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通話の途切れた携帯をうろんな目で見つめつつ、木ノ葉之平はそっと息をついた。
「どうだった?」
向かいに座っている百合ヶ丘が尋ねてくる。
切実な目で、何かを期待する子供のような目で。
「どうだろうな。言うべきことは言ったけど、これでチャラにできたとは思えないな」
言いながら、休憩室の前方に据え付けられたアナログ時計に視線をやる。五分遅れているその時計が指し示す時刻は、授業開始時刻のほんの六分前だった。木ノ葉は手早く机の上の包装類を片し、予習用に広げていたノートを鞄に突っ込み、立ち上がる。
「行こう」
「このままにしておくの? ひろっちのこと」
木ノ葉が立ち上がっても、百合ヶ丘は椅子に腰を下ろしたままだった。とうの昔に空になってしまったはずの野菜ジュースの紙パックを、大事そうに両手で抱えたままだった。
「そんなわけないだろ」
息を吐きつつそう言うと、百合ヶ丘は顔を上げる。
木ノ葉はゆっくりと続けた。
「今度はちゃんと会って話してみる。これでもキャプテンだしな。来年そのポジションを担って貰おうとしている奴を、このままにしておくわけにいかないだろ」
すると百合ヶ丘の顔が少し穏やかになった。その肩にポンと、木ノ葉は手を置く。
「アイツのことは任せろ。絶対何とかするから。それより早く三階に行こう。授業始まる」
「うん」
百合ヶ丘はうたれたように反応するとテキパキと辺りを片付け、二人は休憩室を飛び出した。今にも消えてしまいそうな弱々しい明かりを放つ裸電球の元、階段を駆け上がる。そんな折、
「そう言えば、さ」
「え?」
唐突に上るスピードを緩め、木ノ葉は、百合ヶ丘に顔を直接向けずにそう言葉をかける。百合ヶ丘の背後にあった四角く切り取られた窓の向こうの空は、少しだけ雨足が弱まっている気がした。
「飛永は、中二のときにこっちに転校してきたんだよな」
「あ、うん。確かそう言ってたね」
百合ヶ丘は頭の中で反芻するように、そう言った。
木ノ葉は続ける。
「しかも親御さんの元を離れて、従妹である天野の家で暮らしてる。つまりアイツの転校の理由は、親御さんの仕事の都合だとか、そういうよくある理由じゃなかったってことだ」
最初はよくわからないと言った顔をしていた百合ヶ丘だが、やがて思い当ったように、目を見開いて顔を上げた。
「でも、じゃあ」
階段の先にある三階の教室からネイティブな英語が聞こえてくる。もう授業は始まっているらしい。英語教師であるアメリカ人、ニコルさんはいっそ気持ちいいくらいの気分屋だ。授業の開始時間終了時間にはとことん無頓着。でもそれ以上に生徒に対する思い入れは強く、授業の質もピカイチで、英語の成績に悩んでいると誰かから聞いた時には、木ノ葉は常にこの先生を勧めるようにしている。そして早速ニコルが何かジョークでも言ったのか、わっ、と弾けた笑い声が古ぼけた建物に反響した。
「飛永は、どういう理由で転校してきたんだろうな」
ずっとずっと、心の片隅で気にかかっていたこと。
でも何となく触れてはいけない気がして、結局一年と数か月間、見て見ぬふりを続けてきた飛永大翔の過去。
「アイツが人並み以上に思いつめていることに、なんか、関係あんのかな」
もし、そうだとしたら。
自分がやるべきことは一体何だろう。
飛永大翔が木ノ葉之平にして欲しいと望むこと、その境界線を見誤ることは許されない。
深入りするつもりはないが、それでも可愛い後輩を、このままにしておくわけにはいかないと思う。キャプテンとして、自分は一体何をするべきだろう。
「実はさ」
そんな思考を断ち切るように、百合ヶ丘が呟いた。そちらに顔を向けると、彼は何かを決意したような表情でこちらを見上げていた。
「ゆっきーに、一つ相談があるんだ」