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大翔は雫の方へと向き直る。
「あ、うん。えっと、これ」大翔はきれいな包装の施された手の平サイズのものを、おずおずと差し出した。「その、退院祝い」
雫は差し出された紙包みを受け取る。
「あ、ありがとう。ごめんね、色々して貰ってばっかりで」
「いいよ。ていうか、そんな大層なもんじゃないから」
「開けても、いい?」
「あ、うん、いいよ」
雫はガラス細工を扱うような慎重な手つきで、包装を解いていく。その間にもヤジが収まることはない。「失敗しろ」「フラれろ」「大翔の分際で」
「アンタら少しくらい黙ってられないんスか!」そう大翔が叫び返す頃合い、包みの中身が露わになる。
いつか見た黄色地のリストバンドだった。
「これ……」
雫はそれを手にとって、目の高さまで持ってくる。
そして確信する。
これは、五月の自分の誕生日にプレゼントとして、大翔が自分に贈ってくれたものと同じものだった。そして、試合当日に、試合会場に闖入してきた狸がどこかに持って行ってしまったものと同じものだった。どうやら新しいのを買ってきてくれたらしい。
「あ、ごめん。違う物の方が良かったか?」
そのリストバンドを見つめたまま口を閉じている雫を見て、大翔が目を伏せてそんなことを言ってきた。とんでもない。
「ううん、そんなことない! 嬉しいよ、ありがとう。今度は絶対無くさないようにするから!」
雫がそう告げて大翔が照れたようにはにかんだとき、大翔の背後から覆いかぶさるように肩にもたれた者がいた。
それは風高バスケ部の二年三組、長内修だった。修は不敵な笑みを浮かべて、
「ホント大切にしてやってね。これ大翔が四国八十八か所の行けるだけの寺を回って、雫ちゃんの無病息災の祈りを込めたものだから」
すると大翔が慌てて修の肩を引っ掴む。「そういうこと言わなくていいんだよ! なんか重くなっちゃうだろ! ていうかなんでそれ知ってんの? 誰にも言った覚えねぇんだけど」
訝しむ大翔。すると修は何やらしたり顔で、
「お前の考えてることなんざ八割方お見通しだ」
「お前マジでなんなの。俺のこと好きなの?」
そんな風に仲良さげにしている二人をみながら、雫は胸が熱くなった。あの試合当日まで決定的な発症を抑えてくれていたのは、大翔が祈りを込めていてくれたあのリストバンドだったのかもしれない。
「絶対、大事にずるがら」
「また泣いた!」「大翔が泣かした!」雫がまた目じりに涙を浮かべ始めた瞬間、なぜか大盛り上がりになる。「おい雫、なんで泣くんだよ?」大翔はおろおろと狼狽えていた。
「大丈夫、これは、嬉し涙だから。ごめん、泣いてばっかりで」
「いや、それならいいんだけど――ぐほっ!」
と、不意に雫の視界から大翔の姿が消え去った。
代わりにその場に忽然と姿を現したのは、くわちゃんことくわ子こと新谷加寿美だった。彼女は頭に桃色のバンダナを巻き、空色の可愛らしいエプロンをしている。そしてほっぺたには赤いケチャップが器用に弧を描いていた。
「ちょっと飛永! アンタが焼きそば作るっていうから、ずっと鉄板あっためてたんだよ。さっさと作りなさいよ!」
一息に加寿美は罵り立てた。
そして今度は雫の方に向き直り、「雫、今『新谷食堂』フルコース作ってるから、楽しみにしててよね」言いながら、雫の頬やおでこをぷにぷにと突いてくる。
加寿美の母親が一人で切り盛りしている『新谷食堂』は、風見鶏高校裏手から駅前へと続いているアーケード街の一角にある雫の行きつけの飲食店だ。それをよく手伝っている加寿美の料理は病的に美味い。特にオムライスは殺人的に美味い。
「オムライス、ある?」
「トーゼン。雫がそれ好きなの知ってるもん。ほら、こっち来て。あと卵で包むくらいだから」
雫は加寿美に腕を引かれ、テーブルの方へと駆けていく。そして背後でこっちを見ていた大翔に向かって、貰ったリストバンドをひらひらとかざしながら、笑顔で手を振った。
涙には大まかに分けて二種類あると思う。泣いた後はすっきりする涙と、泣いてしまったことに余計に惨めになってしまう涙。
今の自分の涙がどちらのものかなど、考えるまでもない。