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そんな風に女の子の部屋を遠慮も無しに眺めまわしていたら、いつの日か気にかかったあの写真が目に入った。
あれだ。雫が入院することになった二日後、彼女に服を届けるためにとこの部屋に入ってきたときに見かけたものである。
壁に留められたコルク板のプレートにピンで留められた、一枚の写真。
いや、他にもいくつか写真は留められているけれど、その中でも悪い意味で目立っている一枚の写真。
恐らくは三年前に撮られたであろうもの、自分がこの天野家に居候することになったその直後に雫と一緒に撮った写真だ。ツーショットなんて雫とは数えるくらいしか撮ったことないというのに、この時の自分は、なんて不機嫌そうな顔をしているのか。
「なぁ、雫」
「うん、なに?」
朗らかに、何の気なしに雫は尋ね返す。
大翔は少し言いにくそうに、
「この写真、なんで飾ってるんだ? 他にもっといい写真あるだろ」
大翔は立ち上がり、その写真の前まで来て、極力おどけた感じで聞いてみた。すると雫はついさきほどまでザリーへと向けていた無垢な笑顔の余韻を残したまま振り返り、
少しだけ、固まった。
「あ、うん、えっと」
雫は笑顔を保ちながらも、必死で言葉を探すように目を泳がせる。それを見て、大翔はしまったと思った。別に困らせたいわけじゃなかったのに。
「ひろちゃんは、嫌? その頃の写真飾られるの」
雫は上目づかいにそう尋ねてきた。「いや、別にそういうわけじゃないんだけど」大翔がそう答えると、
「ほんとうに……そうかな」
予想外の言葉が返ってきた。雫は視線を畳の上へと落とし、それからどこか怯えたような表情で、おずおずと言葉を紡ぐ。
「ひろちゃんって東京から持ってきた荷物、本当に少なかったよね。その上そのほんの少しの持ち物も、出来る限り早く捨てようとしてた。私にはあの時のひろちゃんが、今までの自分を必死に無かったことにしようとしているみたいで、すごく、怖かった」
雫は小さな手を胸の前で合わせて、包むようにしていた。
そして、続ける
「向こうで辛いことがあったのはわかるよ。いや、ごめん、そんな簡単にわかるなって言っちゃだめなことだけど、それでも、私はその頃のひろちゃんも含めて、大事にして欲しいから。今のひろちゃんがあるのは、そのときのひろちゃんがいたからだよ? 頑張ったひろちゃんがいたからだよ? そのことを、ひろちゃんは誰よりもわかってるはずだよ?」
それから雫は歩みを進め、写真の前までやってきた。そしてその写真を愛でるような目でしばし見つめ、その四角に収まる三年前の飛永大翔をそっと撫でた。
「でね、そのことをひろちゃんに気づいてもらうには、まず誰かがその過去のひろちゃんも含めて、好きになってあげるのが一番かなって思って、だから飾ってるの。三年前のひろちゃんも。私は、このときのひろちゃんも好きだよ。まあこの頃のひろちゃんはいじっぱりで冷たくて、中々喋ってくれなくて、むっとしちゃうときもあったけど……その分、初めて笑ってくれたときはすごく嬉しかった。――ふふ、覚えてる? 私とお母さんとお父さんでひろちゃんのお誕生日にサプライズしかけたの。必死で隠そうとしてるけど、うれしそうに笑ってくれて、あのときのひろちゃん、すごく可愛かった。それから修くんと一緒にバスケ部に誘ったよね。もしかしたら傷つけちゃうかと思ったけど、ひろちゃんがもう一度バスケしたそうにしてるのも何となくわかったから。それにしてもすごく上手くてあのときはびっくりしたよ。あ、そう言えば私が小学校のときミニバス始めたのはひろちゃんの影響なんだよ? ひろちゃんのお母さんがうちに来たときにひろちゃんが出てる試合のビデオ見せてくれて、かっこいいな、って思って、だから始めたの。今度ひろちゃんに会うまでに絶対上手くなってやるって。だから――」
雫が写真から目を離し、こちらに振り返る気配がした。
気配しかわからなかったのは、自分が俯いているからだ。
俯いているのは、今にも泣いてしまいそうな顔を、雫に見られたくなかったからだ。
雫は少しだけ声のトーンを押さえ目に、
「今の私がいるのは、ひろちゃんのおかげなんだよ? 今のひろちゃんがいるのは、この頃のひろちゃんがいたおかげなんだよ?」
雫が微笑んだ気がした。
「だからもう一度言うね。私はこの頃のひろちゃんも好き。ひろちゃんは、まだ昔の自分のことが嫌い?」
一つ一つ丁寧に、語りかけるように雫は問いかけてくる。
その問いに対する明確な答えを大翔は持っていない。
その頃の自分は確かに自分が嫌いだった。もしも叶うならば、自分の過去を一掃したいとさえ思った。初めから天野家の人間として生まれ出で、雫や修たちと楽しく小学校中学校と過ごし、その果てに今の自分が形成されるというのなら、どう考えてもその方が幸せな人生ではなかったか。そんな風に思うこともあった。
でも思い返してみるならば、向こうでの暮らしだって悪いことばかりだったわけじゃない。仲の良い友達だっていたし、優しい両親だっていた。そのときの自分を嫌悪して否定することは、その頃共にいたかけがえのないものまで消し去ることになってしまわないだろうか。そのかけがえのなかったものは、あんないじめに塗りつぶされてしまうほどにちんけなものだっただろうか。
「正直、好き、とは言えない」
大翔はそっと口を開く。
でも――
「でも」
一つだけ。
確かなことがあるはずだ。
「俺は」
雫のことが好きだ。
まっすぐで純粋で、それでももろくて弱々しくて。
優しくて笑顔が可愛くて、それでもザリガニが大好きで。
バスケは上手くても勉強は苦手で、でもそのどちらにも一生懸命で。
人の良いところを見つけるのは上手くても、悪いところを見つけるのが苦手で。
料理自体は下手だけど、魚をさばくのは上手くて。
絵は下手だけど、字はきれいで。
音痴だけど、声はきれいで。
背と胸は小さいけれど、心は誰よりも大きくて。
そんな雫のことが大好きだ。
その雫が好きでいてくれるというのなら、それを信じて過去の自分も受け入れられるかもしれない。
だから、今ここでそれを、
伝えたい。
「お前のことが――」
「ひろく~ん、こっちにいるの?」
まさかのタイミングで雫の母親である恵さんが部屋のドアを開けた。大翔は肩をビクつかせ、雫は目を丸くしている。そんな二人が揃ってきょとんとした様子の恵を見つめていた。
「はい、えっと、なんですか」
あの続きを告げる勇気と根性が急速に下落していくのを大翔は感じていた。大した用でないのなら、申し訳ないが今は早々にご退室願いたい。今言わないと、雫にはもう一生言えないような気がする。
「ひろくんに電話だよ~」
「電話?」
「うん、広間にある電話、今受話器あげてるから、早く出てあげて」
言われ、大翔は仕方なしに雫に「ごめん、行ってくる」と断って部屋を出て行こうとした。
「すいません。で、誰からです。電話」
大翔は恵に向かって尋ねた。すると恵はにこやかに笑って、
「うん、香波ちゃんから」
「……母さんから?」
大翔は足早に階段を降りて、広間へと向かった。