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大翔の運転する自転車に揺られて、雫は並木道を風を切って進む。春には艶やかな桃色を芽吹いていた木々も、今はすっかり繁々とした葉桜だ。日曜日だからか、歩道を行き過ぎる人の数もそこそこで、たまたま行き当たったラーメン屋からは食欲をくすぐるいい匂いがした。ほんの一週間ぶりなのに、この光景がすでに懐かしい。
大翔はやがて大通りから路地へとハンドルを切った。たちまちの内に閑静な住宅街へと景色が変わり、その先には峰高々な山が見え、夏の匂いが迫っていることを実感した。
「ねぇ、どこに行くの?」
雫は尋ねた。
最初はしばらく進めば見当もつくかと思っていたが、あそこで路地へと入って行ったのは全くの予想外だった。この先はこれまでに行ったことがない。つまり、今から大翔が行こうとしている場所は、雫の行ったことのない場所なのである。
「まあ、それは着いてからのお楽しみってことで」
大翔はどこか悪戯っぽく笑って、そう言った。
やがて自分たちの乗る自転車は上り坂に差し掛かる。大翔は助走をつけるためか立ち漕ぎへと移行し、全力でその勾配に立ち向かったが、呆気なく失速した。
「ここは降りよっか?」雫は気遣わしげにそう尋ねるが、
「いや……大丈夫……雫は……軽いから……」息切れ切れでペダルを踏み込みながら、大翔はそう返してきた。
「それは私の体がちっこいって意味かな?」
「そう取るか!」
違うとはわかっていたけれど、悪戯心が湧いて、そんなことを言ってしまった。慌てて否定しようとする大翔に「冗談だよ」と笑って返す。いや、まあ実際体はちっこいんだけど。中学生に間違われることなんて日常茶飯事だ。
やがて大翔の健闘が実り、平たんな道へと躍り出た。山沿いの道をするすると進んでいく。
一段階高いこの位置からは町を一望できた。先ほど退院してきたばかりの総合病院。雫たちの通っている風見鶏高校。駅前へと続くアーケード街。その先に乱立するビル群。まるでジオラマを斜め上から見ているかのようで、その街並みがどことなく可愛らしい。
「見えてきた」
大翔がそう言うのを聞きつけ、雫は前方に目をやった。しかしどれのことを言っているのか雫にはわからなかった。それに気づいたのか、「あの赤い屋根の家」と大翔は右手で一つの家を指し示す。
「あの家?」雫は呟く。
なんてことない家だった。
特別大きいわけでも、新しいわけでも古いわけでもない。目につく特徴と言えば、家を取り囲む石塀の向こうにゴールデンレトリバーが気持ちよさそうに寝そべっているのと、家の左手の駐車スペースに見覚えのある車があるくらい――――「え?」
雫は慌てて表札を探した。門のところの表札は剥げていて、もう文字の痕跡もない。しかしそのすぐそばにひっかけられていた不釣り合いに色鮮やかな簡易ポストに目が行く。そしてそこには『花都』とあった。
「ここ、もしかして花都先生のお家⁉」
「ああ」
やっぱりだ。あの車、見覚えがあると思った。目がチカチカするような少女的なピンクの塗装に、フロントガラスの手前に並べられた小さなぬいぐるみの数々、そして前部のバンパーに刻み込まれた無数の傷跡。花都先生は車の運転が下手で有名だった。
「じゃあ、ひろちゃんが連れてきたかった場所って……」
花都先生のところだったのか。納得したような、意外だったような、少し中途半端な気持ちだ。自分でもよくわからない。でもお礼とか謝罪とかは、改めてしたいと思っていた。
花都先生は確かにバスケ部の顧問で、二年三組の担任で、自分にとって関わりの深い先生ではあるんだけど、自分のところのお見舞いに三回も来てくれたことにはびっくりした。入院した当日、手術日前日に、翌日。申し訳なくなるくらい頻繁に足を運んでくれて、元気をくれる話を色々しに来てくれていた。
「いや」
大翔が唐突に言った。雫はそちらへと顔を向ける。
「え?」
「俺が雫を連れていきたい場所ってのは、この先だ」
そう言いながら自転車を邪魔にならないスペースに置き、大翔は花都先生の家の傍を抜け、山の中の方へゆっくりと歩き始めた。
雫もそれに続く。