3-7 心の内側②
コンコンとノックすると、中から雫の声がした。
「はーい」
「俺だけど、入っていい?」
「うん、大丈夫」
それから一拍置いて、大翔は雫の部屋の扉を開けた。
彼女は、部屋に置いてある水槽の前にいた。
よくある光景だ。
ザリガニの水槽、川魚の水槽、熱帯魚の水槽、それらの前に椅子を置いて、ただぽうっとその生き物たちを眺めている。
テレビを見たり漫画を読んだりするより、それが一番楽しいのだそうだ。
「どしたの?」
その水槽から、顔をこちらに向けて雫は尋ねてきた。軽く微笑んだその表情は何らいつもと変わりない。
「洗濯物。恵さんが持ってってくれって言うから、持ってきた。どこ置いとく?」
「あ、ありがとー。もらうもらう」
雫は椅子から立ち上がり、とんとん駆けてきて俺の手から洗濯物を受け取ろうとした。
「あ、下の方は俺の分だから」
「はーい。この辺かなぁー、っと」
より分けは上手くいったようだ。雫は自分の分の洗濯物をそのまま近くにあった勉強机の上に移した。
さて、これからどうしたものか。
用は済んでしまったし、このまま部屋を出ていくのが自然な流れであろうが、それはよろしくない。恵さんにお願いされたこともある。何か話をしなくては。
そう思ったときだった。雫は再び水槽の前へと歩いて行き、その中を指差しつつ、もう一方の手で大翔を手招いた。
「ひろちゃん見て見て。この子たちだいぶおっきくなったんだよ」
「へー、どれどれ」
大翔は雫の指差す水槽の前まで寄って、その中を覗きこむ。中にいたのはまだ全長五、六ミリほどの稚魚だ。
「え、大きくなってるか? 前とそんな変わらなくね?」
「なってるよ! 超なってるよ! もっとよく見て! ほらこの子なんかもう私の小指くらいある」
生き物の話になると途端にテンションが上がる雫である。大変かわいくてよろしい。
「これって先週生まれた子たちだよな。カダヤシだったっけ?」
カダヤシ、とは魚の名前だ。一見するとメダカっぽいが、お腹がぽっこり膨れているのが特徴である。
ちなみにこの魚は外来種だが、今では普通に日本の川にいる。この魚の親たちも雫が近くの川から捕まえてきたものだ。
「そう、そうそう! すごいひろちゃん、ちゃんと覚えてくれてる!」
「まあそりゃあな。結構衝撃的だったし。卵じゃなくそのまま子供で生まれてくるなんて思いもしなかったから。卵胎生つったっけ?」
「ああ! ああぁ! もうひろちゃん完璧だよ! もう立派なアクアリムヌニス、アヌ……」
「アクアリストだろ。別にそんな言いづらくないぞ。落ち着け」
苦笑いでそう宥めるも、雫はさらに興奮していくばかりだ。
そりゃあこんなに喜んでくれるんだもの。生物の知識なんていくらでも入る。というか正直この笑顔を見るためだけに覚えていると言っても過言ではない。
ただ残念なのが、自分の理科の選択科目が生物ではなく物理であることだ。学校の成績にはまったく反映されない。
ちなみにだが、雫はもちろん生物選択だ。
全般的にはあまり成績のよろしくない彼女も、生物だけは毎度成績上位である。
ここだけの話だが、将来の夢は水族館の飼育員なのだそうだ。特別にひろちゃんだけには教えてあげると言って教えてくれた。
本当に心から、その夢が現実になってくれたらなと思う。
――と、今は将来のこと考えてるときじゃねぇな……。
目下問題となっているのは、今回雫が代表選手に選ばれなかったことについてだ。
正直彼女が選考から外された理由については理不尽としか思えない。
雫はあの夏の総体で試合中に発作を起こし、意識を失った。
それは確かに重大な事態だった。
しかし今やその発作の元凶だった部位を焼いて除去する手術を済ませ、成功している。
経過観察を行い、練習も再開している。もう一度あのような悲劇が起こるなんてことは考えにくい。
よって、その決定は客観的にも不当であると言ってよいだろう。
しかし、おかしいのはそこだけではない。
その決定に最も憤りを感じてしかるべき雫が、何の異を唱えるでもなく、それを受け入れているのだ。
もし彼女が本当に、心の底からそれでいいと思っているのなら、自分も何も言うつもりはない。
どうせもう覆しようがないのだから。
むしろそれを考えるならば、雫の対応は正しい、大人な対応だと言えるだろう。
でも、本当にそうだろうか。何か無理をしてるんじゃないだろうか。そこだけが唯一の気がかりだった。