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各フロアの角の開けた場所は入院患者やそのお見舞いに訪れた人々の憩いの場となっている。今も小学校低学年と思しき女の子と、そのお母さんと思しき女の人と、入院しているらしいお父さんと思しき男の人が、楽しそうにお喋りをしていた。
それを横目に、大翔は廊下を突き進む。
突き進んだ先の、自動販売機の並ぶ壁の向こう側、空き缶空き瓶用のごみ箱が無造作に並べられている一角へと回り込み、大翔はその足を止めた。
回り込んだ壁にゆっくりと背を預ける。そうしないと、ふらついて倒れてしまいそうだった。
そして大翔は、未だに震え続ける携帯電話に視線を落とすが、
「…………」
携帯の受話ボタンに添えた親指は頑として動かない。
もう今自分がいる場所は電話で会話することも許されている区画だ。つまりはもう自分がその着信に応えられない理由は無い。すぐにでもその電話には出るべきだ。
しかしなぜかそんな簡単なことが、今の大翔にはできない。押せ、押せ。心の中で幾度となくそう唱える。しかしその片隅で早くその着信音が途絶えることを待ち望んでいる自分がいることはもはや疑いようがない。
しかし、その着信が打ち切られた後に自分の方からかけ直すことも、それはそれでとてもハードルが高いことだと大翔は理解する。深く、深く深呼吸。
ピッ、
押した。
心拍数が跳ね上がる。呼吸することもままならず、何を喋るべきなのかなどと考える余裕はすでにない。
時間的には一秒にも満たない空白だったろうが、一言目を紡ぎだすのにとてつもない間を開けてしまった気がした。
「もしもし」
『おお、飛永。今大丈夫か?』
木ノ葉だった。
バスケ部のキャプテン。自分の尊敬する先輩。
それでいて心が広く、一緒にいてとても居心地のいい先輩。
しかし今はその声に怯えずにいられない。右手で耳元に添えている携帯が鉛のように重い。普段なら考えずとも次々と出てくるはずの会話の糸口が、どこを探り散らしても一端も見当たらない。
「大丈夫です」
とりあえず一言、そう答えた。
『今家か?』
「いや、病院です。今天野のお見舞いに来てるんです」
『そうか。で、もう大丈夫なのか、あの子』
大翔は少し考えて「はい。手術はまだですけど。心配することはないです」本当はもう少し混み入っているけれど、安心させられる言葉だけにした。
『そりゃよかった』
木ノ葉の穏やかなため息が電話越しに聞こえる。それで、自分が思っていた以上に気にかけてくれていたことが感じ取れた。その証拠に、
『これでも結構心配してたんだ。でも学年も違うし、俺がお見舞い行くのもどうだろうと思ってな。山瀬たちに聞いてもよくわからねぇし。あいつら「心臓がヤバいらしい」ってことしか理解できてなくて、無駄にパニック状態になってんだよ』
山瀬、というのは女子バスケットボール部のキャプテンだ。
そして木ノ葉と同じ三年生。つまりは雫の先輩。
「そうですか、心配ないって言っておいてあげてください」
『わかった。ちゃんと言っとく』
そう言う木ノ葉の声色が、最初より少し柔らかくなっている気がした。もしかしたら、向こうも電話をかけてくることに緊張していたのかもしれない。
しかし大翔の方の緊張は未だ途切れないままだ。まさか、雫の病状を聞くためだけに電話してきたわけではないだろう。そう確信できるだけの思い当る節が一つある。
『で、話変わるんだけどさ』
背後で自販機からジュースがガコンと落ちる音、女の子と母親の笑い声。
『百合ヶ丘に聞いたんだけど、お前、謝ったんだってな』
――ああ、やっぱりだ。
大翔のこめかみを冷たい汗が伝う。
木ノ葉と百合ヶ丘が同じ学習塾に通っていることは知っている。そして今日がその塾の授業日であることも知っている。確か英語と数学。大翔が少し前に、英語の成績が下がったことを愚痴交じりに告げたとき、木ノ葉は、夏休み中にその塾で開かれる夏季講習を受けることを勧めてくれた。それでその授業が気に入れば、そのまま塾に入っても構わないし、気に入らなければそれきりにしてしまえばいい。恵さんにも、三年生になるまでには、雫と共にどこかの塾に入ることをそれとなく勧められている。そろそろ、進学のことも真剣に考えなければならない時期だ。
『俺たちのうちの誰一人だって、お前のせいで負けたなんて思ってねぇぞ』
仮に木ノ葉が優しい先輩でなくて、思ったことは言わずにいられないような人で、お世辞も言えない、優しい嘘もつけない、そんな人だったなら、今の一言で自分は救われていたのだろう。
しかし、皮肉にも。
木ノ葉は優しい先輩で、思ったことでも言わない方が良いことはちゃんと胸の中にしまっておける人で、必要ならお世辞も言えるし優しい嘘もつける人だ。
ひどい言い方をしてしまうなら、木ノ葉のその言葉はあまりにも軽い。
いっそ「お前のせいで負けた」と罵倒してくれた方が、ずっと楽になれるような気がする。