21
加寿美たちと別れて、大翔は二階の男子便所に向かった。
清潔感漂う手洗い場を通り過ぎ、一番奥にある洋式便所の個室に入り、特にもよおしているわけでもないのにズボンとパンツを降ろして、腰を冷えた便座に下ろした。それからだらんとうなだれる。
――俺、なにやってんだろ。
心の底からそう思う。
加寿美の主張は真っ当だ。自分のやっていることには何の生産性もない。雫の前では元気に振る舞っていたつもりだったのに。彼女はそんな自分をすっかり見抜いてしまっていた。
情けない、恥ずかしい。そんな感情がぐるぐると渦巻いている。穴があればそこに入って、上からフタをして貰いたい気分だ。今こんな風にトイレの個室に隠れこんできているのも、一種の恥辱からの退避行動なのかもしれない。そう思うとますます情けなくてたまらなくなる。
――こんなんじゃダメだ。
自分がマイナス思考気味なのは、自覚している。
だが、これでもだいぶマシになった方なのだ。
そして、そういう方向に自分を導いてくれたのは、他でもない雫。そんな彼女を、自分の方へと引きずり込むような真似はしたくない。
――とにかく、雫のとこに行こう。
大翔は加寿美にやられた以上の力で頬をはたいた。それから個室を出て、手洗い場でばっしゃばっしゃと顔を洗い、拭くものを持っていないことを思い出して少しだけ後悔する。出来るだけ手で水気を払って、ぶぃーんとジェットを蹴立てる乾燥機に手をかざし、それを繰り返す。
――笑顔、笑顔、
手洗い場の鏡に写る自分に向かって、大翔は会心の笑みを送った。その笑顔はぎこちないし、さわやかさも微塵もない。でもそれでも、昨日の自分よりは少しマシかもしれない。
雫と顔をあわせるほんの十数分だけでいいのだ。その間だけは、雫を安堵させるに足る元気な飛永大翔でいたいと思う。
「笑顔だ、笑顔」
今度は声に出してみる。
そんな折、背後の扉が突然開いて、入ってきたサラリーマン風の男の人と鏡越しに目が合う。その人が少し気まずそうに会釈してきたので、大翔は顔を真っ赤にしながらぎこちなく頭を下げた。
三0七号室。
大翔はその病室の前で深呼吸してみる。
それから精一杯の笑顔を作り上げた。
そのタイミングでたまたま隣の病室から出てきたおばあさんが、自分の笑顔を横目に見て、思わず身を竦ませていた。不審者を見る目だった。別に取って食いやしないよ。
そしてコンコンと、ドアを叩く。
すると中から「はい」と雫の声が返ってくる。
そんな当たり前のことに胸を高鳴らせてしまう。
――笑顔、笑顔。
もう一度心の中で呟く。
自分の好きな人の前でくらい、嫌なことは忘れよう。
そしてスライド式のドアを横に引く。
「し、しじゅく!」
思いっきり噛んでしまった。
そのまま舌を噛み切って死んでやろうかと思った。
出鼻でいきなりつまずいてしまったものの、今更開け放ったドアを閉めるわけにもいかず、大翔はそのまま中へと入る。そして、
「あ…………ひろちゃん」
ひとたまりもなかった。
ベッドの上で上半身を起こしていた雫の目は、今にも泣き出しそうなほどに潤んでいた。
その瞬間に、大翔は二の句が継げなくなる。
喉がすぼまって声が出ない。
昨日の「あんまり元気のなかった雫」とは比べものにならない、それほどに彼女の二つの目は深海のように沈んでいて、漏らす声は儚げで、いつもなら太陽のような温かで快活としたオーラを放っている雫からたった今放出されているのは、部屋の窓の向こうに広がる鬱々とした雨空のようだった。
胸がギュッと締め付けられる。このまま雫を放って置いたら、消え行ってしまいそうだ。それほどの危うさがある。
こんな状態の雫を、自分は今日一人きりにするつもりだったのかと思うと、ぞっとする。
「体は大丈夫か」
