手に入ることのない、それでいてキャプテンとしての重要な資質の一つである。そう言う意味で、大翔はきっといいキャプテンになれるはずだ。
――私も、頑張らなきゃ。
雫は自分に言い聞かせる。
「みんな、あとちょっとだよ! 頑張って!」
「「はい!」」「「おー!」」
いつもより体が軽く感じるのは、きっと気のせいではないのだろう。
雫はそれを実感しつつ、背中を押されるように足を運ぶ。