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時間が時間だったので、玄関に駆け込もうとした雫を呼び止め、代わりに大翔が玄関の扉を押し開いた。
するとそこにいたのは、
「え、一之瀬さん?」
「よ、遅くに悪ぃな」
風高バスケ部の宿敵にして強敵、雑賀東高校のエース、一之瀬迅が開け放ったドアの向こうに立っていた。
服装は上下ジャージ。腰にはウエストポーチがあり、腕には蛍光色の反射板が巻かれていて、右手首は白い包帯に包まれていた。
しばし、何のことやらわからなかった。一之瀬は顔見知りだが、それでも自宅に訪問し合うほどの仲ではない。そもそも自分の家を知っていること自体不思議だった。雑賀東高校はここから決して遠い場所ではないけれど、それでも散歩がてらに軽い気持ちでやって来られるほどの場所でもない。何か用事があってきたはずなのだ。
「あの、何のご用で――」
と、そこで大翔の頭に嫌な考えがよぎった。
ここは自分の住む場所である前に――天野家の家、つまりは雫の家である。
もしかして、一之瀬は雫に会いに来たのではあるまいか。
よくよく一之瀬の顔を穴が開くほどに見つめてみた。
一之瀬はいわゆるイケメンであると言っていい。少なくとも自分と比較すれば、高校生女子十人中九人は一之瀬の方を押すだろう。しかもチャラついた雰囲気はなく、スポーツマンらしいさっぱりとした短髪に、バスケの実力のほどは言わずもがな、全国区どこのチームに出しても恥ずかしくないほどの選手だ。
雫の好みなんてものは知らない。実のところ気になって気になって仕方ないけれど、好きな子に好みを聞く勇気が自分にあるわけがない。だから一概に雫の好みがこの爽やか系イケメンだとも言い切れない。
でもこの男に魅力を感じること、心がなびいてしまうことには何の不思議もない。むしろバスケが大好きでそれに打ち込んでいる雫だからこそ、この男に女心を掴まれても何の不思議もないどころか必然と言っていいレベルではないだろうか。
だから同居人Hのことなどザリーに次ぐペットぐらいに思っていて、この一之瀬のことこそかけがえのないパートナーだと思っていて、退院日である記念すべき今日と言う日に、雫と一之瀬が逢瀬の約束をしていたとしても何の不思議もないのではあるまいか。
――お前あの子に別の彼氏ができたりしても、襲ったりすんなよ?
いつの日か木ノ葉に言われた言葉が頭の中を巡って行く。
「おい、どうしたんだよ。顔が真っ青だぜ」
一之瀬が訝しげに眉根を寄せ、大翔の顔を覗き込む。
しかし、一之瀬の言葉はもはや大翔の耳に届いていなかった。
雫はかわいい。
それはもう再確認の必要もないことだ。
だからこそわかっていた。いつかこういう日がくることを。
雫はモテる。彼女が何年何組誰それに告白されていただのという話は良く耳にする。その度に大翔は高熱を出し、人生に絶望し、それでもその後雫が交際を断ったらしいことを耳にして、何とか生気を取り戻す。そんな情けないことを日々繰り返していた。
それがとうとう裏目に出た。いや、裏目なんて言葉を使うのもおこがましい。一緒に暮らしていること、傍にいることに安心して、雫に思いを告げることを先延ばしにし続けていたことがとうとう決定的な敗北を招いたのだ。こんなことは遅かれ早かれ必然的に起こっていたに違いないことだ。
だから大翔は微笑んだ。
ここで一之瀬を追い返すことは簡単だ。うちの娘に近づくな、と巌人の代わりに怒鳴りつけて、気休め程度に二人の中にヒビを入れて、二人の本当の愛を試すのも一興かもしれない。でも大翔はそうしなかった。
「アイツのこと、よろしくお願いします」
そして恭しく頭を下げた。涙で視界が霞むのは、きっとゴミが入ったからだ。胸がどこか苦しいのは、不整脈だからだ。体が熱っぽいのは、今年の夏がすぐそこまで迫っているからだ。
大翔は目元をぬぐい上げ、晴れ晴れしく顔を上げ――
上げ――
上――
…………
…………やっぱり嫌だあああああ!
大翔はバスケどころか恋の宿敵にまで相成った一之瀬迅を涙目で睨みあげた。そして大口を開け開いて、「先輩ほどの人ならそっちの学校でもどうせモテモテなんでしょう! なのになんでわざわざ他校の女の子に手を出すんですか⁉ ひどいですよ、非常識だ、そういうのはね、ダメなんですよ。……ぐす……ううっ」
最初は威勢よく捲し立てていたが、徐々に言ってる自分が居た堪れなくなってきて泣けてきた。惨めだ。本当に誰でもいいから今すぐ抱きしめて欲しい。
そんな風にぐすんぐすんと少女のように泣いている大翔を、訝しげに眉根を寄せたまま一之瀬は見つめ、
一言、
「お前、何言ってんの?」