53
「うん、なに?」
『えっと……その…………』
大翔が促しても、言うことをどこか躊躇われる内容であるのか、香波はもごもごと声にならない声を出すだけで何のことやらわからない。でもここで変に急かしたりしたら、「もういい」と言われてしまいそうなので大翔は辛抱した。
再び、古時計の秒針が時を刻む音が居間を支配する。
その音を一体何回聞いた後だったろうか。
『ヒロは……母さんのこと、好き?』
「ぶはっ!」
噴き出した。
突然何を言い出すかと思えば。まるで幼稚園児に向けた質問のようだった。
「急に何言ってんだよ!」
なぜか大翔の方が顔を真っ赤にしてそう電話口に怒鳴り付けていた。『だ、だって』と香波はまたしてももごもごと喋っている。
『母さん、ヒロが辛くて困ってるときに何もしてあげられなかったし……ヒロを恵お姉ちゃんのところに送ったのも、勿論いろいろ考えて、お父さんとも相談して、それが一番いいと思ってそうしたんだけど、それでも今考え直してみると無責任だったなって、思うの。ヒロには、嫌われてたとしても、それは、仕方ないよねって、思うの。だから、……わたし』
「そんなこと、ないって」
大翔は静かに、香波の言葉を断ち切った。
電話越しなのだから伝わるわけもないけれど、できるだけ穏やかに笑って、そう言った。
『ヒロ……』
「確かにあのまま東京に残って、母さんたちと暮らし続ける道もあったよ。そして、その先に待っていた未来は今の俺よりも、もしかしたら幸せな人生だったかもしれない」
あくまで可能性の問題だ。
言うだけならいくらでもできる。あらゆる不幸をかわして、あらゆる幸福を掴むこともできる。あの時こうしていれば、あの時こうしていなければ。何かを何かのせいにして本来受けるはずだった幸不幸を想像することはいくらでもできる。
でも今の大翔は、そのことに何の意味もないことを知っている。
そんなことよりも、もっともっと確かなことがあることを知っている。
「でもさ。今俺は幸せだったって胸を張って言えるよ。ここに来たから、雫や恵さんや巌人さんと仲良くなって、バスケ部のみんなとも出会えて、今の俺があるわけだから。その結果得られた今の環境とか、幸せとかが、あのまま東京に残っていたら出会えていたかもしれないそれらに劣っているなんてこと微塵も思わない。それくらい、俺は今の俺を気に入ってるから。だから――」
大翔は二回ほど秒針が時間を繰る音を聞いたあと、
「もうそんなこと考えても仕方ないんだし、自分を責めるようなことしないでくれ。俺はちゃんと母さんたちに感謝してるよ」
言葉はお礼の言葉だけにした。
本当は謝りたい。結局飛永家の親子を引き裂いたのは自分だ。自分が原因でこういうことになったのだ。そして当然ながらそこに香波が責任を感じる必要なんて微塵もありはしない。
でもそういう人なのだから仕方ない。
だからあえて謝らない。ここで謝ったりしたら、きっと余計にごちゃごちゃする。もうこんなことは過去のことして、もう今更考えても仕方ないと割り切って、水に流してしまった方が早いのだ。
『じゃあ、ヒロは……』
やがて時間を置いて、やや涙声の震えた声で、香波は『母さんのこと、好き?』と例の難問奇問を突きつけた。
「結局その質問に戻んのか……」
『だ、だって』
「高校生の男にする質問じゃないだろ。それに好きって即答できる奴逆に怖いんだけど」
大翔はぶつぶつと不平を訴える。しかし我が母にしては珍しく、中々譲らなかった。「別に嫌いじゃない」『別にってなによ』「嫌いではない」『好きか嫌いかの二択で』「だーっ! もうメンドくせぇな!」
そして大翔はついに言った。
「……好き、だよ」
『きゃ』
「もう切るから! じゃあまた!」
大翔は受話器を叩きつけた。顔を真っ赤にして、肩を上下させて気息を整えた。母との会話がここまで心臓に悪いとは。
そしてその瞬間背筋に怖気が走った。服の中に氷の塊を滑り込まされたような感じがした。
――誰か、いる。
人の気配を察知し、大翔は恐る恐る後ろを振り返った。
すると、そこには、
「ふふ」
悪戯っぽい笑顔を浮かべている雫が、柱から顔の半分を覗かせていた。
「ひろちゃんってば、もしかしてマザコン?」
「うっ!」
この三千世界でもっと勘違いされたくない人に誤解を与えてしまった。
最悪だ。もうあのバカ母だけは絶対に許さん。メール来ても無視してやる。大翔は心に堅くそう誓う。
そしてその一方で絶望を感じていた。マザコンなんて一般的に考えて、女の子に嫌われる三大要素だ。それが雫にバレてしまった。いや、別に実際はマザコンじゃないけれど。でもどう考えても言い逃れができる状況ではない。だって好きって言っちゃったんだもん。ほとんど誘導尋問みたいなものだったけど。
「わたし、うれしいよ」
その言葉に、項垂れていた大翔は「え?」と顔を上げた。てっきりドン引きの顔をされているかと思いきや、雫はいつも通りの雲を晴らすような笑顔をたたえていた。
雫は続ける。
「香波さん、メールでよくお話しするんだけど、いつもひろちゃんのこと聞いてくるんだよ。だから直接ひろちゃんに聞いたらいいのにって言うんだけど、香波さん、きっとひろちゃんには嫌われてるからって言って、悲しそうにしてたの」
雫はどこか遠くを見据えるような目で、そう言った。そして大翔の方に向き直り、「だからひろちゃんが香波さんと仲良くなってくれるのは、すごくうれしい」心の底から嬉しそうな表情でそう続けた。
「……そっか」
大翔の頭の中で、香波の声が蘇る。心配そうな声。今にも泣き出しそうな声。嬉しさがにじみ出てしまっている健気にも上擦った声。声の書き換えられたただの電気信号の交換に過ぎない、顔も見えなければ存在も感じ取れない、そんな無機質的なただの言葉のやりとりに過ぎないはずなのに。
ほんの十数分のやりとりで、香波の自分に対するこの三年間の思いや、やるせなさや、それを越えた愛情を伝えてくれた。遠く離れて消えかけていた絆を再び繋ぎとめてくれた。
あんなこっぱずかしい言葉、もう二度と言いたくないけれど、それでも香波が喜んでくれたのなら、自分の思いが届いたのなら――
ピーンポーン、
天野宅のチャイムが鳴った。