30
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大翔がその日目を覚ましたのは、雫の病室だった。
窓からは朝の煌やかな幾多もの光の筋が、風にゆらゆらと揺らさせるカーテンの隙間から差し込んでいて、その窓の先に悠々と広がっているのは、昨日とは打って変わっての晴れ渡った青空だ。漱ぐような鳥の声、慌ただしく道路を駆ける自転車のベルがどこかで木霊する。過剰なほどに清潔感のある病院のにおいには知らない間に慣れてしまっていた。
「……夢か」
正直ついさっきまで見ていた夢のせいで、決して良い寝起きとは言えなかったが、大翔はすぐ傍に天野雫の寝顔を見つけて、その嫌な気分を一瞬にして消し去る。こんな可愛いものが存在していいのか。雫の寝顔を間近で見るのは久しぶりだ。
大翔は雫のベットの横手の壁に背中を預けて、椅子に座って夜を明かしていた。そして今気づいたが、大翔の左手は、雫の右手にきゅっと握られていた。
それを確認して頬が熱くなる。
そしてそれで思い出す。
昨日色々あって雫が心細そうにしていたので、せめて彼女が眠られるまで病室にいようと思ったのだ。そんな中手を握っててと雫に頼まれたので、大翔は緊張しながらもそれに従った。だが、その結果眠りに落ちた後も、雫は一切として握力を落とさず、しっかりと自分の手を夜通し握ったままだった。大翔がその雫の手を振り払うことなどできるはずもなく、今のこの状況に至るわけである。
視線を雫の寝顔から、壁にかかった時計へと移す。
午前六時二十八分。
今日もバスケの朝練は休みだが、当然学校はあるので一度家に帰らなくてはならない。
雫の両親である恵と巌人には、昨晩帰りが遅くなることはメールで伝えてあったが、朝になっても帰ってこないことにはさすがに戸惑っているだろう。
いや、もしかしたらあの二人のことだから、まだ寝まくっている最中かもしれない。雫を含めて、天野家の人間はとにかく朝に弱い。
「むにゃ」
雫が突然そんな声を漏らした。昨夜中々寝付けなかった反動か、今はすっかり熟睡状態だ。枕に柔らかそうな頬を埋めて、再び悩ましげなかわいい声を漏らす。
「うぅん……やっぱり……シーフードかなぁ……」
――どんな夢見てんだよ。
思わず心の中で尋ね返してしまう。
今雫の頭の中に投影されている景色には微塵も想像が及ばないが、その横顔を見た限りでは実に楽しそうだった。その夢の中の笑顔であろう彼女の傍に、果たして自分の姿はあるのだろうか。
ないだろうな、と大翔は思う。自分が雫に対して、笑顔にしてあげられるようなことができるはずもない。自分は雫のことを、悲しませてばかりだ。
昨日のことだってそうだ。雫に木ノ葉との電話の内容を聞かれた。そのことで雫をより一層追い詰めてしまった。それから何とか誤解を解き、その結果として、雫が独りでに作り上げていた罪悪感の山崩れから、少しばかり抜き出してあげることができたが、一歩間違えればとんでもないことになっていた。もしかしたら、雫はもう二度とバスケットシューズを履くことはなかったかもしれない。いや、今だって結構危うい状態にある。彼女の体を取り巻く罪悪感の土砂を一掃するには、もう一押しも二押しも必要だと思う。
そしてそのためには、女子バスケ部のキャプテン、山瀬先輩たちの協力が必要だとも思う。大翔がいくら言ったところで、その真意は雫には届かないだろう。山瀬先輩たち自身から、雫に言葉をかけて貰うしかない。
でもその前に、と大翔は嘆息する。
自分は自分で、しっかりとけじめをつけなければならない。
正直今、木ノ葉先輩たちと顔向けすることには、もの凄い抵抗がある。それでも学校に行けば、顔を合わせることもあるだろう。現に昨日だって、百合ヶ丘と図書室で会ったところだ。
それを考えると、学校に行くのは少しばかり億劫だ。このまま雫の傍にいる方がどれだけ楽かと思ってしまう。
でもそれではダメだとも分かっている。自分がこのままでは、きっと雫もこのままだ。自分が土砂に埋もれたままでは、そこにいる雫を引き上げてあげることも出来ない。まずは自分が抜け出さなくてはならない。
大翔はぐっと力を込める。
もう逃げるのはやめよう。先輩たちと顔合わせるが怖いからって、修からの食堂に食べに行く誘いを断るのなんかやめよう。たとえ赦して貰えなくてもいい。とりあえず謝って、その先はその後考えよう。
コン、コン、
ノック音がした病室のドアの方に顔を向けると、数センチだけドアをスライドさせてこちらを覗く目があった。そのわずかな隙間だけでは顔の判別はできないのだが、こんな子供っぽいことをする人物というのも限られている。
「どうぞ」
大翔が呆れ気味に言うと、入ってきたのは予想通りの雫の母親である恵だった。「おはよ~、雫のこと一晩中看ててくれたんだね」微笑みながら、『一晩中』を強調して恵は言った。大翔は真剣にはとりあわず、
「何しに来たんですか」
「私とひろくんって、用も無しにあっちゃいけないような仲だったっけ?」
恵は色っぽくシナを作る。その表情と声色に不覚にもドキッとした。やっぱり親子、ときどき表情のとりようで驚くほど雫に見えることがある。いつの日か雫がこういう色っぽい仕草や言葉遣いを身に着けたりしたら、自分は心臓を急き立てっぱなしになってしまうんじゃないだろうか。
硬直したままの大翔を見ると、恵は満足げに笑った。
「ふふ、冗談冗談。でも、そんな顔されたらついからかいたくなっちゃうのよね」
「で、何しに来たんですか」
辟易しきった顔で大翔は同じことを聞き直す。
「むぅ、ひろくんのいけず~。わざわざこれ持ってきてあげたのに~」
可愛らしく頬を膨らませている恵の手に提げられていたのは、よく見ると自分の制服と学生鞄だった。どうやら学校への持ち物を持ってきてくれたらしい。
「あ、すいません。ありがとうございます」
「ううん、これくらい気にしないで。雫のお世話してもらってるしね」
「いや、お世話なんてほどじゃ――んあ! なにこれ重っ!」
受け取った学生鞄の予想外の重さに、大翔は素っ頓狂な声をあげてしまう。
「ああ、学校で使う分の教科書がどれかとかわかんないから、本棚にあるの全部詰め込んじゃった」
「げぇ……」持ってきてもらっておいて何だが、ありがた迷惑にも程がある。「使う分は全部学校に置き勉してるんで、ぶっちゃけ筆箱だけでよかったんですけど」
「わ、ひろくん予習とか復習とかしてないの?」
言われ、大翔は少しばかり思考を過去に巡らせた後、
「高一の六月くらいまではしてました」