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一之瀬がおもむろにウエストポーチから取り出したのは、五月に、雫に誕生日プレゼントとしてあげた黄色地のリストバンドだった。先日の徳島県大会準決勝決勝が行われたあの日、忌まわしき狸に掻っ攫われてしまった例のリストバンドである。
それは今日改めて雫にあげたリストバンドと全く同型だが、それと別物であることは一目見た瞬間にわかった。
さすがに今日あげたものをその日のうちに無くすほど雫は非常識ではないし、それをつい先ほど嬉しそうに眺めていたのを見ていたし、今目の前にあるそれは、明らかに練習や試合ですでに使った痕跡のあるものだった。
一之瀬は袋に入れたそれをわざわざ届けにきてくれたのだ。大翔は、しばしそれを毒気を抜かれた様子で眺めていた。
「どうして、一之瀬さんがこれを?」
「そうだな、話すと結構ややこしくなるんだけど」
そう言って一之瀬は立ったまま腕を組んだ。それを聞いた大翔は自らも座り込みながら、隣を手で示し、腰を下ろすことを勧めた。すると一之瀬は靴をはいたままで足を投げ出し、大翔に横顔を向ける形で上りの淵に腰を落ち着けた。
そして、一之瀬は口を開く。
「お前んとこの、なんだっけ。押さない押さぬっつったけ?」
「は? ――ああ、長内修ですか」
なんのこっちゃ、と思ったが、考えて見ると結構惜しかった。
「そうそいつ」一之瀬は合点がいった様子でうんうん頷く。
そして大翔は尋ねる。
「修がどうかしました?」
「その修くんと――ああ、なんつっけ、もう一人は……ポニテのかわい子ちゃん。顔は覚えてるのに名前が出てこない~」
「…………新谷加寿美?」
「そう! その子だ、加寿美ちゃん」
「その二人が何か?」
大翔が促すと、一之瀬はどこか優しく目を細めて、玄関の扉の方へと視線を向けた。
「その二人が何日か前にうちの高校まで来てな。『チームメイトの大切な持ち物なんですけど、こういうの見てませんか、拾ってませんか?』っつって、このリストバンドの話を聞かされたんだ。どうやら聞いた話じゃ、あの試合の日に会場に来ていた全部の高校回ってたみたいだぜ。お前、それ知ってた?」
最後の質問の部分では、一之瀬は悪戯っぽい笑みを浮かべて大翔の方を見据えていた。
しかし大翔は答えられない。
もちろんその答えは否だ。あの二人が自分の知らないところでそんなことをしてくれていたなんて露ほども知らなかった。驚きが心のほとんどを支配し、嬉しさや慈しみが溢れてくるのは一歩遅れだった。
茫然としている大翔をよそに、一之瀬はさらに続けた。
「そのときは分からなかったんだが、確認したらうちの部員の父兄の中に心当たりある人がいてよ。とりあえず保管してもらってたものを、俺が預かって持ってきたんだ」
「そういうことでしたか。ありがとうございます。じゃあ、ちょっと待っててください。雫呼んできます」
「え、いいよ別に」
「これ渡したら、あいつは絶対お礼言いたいって言うと思いますから」
すると一之瀬は照れたように笑った。「そんなつもりじゃなかったんだけどなぁ」
大翔は立ち上がり、一階にある居間の方へと向かった。テレビの音がするので、そちらにいるようだ。
「雫ー」声をかけながら部屋に顔を覗かせると、「寝てんのか」
二つ折りにした座布団に頭を置いて、横向きになって体をやや丸めて、雫は静かに寝息を立てていた。
大翔は苦笑し、一之瀬のところまで戻り、「寝てました。すいません。実はあいつ今日退院したところで、それから色々あったから、疲れてるみたいで」
「ああ、いいよいいよ。よろしく言っといてくれ。んじゃ、確かに渡したからな」
一之瀬はニカッと笑い、扉に手をかけた。