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Run&Gun&  作者: 楽土 毅
第二章 心の天気
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27

 雫は無意識に近くにあった空き缶用のごみ箱に体をぶつけてしまっていた。中で缶がぶつかりあう音が有象無象に反響し、それは決して小さくない一つの騒音となって、辺り一帯に容赦なくばら撒かれる。

 その音に気付いたのか、大翔が壁の向こうからこちらに顔を覗かせた。


 視線がぶつかる。

 心臓が跳ねた。

 そして、雫は自分が泣いていることを思い出す。


 大翔の顔がたちまち撃たれたような顔になる。彼の持っていた携帯が手から滑り落ち、カタカタ、と数回跳ねた後、床をいくらか滑った。


 その携帯が動きを止める頃には、雫は走り出していた。

 途中でスリッパが脱げてしまったことも捨て置いて、雫は自分の病室を目指して懸命に走った。息が苦しい。一瞬発作の前兆かと思ったけれど、どうやら違うようだった。大翔に対する罪悪感がどうしようもなく膨れ上がって、胸を締め付けているのだ。


 やがて至った病室に飛び込み、雫は閉めたドアに背を預けた。高鳴る鼓動を収めるために深く呼吸を重ねる。着ていた服の袖で涙を拭い上げる。


「雫、開けてくれ」


 それから数秒も待たずに、ドアの向こうから大翔の声がした。どうやら自分の後ろを追いかけて来たらしい。


 雫は体を反転させ、両手でドアを抑える。鍵はかけられないようだった。一通り見てみたが、鍵なんて見当たらない。白く真っさらなただの一枚の壁だった。

 その壁に手をついて、雫は幼子のようにただ一言。


「やだ」


 こんな些細な壁一つ乗り越えているのか、それすらも怪しい細い小さな声だった。

 それでも大翔は、その言葉をちゃんと聞き取ってくれていたようで、


「雫、さっきのは――」

「ごめん。今日は、今日だけは、お願いだからそのまま帰って。今私、ひろちゃんのこと、まともに見れないから」


 紡ぎ出す言葉が涙に震える。そのことが余計惨めで、両手で懸命に抑え込んでいる口元から漏れ出る嗚咽は、いくら願ってもしばらくは収まってくれそうにない。


「違うんだ。聞いてくれ。俺たちが試合で負けたのは俺のせいだ。お前が責任を感じることなんて何もない」


 その言葉に関して言い返したいことは山ほどあったけれど、漏れそうになる嗚咽を抑え込むのに精いっぱいで、とても声を発せられるような状態ではなかった。

 そんな中、大翔は続ける。染み入るような穏やかな声で。


「本当に、ごめん。俺が不甲斐ないせいで、お前に余計な責任感じさせた。でも、頼むから、そんな風に思わないでくれよ。顔も見れないなんて悲しいこと言うなよ」


 その優しい言葉は、今の自分にとって、もはや刃物だ。更なる罪悪感を募らせるばかりだ。

 あの試合の日、風高女子と大城の上女子の試合のハーフタイムのとき、雫は少しだけ大翔と会話した。発作の症状が出始めていたときのこと、大翔が心配そうに声をかけにきてくれた。


 その時の大翔は少し戸惑っていたけれど、分かれ際は何だかんだで良い顔をしていた。試合に向け、彼は準備万端なのだと思った。

 しかし、実際の試合――ビデオで見た大翔の顔は、終始こわばったままで普段の大翔とまるで違っていた。どう見ても尋常じゃないくらいに動揺していた。


 あのハーフタイムと、実際の大翔の試合。

 その間にあったことと言えば、雫が救急車に運ばれたことくらい。


 それが、大翔の戦意を剥ぎ取ったのに違いないのだ。いらぬ心配を与えて動揺させたに違いないのだ。


「もう私……どうしたらいいかわかんないよ……」


 ようやく言えた言葉は、謝罪の言葉ではなく、むしろ救いを求めるような言葉だった。

 この期に及んで自分は、と心の中で思うが、一度言い出したら止まらない。


「私のせいで、山瀬先輩たちの夏も、木ノ葉先輩たちの夏も、ひろちゃんたちの大切なインターハイへ行くチャンスも、全部、全部、わたし一人で…………終わらせちゃったよ。こんなの謝って済むものじゃないし、もう、どうすればいいか――」


 瞬間、一息に目の前のドアが開け放たれた。

 雫は俯けていた顔を上げようとする。

 しかしその頃には、雫は大翔に抱きしめられていた。


 身長差の関係で、雫は自分の顔を、大翔の胸に埋める形になった。大翔の右手が雫の後頭部に回される。左手は雫の首を過ぎて左肩にそっと置かれていた。

 そして大翔は、自分の耳元でそっと口を開く。


「大丈夫だよ。そんなこと誰も思ってやしねぇよ。山瀬先輩たちも、木ノ葉先輩たちも、みんなお前の体のことだけを思ってくれてる」

「で、でも……」

「お前は死ぬかもしれないような病気を押して、みんなのために頑張ったんだろ? そんなこと、誰にでもできるようなことじゃない。お前は、すげぇよ。本当によく頑張ったよ。苦しかっただろうにな」それから少しだけ、大翔は間を置いて「それなのに、お前はまだ苦しみ続けるつもりなのか?」


 耳元でそんな風に問いかけられては、思わずその優しさに溺れてしまいそうになる。

 でも、自制しなくてはと思う。その温かみに甘えてはいけないと思う。


「でも、理由がどうでも、事実として、私のせいで……」

「お前が苦しんでるのを見るのは、みんなもっと苦しいんだぞ」


 時が止まった気がした。

 背後の窓のすぐ向こうにある本降りの雨の音を、どこか別の世界の出来事のように感じた。


「少なくとも俺は、たまらなく苦しいんだ」


 大翔の体が離れた。それでも、顔を上げるとすぐそばに彼の顔があった。

 その目じりに浮かんでいる涙は、あの二種類の果たしてどちらのものだろうか。

 そして、今自分の目から再び零れようとしている涙は、まださっきと同じく惨めさを増幅させるだけの悲しい涙のままだろうか。


 違う、かもしれない。

 少しだけ胸の奥のつかえがとれた気がするのは、もしかしたら気のせいではないのかもしれない。


「ひろ、ちゃん……」

「とりあえず、ベットに戻れ。落ち着くまで休んでろ」


 そう言いつつ、大翔は微笑みを交えて雫の頭をガシガシと撫でてくれる。それから踵を返して病室を出て行こうとする。


 もしかして、もう帰るつもりなのだろうか。

さっきまでそれを自分から主張しておいて、雫はそれが嫌だと思った。今日は、今日だけは、一緒にいて欲しいと思った。そんな期待を込める目で、


「もう……帰るの?」


 雫がそう尋ねると、大翔は顔だけチラッとこちらに向け、困ったように笑いながら、


「携帯と、お前のスリッパ、取りに行ってくるだけだよ」


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