何とか動揺を顔に出さないようにして、大翔は雫に笑いかける。それから雫のベットの傍にあった丸椅子に腰を下ろした。その座面がほんのりと温かい。加寿美か誰かがついさっきまで使っていたのだろう。
「うん、もう発作も出てないから。へいき」
「そっか」
そう言いつつ頷く大翔を見ながら、雫は口角を微かに上げる。雫の方もどうにか笑おうとしているようだった。そんな些細な殊勝な行動が大翔の胸をより一層強く締め付ける。いっそのこと泣きじゃくってくれた方が、と思ってしまうほどだ。
「さっきまで、くわちゃんたちも来てたんだよ」
「うん、さっき下で会った」
くわちゃん、と言うのは加寿美のあだ名だ。加寿美の〝加える〟から来ているらしい。女子バスケ部の大半は彼女のことをそう呼んでいるようだ。
「でもくわちゃん、今日ひろちゃんは来ないって言ってたけど」
「あ、うん。毎日来るのもアレかと思って。最初は今日来ないつもりだったんだ」
言いつつ、大翔は自分で自分のことより一層嫌いになる。アレってなんだ? ただ単に雫と顔をあわせるのが怖かっただけじゃないか。
そんな内心をよそに、大翔は背中から下ろしたナップザックを軽く掲げ、
「でも、恵さんに着替え持って行くように頼まれてさ」
「あ、そっか。そう言えば制服じゃないし。一回家に帰ってから来たってこと? ごめんね、こんな雨の中。濡れてない?」
「うん、合羽で来たから」
そして大翔は持ってきた雫の着替えを渡す。
ナイロン生地の袋に一まとめに入れたものだ。「ありがとー」と言いながら雫はそれを受け取って、中身を取り出す。そしてしばらく物色したのち、
「あ、あれ?」
雫はそんな声を漏らした。
「え、なに?」
大翔はたちまち不安になる。
その着替えを選んだの他ならぬ自分だ。気に入らないものでも入っていたのか、それとも必要なものが入ってなかったのか。どっちにしろ中身に問題があったに違いない。
やがて雫は大翔の方に目を向ける。彼女は少し頬を赤らめて、
「お、お母さんってば、下着、入れ忘れてる」
大翔は静かに天井を仰いだ。
いくらテンパっていたとはいえ、自分がいかに愚かだったかに気づいた。着替えと言えば下着こそもっとも重要ではないか。むしろ他の服ならば数日くらいは着まわすことができても、下着はそうもいかないだろう。ましてや雫は女の子。他の物を差し置いてでも下着は用意すべきだった。
「わ、悪い。忘れてた」
大翔が右手で自分のこめかみの辺りを押さえながら、雫に向かってそう言うと、
「や、ひろちゃんが謝ることじゃ」
「それ、選んだの俺なんだ。恵さんに頼まれて。で、下着入れ忘れた」
「あ、そういうこと……ええっ⁉」
途中で言葉を切って、雫は素っ頓狂な声をあげた。
大翔は、顔をあげて雫の方を見る。彼女の顔は真っ赤だった。それを見て自分が少し危うい発言をしていたことに気づく。
「あ、や! 大丈夫、俺そっちは全然見てないから!」
言い訳がましくそう説明するが、雫は顔を赤くしたまま俯いてしまった。そしてベットの布団を体を覆い隠すようにじりじりとかき集める。そのいじらしい行為が、大翔の背徳感をより一層掻き立てる。
「ごめん、俺も勝手に服漁るのは悪いと思ったんだけど」
「ううん、ひろちゃんは悪くないよ。お母さんが……バカだよ。ひろちゃんに私の下着を選ばせようとする……なんて……」
雫の声も最後には、窓の外の雨音にかき消されてしまった。
とてつもなく気まずい。しまった。どうせもう今更仕方のないことなのだから、自分が選んだなんてことは雫に言うべきじゃなかった。それを言って一体誰が得をしたというのだろう。
しとしとと降り続く雨。病室の扉の向こうから、微かに聞こえてくる見知らぬ誰かの楽しげな話し声。病棟の傍の駐車場でバイクのエンジンがふかされる。踏切の音。数台の車両が連結された電車がレールを手繰る音。それらの細やかな音の一つ一つを、綺麗に聞き取ることができる。
――くらいに空気が凍りついていた。